歴史の歪み

    かつて古い神話や伝説においては永遠の生命をその時代の王が求めていました。しかし、それらの結末はいつもその理想の断念であり、人間的な教訓を現代の人々にも伝えてくれています。

    形は違えど、時が流れ、現代に至っても、例えば世界の多くの国歌には王の威光や国家の平安や繁栄が永遠であるようにとの願いが込められているのが見受けられます。それは死の結末を避けられるかも知れず、この世には永久に続くものがあるはずだという楽観的な思いを私に少なからず抱かせるものですが、そういった祈りの声を聞きつつ、古い伝説の顛末を読むと、しばしば私は「しかし」とも思います。伝説に伝えられている古い時代の人々はもちろんのこと、これまで歴史上で、いかなる敗北や挫折も味わったことのない国や民族が存在するだろうかと考えてしまうのです。少なくとも私はそういった存在を知りません。どれだけ経済や軍事、情報技術、その他芸術や高度な哲学を有していたとしても、人間の所有物は人間の不完全性に基礎付けられていると思います。純潔や完全を求め、それに近づき、ついに手に入れたと思えても、どのような人間の国や民族も決して、その純潔を保つことがありませんでしたし、これからもないはずだという思いが勝ります。そういったことを考えると、全くあり得ない理想を現実として考えているような気がして、私の内に歪んだ感情が沸き起こってきます。

 どのような栄華も理想も敗れ去る定めにあるとして「盛者必衰の理」、あるいは、「この世に永遠はない」などと言葉にして言うけれども、それを実際のこととして受け入れるには、まず現実と感情の溝を埋めることから始めなければならないというところが人の性の難しさなのでしょうか。それぞれの国や民族に言いようのない悲しい歴史があり、それが現在や将来に渡って影響を残します。それは個人が自覚し得ないような領域の深層意識───自らは理想や純潔など願ってはいない、そういった同一性からは無縁だと考えている人の心───をも歪ませ得るものだと私は考えています。きっと、それは私自身も例外ではありません。

 例えば、ある一つの組織があったとします。それは社会問題の真実の情報を追及する組織だとします。それはどのような立場に対しても、分け隔てなく追及する旨の理念を標榜しているとします。まず活動に先立っては、その活動を行う組織の運営には資本が必要になるでしょう。しかし、その資本が他の存在におもねっている場合、組織の理念である真実の追及は資本があって初めて可能になるのであり、組織の支援者に対しては否定的な態度を取れなくなるはずです。その際、真実の情報を追及する組織は自身の運営と分け隔てない理念の二律背反の裂け目に嵌ることになります。その影響は組織に所属している人にも及ぶことになるだろうと考えられます。もし、その中の一部の人物が理念を守るために行動し、それが支援者にとっての不都合な真実であるならば、この組織の不都合も受け入れなくてはならなくなります。それが生きるか死ぬかの問題であるとき、その人物は自らの行動の前提を問われていることになると思います。

 この話は国や民族ではありませんが、ある理念を組織において同一化しようとすると、どのような集団であったとしても、このような立場になることは避けられないのではないでしょうか。いわば毒が体内の細部にまで入り込み、そして、それを取り除くことが困難なために、その毒との共存を目指さなければならない状況です。自らを痛めつけ、蝕むものとわかっていながら、それを容認することは自殺的でありますが、しかし対抗することは無意味です。できることと言えば、誤魔化しの健康を演じるか、どうしようもなく苦しんでいく姿を体現することだけです。私はそのような状況を生きること自体が歪んだ悲しい歴史なのだと思います。向き合うならば、自ずと挫折感や敗北感に苛まれることになるでしょう。

 一つの独立した国や民族は独立した価値を有していると自身を信じ続けなければ、成立し得ません。実際にはそうでない事象を認めているとしても、自らの純潔をなおも信じ、求め続けなければならないことは現実に反していると私は思います。しかし価値の同一性と永生への求めが前提であり理想であるならば、この毒の隠喩の物語は反転し、むしろ毒を取り入れることで、永遠の生命を求めるという歪んだ歴史が始まるのかも知れない───それを正そうとするなら、すでにその歪みに取り込まれていることを知らざるを得ない苦しさを私は感じました。