反悲劇

 日頃から私は理性的な調和を以て生活しようとしているのですが、そのように心掛けると何か満たされない感情を自らに感じます。どこからか隙間風が吹き抜けていくような───ふと心にぽっかりと穴が空いたような、そのような感覚に囚われることがあります。その感覚は何か自分の中から埋め合わせのできない大切な感情を失ってしまったかのような冷たさがあり、そのことに自分自身で気づくとき、私は温かな感情を少しだけ思い出そうと試みます。


 現在、私は主体的な自由が許され、またそのように生きることが推奨されている市民社会に属していますが、冷静で落ち着いた市民の自由な理性を尊重するならば、日々の生活において、比類なき明快な価値以外のあらゆるものを疑い、正しく大まかな因果関係が確認できなければ、感傷を控えなければなりません。例えば世の中には悲劇の物語がたくさんありますが、そのような同情や共感を迫る感性からはある程度の距離を置き、他の事象と相対化しながら、冷静にその物の判断をしなければなりません。つまり安易な感情移入は避けなければなりません。このような視点から世の中の悲劇に対する同情や共感を吟味すると、もし悲劇が認められるとしても、それが世の中において、どれだけの意義があるのかという冷静な合理性に基づいてのみあり得ると思います。私もまたそのように世の中で起きる様々な悲劇を観ています。ですが、その代償として私は世の中の悲劇に対して、素直に心を寄せることができずに人の正直な悲しみに共感する能力を失っていくのです。それでも、そのような態度でなければ、この現実を生き抜くことはできないこと───それ目を反らしてはならないことがこの現実の反悲劇性だと私は考えています。現実を見つめようとする限り、反悲劇の態度が私の心のどこかに育まれてしまっているのです。


 読者の方は、悲劇と謳われている物語に接して、その悲劇を悲劇とそのままでは認めがたい、受け入れがたく思う様な感覚に囚われた経験はあるでしょうか。どこか偽善めいて見えたり、疑わしく見えて、違和感や拒絶感を示してしまったりする感覚です。意地が悪いと言うべきか悲劇と謳われていればいるほど、その感覚は強まっていくもので、例えば世に名高い悲劇の傑作として知られているギリシャ悲劇中の名作であるソフォクレスの「オイディプス王」という作品がありますが、私はこれを大した悲劇と認めることができないでいます。


 ソフォクレスの「オイディプス王」はギリシャ悲劇を象徴する作品とみなされていますが、物語は危機に陥ったテーバイの都市国家を救済するよう市民たちが嘆願する場面から始まります。嘆願が向けられているのはテーバイの王であるオイディプス───コリントスの王ポリュボスの息子でありながら、かつて危機に遭ったテーバイを救い、その地の市民から王と呼ばれることになった男───です。彼は自ら現れ出て、王として市民たちの願いに応えようとするのです。災禍に際して思案の末にオイディプスは真実を知るアポロンに神託を求め、その神託に従い、また再び危機の国を救おうとするのでした。やがてオイディプスの元に神託が告げ知らされます。その神託とはテーバイの国はオイディプスの前の王であるライオスが不正な業で殺されたことの血の報いに瀕していると告げるものでした。そして、ライオスを殺しながらも生きおおせている不正の徒を追放すれば、血の穢れは清められ、国は危機から救われると伝えるのでした。オイディプスはその託宣に従い、自らライオス殺害の犯人を捜索し、国中からそれについて知る者を求めました。すると託宣の主であるアポロンに等しい予言の業を持ったテイレシアスという盲目の老人がオイディプスの前に現れ、犯人の素性について知っていると言います。しかしテイレシアスはオイディプスの前に現れておきながら、自分は真実を知っているが語りたくないなどと怯えだします。オイディプスは知っていると言うのにそれを教えないことは不正にくみすることだと怒りだし、予言者を脅します。対立する両者は激昂し、その果てにテイレシアスはオイディプスこそが犯人であると叫びます。そして更に犯人はやがて自らの母を妃としたことを悟り、自分自身で王の座から国の外に追放されるだろうと言い捨てて、去って行くのでした。残されたオイディプスはこの予言を認めずにテイレシアスを王宮にまで連れて来させたクレオンという妃イオカステ繋がりの義兄弟の側近に怒りをぶつけます。オイディプスは自分がライオスを殺したことなどあり得ない、思い当たるところがないと語ります。しかし、追及していく内にオイディプスはある疑念を自らに育てていきます。それは確かに自らがライオスを殺したのではないかという考えです。以前旅の途中でライオスと思しき人物の一行と争い殺してしまったことがあるからでした。しかしイオカステの励ましもあり、自分はそもそもライオスの息子ではないのだから神託の指す人物ではないはずだとの自信をすぐに取り戻しました。オイディプスは犯人の探索を続けます。それが自らを追いやることになるとは知らずに───。そして、いよいよオイディプスの先王殺害の犯人が分かる時がきて、オイディプスの命令によって呼び寄せられた羊飼いらの証言により決定的な真実が明らかになるのです。それによると、テーバイの王オイディプスは実はポリュボスの子ではなくライオスの棄て子でした。まだオイディプスが幼かった頃、ライオスの元にアポロンからいずれ息子が父親を殺すことになるとの神託が下り、それを恐れたライオスはオイディプスを棄てたのでした。しかし棄て子だったオイディプスは死に絶えることなく拾われ、ポリュボスの子となったのでした。それから時は流れ、運命の歯車が巡り巡って、オイディプスはアポロンによる全ての神託に皮肉にも従いながら、まさにテイレシアスの予言をも自ら成就するところまで来たのでした。結局、オイディプスは神託に従い、自らの手でライオスを殺し、国の中に血の穢れを作り出していた犯人その人であることが日の下に明らかになったのです。そして最後にはテイレシアスの予言に従って───アポロンの託宣に従って───自らが唱えた犯人への憎悪に従って、王国から自らを追放するのでした。真実がわかった時点でイオカステは絶望のあまり自害し、オイディプスももう両の目が見るものはないと両目を貫いて、盲目の乞食となり、娘が一人付き従う中、クレオンに王国の後を託して、この悲劇は終わります。


 オイディプスは真実が明らかになった時、アポロンに対して、またテーバイに対していかに自らが呪われた者であるかを嘆き訴えます。オイディプス自身は決してアポロンに逆らってきたわけではありませんでした。最初から最後まで、オイディプスはアポロンの意のままでした。オイディプスはそのような自分に対して、どうしてこのような不遇を背負わせるのかと最後の場面で叫ぶのです。自分の命など、ライオスが神託を避けようと棄てたままにしておいてくれたならこのような不幸などあり得なかったと過去を、自らの生を呪います。彼は国を救う王としての人格をしっかりと務めようとしていただけにこれは彼にとって不条理なことでしかなく、その運命を受け入れることは悲劇以外の何物でもありませんでした。


 多くの人がこのオイディプス王の物語を悲劇だと言っています。私もオイディプスの苦難は一つの悲劇だと思います。しかし、この物語においてオイディプス以外に悲しむべき存在が全くいないかといえば、そうではないと私は感じます。オイディプスは決して全くの善人ではありません。彼に咎が全くないわけではありません。それが主であるアポロンによって決定されていたとしても、自らの手で王であり父であるライオスを殺害したことはまちがいなく、何よりこのオイディプスは自らの王としての責務を全うしようとしながら、彼が追放されるまで不遇を被る国民に対して、その中で泣き寝入りをしているような人物にたいして、彼自らで償いをしているわけではありません。最後に追放されることによって、国に平和が戻って来たとしても、彼が全てにおいて正しいことの証にはなり得ないと思います。彼は自分の不正について認めながら、それが予定されていたことであり、自分の意志ではないことに嘆いているのです。それでも、苦しい災禍の運命にも立ち向かうオイディプスは偉大な王であり、神託の主アポロンの意志を自らのものとして───その業を自ら執行するという立場において神でもあると感じます。しかし、それは支配者の中において偉大であり尊敬を受けるに留まるものであると考えられます。この国の悲嘆───その定められた運命を彼のみが担っているわけではないのです。

    少し長くなってしまいましたが、ここまで「オイディプス王」についてあらすじを語りながら、私の感想を記しました。最終的には、かなり突き放すような感想になってしまいましたが、しかし私にとって、「オイディプス王」は好きな作品であり、とても優れた演劇作品だと思います。再読したなら感想も変わるかも知れないことを断っておきたいです。私はこの悲劇を悲しいとみなす根拠を考えたかったのです。


 現実を生きて行くためには人の涙も悲嘆も真実かどうか疑わなければなりません。ですが、そのような反悲劇の現実にあっても、何も疑わずに自分の悲劇を認めてくれる人がいるなら、それだけで救われる人がいるのかも知れない───その嘆きや叫びが報われる人がいるのかも知れない───オイディプスは何を求めていたのでしょうか。自らの神に、周囲の人に嘆き叫んで、本当は何を訴えたかったのでしょうか。この悲劇と謳われる物語を通して、そのようなことを少しだけ考えさせられました。悲劇とは何なのだろうとの問いが冷たい理性の前に立つ───反悲劇としての現実を認めながら、そこに隠れている悲しみも認めたいと私は自らの至らなさを感じつつ思いました。