日没

夕陽を浴びながら、無意味な一日を過ごしてしまったと思うことがあります。太陽が地平線の向こうに沈んでいくにつれて、その日がまだ過ぎていないにも関わらず、どこか懐かしく感じられて、もっと良い一日の過ごし方があったのではないかと漠然と悔やむことがしばしばあります。目に映る物が黄昏の色に染め上げられて、私自身の手も足も既に遠い思い出の中にあるかのようなころ、もう少しもすれば暗い闇が辺りの風景を飲み尽して、いよいよ太陽の明かりに頼ることができなくなるようなころ、一日のことをつい考えてしまうのです。

しかし、一日の有意義な過ごし方について考えている間にも大切な時間は過ぎ去っていきます。その思いを巡らせている間、私は今日この日を生ききることができずに明日、明後日のために生きようとしているのです。一日の過ごし方に思い悩むことは、忙しく生きている人から捉えれば、そういった時間すら惜しいと感じるに違いない倒錯だと思います。また、大切な時間を費やして考えた一日の有意義な過ごし方や予定も、実際の日を迎えてはその日の風に流されてしまうことを認めないわけにはいかず、過ぎた日を悔やんでも、その悔やんでいる時間そのものを悔やむべきだと理解できます。しかし、そういったことをわかっていても、つい私はそれに悩んでしまいます。

 もしも、一日が独自の質を問わない流れ作業のようなものであるなら、このような悩みを抱くことなどないのだろうと私は思います。毎日の生活が決まりきったものであれば、それをこなすことが目標になりますが、そこに何かしら自分なりの色を付けたいと望めば、単に過ぎていく時に質の高さや特別な意義深さが求められてしまうことになり、そうなると大抵の場合、自分が納得できる条件を満たすことができずに一日が終わってしまうこととなります。達成できたとしても、それを毎日続けることは自分自身に絶えず負荷をかけ続けることになってしまい、とても疲れるものです。

 日が昇り、また落ちていくという時の流れにあっては、たとえ熟慮の末の一歩だろうと、無我夢中の一歩だろうと、それは同じ一歩に変わりありません。私には難しいことだったとしても、別の人がやれば容易く自然とこなしてしまうこともあります。別の誰かにとっては簡単な遊戯として可能なことであることと対照に、どれだけ真剣に悩み、向き合ったとしても何一つとして進歩しないこともあるはずです。遊んでいるように日を過ごしている人が大きな成果をあげることもあれば、懸命に過ごした人が報われないこともあるでしょう。しかしそれでも皆、同じ日を生きていることに変わりはありません。

 徐々に夜が深まっていき、視野が暗がりで埋めつくされていくように狭まっていきます。その日の活動を終えた私はやがて目を閉じて、夢を見ることになるでしょう。勉強熱心な人は夢の中でも学んでいると聞きます。その夢の中にいるとき、私はどのように過ごすことになるでしょうか。夢の中ではこれが現実なのかと考えることはありません。一日の過ごし方について考えることはありません。考えるとしたら、それは夢から醒めることを意味しています。やがて日が昇り、再び目を開けたとき、夢の中を過ごすように感じられたなら、醒めることがないような夢の中で醒めていられたなら、どのような生き方ができるでしょう。きっと、それが私にとっての幸福な日々の暮らしであり、一日の過ごし方について思い悩むことがないほどに自分自身を生きられる醒めた現実なのだと思います。