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長い挨拶

知人のふと見せる横顔に戦慄してしまうことがあります。何度か経験したことのある、この感覚───どのように語れば、他人に伝わるだろう───戦慄というと、少し大袈裟な表現かもしれない───それは何か怪物的な存在や身の毛もよだつような出来事に接したときに発するのが適切な言葉かもしれないから───その知人の横顔は決して怪物的ではなく、むしろ普通の表情であると言える───同じ場にいながら、どこか遠くを見ているような、その横顔。そういった表情自体は特別なものではないと思う───けれど、その顔を見て、私たちはすぐ近くにいるはずなのに、全く別々の空気に包まれていて、同じ場を共有していないように感じられる───その表情に接すると、一瞬の内に、私のすぐ近くにいる知人と私は、まるで目に見えない壁で遮られていて、真実には親しくないのだということを思い知らされるようで、私は冷たい風に吹かれたように心細くなってしまう───。


もしかすると、その人のことを仲の良い知人だと考えていなければ、私がそのような気持ちになることはないのだと思います。自分にとって仲の良い人でなければ、その人を目の前にして、遠い関係にあると捉えても何らおかしなことではないと思います。きっと自分がその人について知っていると思い込んでいればいるほど、仲が良いと思い込んでいればいるほど、接したことのない一面を目の当たりにすることで恐ろしい気持ちになってしまうのだと思います。


親しい知人との歓談の最中にも小休止があり、賑やかな雰囲気が静まるときが度々あるものです。それは特に争いや陰険な関係というわけではなく、一息ついて、そのままお互いに沈黙してしまい、その後の会話が続かなくなってしまうような、深刻なものではないけれど、落ち着かない気持ちになってしまうような時間です。そういったときに私は目の前にいる知人へ話しかける方法をつい忘れてしまいます。これまでどのように話していたのかを忘却してしまって、私は咄嗟に思い出そうとするのですが、何故だか喉に言葉がつっかえて声が出なくなってしまうのです。知人の纏う空気がそれまでとは異質なものに感じられるので、自分の声が届かないような気がしてきます。そしてようやく発せられたとしても、自分の声に不慣れな思いを抱きます。これまで親しいと信じていたからこそ、何気なく言葉を向けることができていたのですが、そうなってしまっては、全く見知らぬ人、いや、それ以上に話しかけることが躊躇われるようになり、その人に話しかけるための言葉が自分の中から失われていくようです。


冷静に考えれば、初めから別々の人間にすぎないはずなのに、何か大事なものを共有しているように自分が考えているということは全て幻想であってもおかしくありません。そして、そのように考えていくと、自分が親しいと思い込んでいる人、そのように考えられている人との関係とは、実は脆いものだと気づきます。私が勝手に気心が知れていると思い込んでいるために、その人を傷つけるような言動を無思慮に向けているかもしれない───仲が良いという認識に安心しきって、他の人と公平にするべき礼儀を失してしまっているかもしれない───。


自分が親しいと思っている人の知らない一面を想像することは難しい───そのようなことを考えないからこそ可能な交流があるでしょう。それだからこそ、自分が仲が良いと思っている知人に対して、他の誰かとは異なる特別で大切な思いを寄せることができるから───。しかし、そのことによって、もし損なわれてしまうものがあるならば、その瞬間に私のどのような言葉も本質には辿り着くことがないように思いはじめてきてしまいます。

私はその知人との、これまでとこれからの交流を振り返る───これまで、どのように話しかけていたのだったか───私はどうして今ある関係を信じられているのか───そして、こう思う───きっと親しい間柄だからこそ、結局のところ、その関わりは長い挨拶に終始するのではないかと。たとえ本質に辿りつかなかったとしても、その人のことを真実に知り得なかったとしても、これまでの全て、そしてこれから先、いつ終わるかわからない関係を結ぶのは、親しい仲にもある手探りの対話であり、出会いと別れを告げる挨拶、長い挨拶なのではないかと私は思います。


どれだけ親しい関係にあるとしても、距離のとり方はいつまでも悩むべきなのだ───挨拶に始まり、挨拶に終わる関係というと、味気ないかもしれないが、満たされた関係であったとしても、そこに寂しさを感じ、その思いで対することが、親しい知人を大切にすることなのではないかと自分がそのように思われていたら、嬉しいと感じるように。