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人生最大の危機に陥った話-最終章-

ある朝母に異変が起こった

真っ直ぐ上を向いたまま
腰が痛くて起き上がれないという
少し熱っぽくもあったので病院へ連れて行こうと
体を起こそうしたら母はあまりの痛みに悲鳴を上げた

お手上げ状態でケアマネさんに相談すると
介護タクシーを紹介され
母は酷く痛がったが寝た姿勢のまま
フラットになる車椅子に乗せてもらい病院へ

病院で症状を説明し何気なく医師が
指先にパルスオキシメーター
(動脈血酸素飽和度測定機)
をつけると数値は80%台を示し医師が慌てだした

医師に「苦しくないですか!?」と
聞かれた母は「全然…」と言ってキョトンとしている

私も良く分かっていなかったが
血中酸素飽和度の正常値は96%以上で
90%を下回ると呼吸不全と定義されるそうだ

その場で入院
その後の検査で腰の痛みは
『骨粗鬆症による圧迫骨折』酸素飽和度の低下は
『誤嚥性肺炎』のためと診断された

酸素飽和度が元に戻り肺炎が回復すると
骨折で入院は出来ないとのことで退院

退院時に看護師さんから
「痛がると思うけど歩かせないとそのまま
寝たきりになるよ  ゆっくりでいいから
スパルタで歩かせるように」との助言を頂いた

ケアマネさんに相談して歩行器をレンタルし
食事は起きて頑張ってテーブルに着き
トイレにも歩いて行ってもらった

お陰で1ヶ月後にはまた自分の足で
歩けるようになったのでスパルタを
提言してくれた看護師さんに感謝した

そんなこんなで大変ながらも
笑いの絶えない介護の日々を送っていたが
ある時から母の食欲が極端に落ちた
今まで一人前をペロリと平らげていたのに
少し口をつけただけでいらないという日が続いた

どうしたんだろう?お腹の調子でも悪いのかな?
そんな心配をしていたところ母ではなく
私の腎臓に癌が見つかった

次の試練がやってきた

癌と言われても私は何も感じなかった
早期発見だったし父方が癌家系だったので
心のどこかで無意識に覚悟していたのかもしれない

手術は1ヶ月後
自分がいない間の母の準備を淡々と済ませた

ここからは驚くほどの短期間で
             入院〜手術〜退院〜母の死
と怒涛の展開だった
  (マガジン-深海の記憶-「母の事」参照)

今思えば母の食欲が突然落ちたのは
この世を去る前兆だったのかもしれない


母の死から暫く猫6匹との生活が続いていたが
2年程経ったある日娘からなんの前触れもなく
「離婚するからそっちへ帰りたい」と連絡があった
(マガジン-深海の記憶-「再びの二人暮らし」参照)

全く…
私の人生には“青天の霹靂”がデフォルトで
設定されているのだろうか?
子供の頃から何かと振り幅の大きい
歩みだったなとしみじみ思う

本当に色々あった
それでも各「もう無理ポイント」では
不思議とヒントや助けが与えられた

これらの経験則から
『この先何かあっても多分何とかなる』
という根拠のない確信がある

ここに至って思うのは
“今の自分になる為に全て必要な経験だった”
“全てが私の糧となっている”
“人生に無駄な経験など一つもない”
という事

人は誰しもそれぞれのフィールドで
自分の為に用意された人生の課題に
孤軍奮闘しているのだと思う

どんな課題がいくつ設定されているのかは
知る由もないが、もしかしたら生まれる前に
自分で今回の人生の大まかな青写真を
作成してきているのかもしれない

生まれる時にその記憶は消えてしまうけど
自分で作った計画ならきっとクリア出来る

だから
『この先何かあっても多分何とかなる』のだ

そう信じて人生ゲームを楽しみ
天に帰る時は高らかに笑って堂々と
天国の門をくぐっていきたいと思っている


ここまで読んでいただき
本当にありがとうございました

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