最初の彼女の夢を見る

表題の通りであるが、数年来、高校から大学の初めに付き合っていた昔の彼女の夢を見る。
大体、彼女からは夢の中でいやなことを言われるので、彼女の夢を見るのはとても嫌である。おそらく彼女は、私が負っているトラウマの具現化なのであろう。
彼女本人は結婚もされたと風の噂で聞いた。彼女本人に対しては、幸せになってほしいと切に願う。高校の時、一度ならずご自宅にお伺いしたときにおられたお婆さまとお母さまはご健在だろうか。ご健在を祈るばかりであるが、お婆さまは18年前にすでにかなりご高齢だったのでちょっとしんどいかもしれない。お線香もあげに行かずにすいません。
高校の時に同級生の男女の仲が悪かった(今は普通にしゃべれる。30代後半ですしね)ので、同級生にはカマさなかった私であるが、高校卒業までにいろいろと卒業したいというゲッスい希望もあり、純粋に彼女がほしかったなあということもあり、「いけるかもしれん!」という部活の後輩のかわいい子にいっただけなのであるが、意外と最初の彼女はとても知的かつ難しい人で、なにより美しい人であった。
ちょっと暗く、気難しい人ではあった。三島由紀夫とかちゃんと読んでいた。文系のトークで私がグダグダしゃべっても付き合ってくれたし、何より女性との話し方がとても拙かった当時の私に付き合ってくれた。それらのことには感謝しかない。今高校生に戻るならばもうちょい楽しい時間を提供できただろうという後悔もある。
彼女は結局、私とは違う大学に行き、その年の四月に「好きな人ができた」といわれて別れた。彼女は高校三年生まで私と同じ大学に行こうとしてくれていたようであるが、学力が足らなくてほかの大学に進路変更をした。進路変更に当たっては相談もされたが、浪人は絶対にしたくないということを聞いていた。何より私が進学した大学は、自分で折れるならば絶対に無理な大学であった(結構難しいところなのよ)。そういう考えもあって、それならば仕方ないという断腸の思いで「分かった」とだけ告げた。が、彼女からしたらあっさりと承諾したことはショックであったらしい。
しかし、進む大学は自分で決めるべきだろうと今でも思うし、自分で進路を決められなかったとしたらそれは彼女の弱さだろう。厳しいことを言うが、進学や就職を交際相手に依存してはならないと思っていた(結果的に今は私がトラウマを抱えているので私が依存していたような気もするし、今の嫁さんが関西就職なので関西の法律事務所に就職した私が何を言うのかという脳内ツッコミは入る)。

時期的には、大学に入ってしばらくしてから彼女に振られたあと、今の妻と話をし始めることになった。であるから、振ってくれてよかったという思いはある。タイミングはよかった。ただ、大学最初の時にワンナイトいけるかもしれんというシチュエーションを10回くらいお断りしたのは、当時の彼女がいたからである。にもかかわらず、彼女は高校にいたときに高校の同級生と二股をかけていたそうである。私の大学時代前半の「ワンチャンいけたかも群」を返せと言いたい。

なお、妻とは出会ってから付き合うまで6年くらい間隔があるが、その間のワタシのオイタの数々については死ぬまで黙秘する予定である。当時は今より20キロくらい細かったからええ感じにイケたのである。今は妻と猫をめでる日々であるので許してくれい。

今日も昔の彼女に色々と言われるイヤーな夢を見て目が覚めた。そしてこれはあまり人に言うべき話でもないし面白く言える話でもないからこういう所で愚痴愚痴書いているわけであるが、問題は、彼女ではなく、私自身のトラウマの表出形態にある。

私はその後に付き合った人とはおそらくいい感じに話ができていたので(さすがに15歳くらい上の弁護士の先生と付き合ったときは対応に困り、上手いことできなかった。ごめんなさい。)、ほぼ唯一上手いこと対応できなかった後悔があるのだろう。
その後、仕事でうまいこと行かなかった件やそのほかうまくいかなかった人間関係をすべて彼女に重ねてしまっているように思う。つまり彼女は、というか私の頭の中の彼女は、私の後悔の表象なのだろう。

これをどのように解決したものか。
昔の彼女に対する後悔は、思わぬ形で一定程度は氷解した。北新地のクラブの女の子に同じ地域出身でもっと可愛い子がいたのである(以下、「上位ガール」という。)。上位ガールは口座の人ではないが、時折、上位ガールと北新地のバーでデートさせてもらって、とってもかわいい姿を見せてもらった。つまり良い記憶で上書きをしたのである。そして上位ガールには10時間くらい最初の彼女の悪口を言った。北新地の有効な使い方であろう。
癌が再発したとき、昔の彼女の自宅を思い出して手紙を届けたものだが、返信は来なかった。彼女には彼女の人生があるので返信しがたい理由もあるのだろう。昔の彼女にこだわるのは男性の傾向であるので許していただきたい。送りたいだけだったのである。

しかし、昔の彼女の夢は今日も見たところであるし、トラウマというか後悔というものは今も私を苦しめ、私の限られた余生のQOLを下げている。昔の彼女はただの表象である。しかも、よく考えたら私は当該彼女に対して結構ちゃんと筋を通したわけであるから何も思う必要はないんではないか。「いやよく考えたら俺悪くないやん?!」とこれを書いていてふつふつと怒りが込み上げてきた。
重要なことは私自身の後悔=できなかったことに対するモノの考え方を改めることである。

人間の人生は悲しいくらいに一回性の連続である。同じ日々は二度来ることはなく、ゲームオーバーになったゲームをもう一度ニューゲームすることはできない。それでも、人間というものは、特に私は、「あのときこうしたらもうちょっと何とかなったのではないか」という思いに苛まれる。

この桎梏を克服するにはどうしたらいいだろう。

「出来なかったことは反省するが後悔はしない」ということであろうか。頭のいい友人もこのようなことを言っていたが、それができれば苦労はしないのである。
反省が足りないのであろうか。これからは何かミスったときには原因と対策シートを作ろうかとも思うが、よく考えたらこれまでも作ってきた。それでも過去に縛られるので、そういうことでもないような気がする。

私が最近、最近ハマッている東浩紀氏は、「人生の一回性を受け入れろ」と何かの場所で仰っていた。わかっちゃいるけどなるほどなあと思った。
過去には戻れない。皆が知っているけれども、人間は過去を見ながら生きている。特に歴史を重視する文系はそういうものである。しかしそれでも、私たちが生きるのは現在だけだし、変えられるのは未来だけである。
人生は一回なのだなあと頭ではなく体と心で受け入れられたときに、私は初めて後悔というものから解放される気がする。しかし、それにはまだ時間がかかりそうだ。

ちょうど月一の精神科通院が明日であるから、この文章を見せる予定である。これを見せられた主治医の先生はたまったものではないだろう。ごめんなさい先生。

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