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精神科とドクハラとセクハラとパワハラと

家の応接間に、何か大きな機械が置かれていました。

パソコンです。ブラウン管のディスプレイ、キーボード、つがいの小さなスピーカーボックス等。

その少し前、私はある旧帝大の医学部の入試を受けていました。前期ではほぼ白紙答案、後期でも面接でいきなり失態したうえに、面接官たちの横柄さと心無いことばに気狂(きぐる)いを再発させてしまい、最後は笑いものにされて幕でした。

医者になろうと野心を燃やしたことなんて一度もありませんでした。私はかつて、ある整体師養成学校に通っていました。本当の整体学校ではなくて、無免許でも整体師になれるという触れ込みの学校です。それなりに居心地の悪くはないところでした。ゴールデンウィークには北京に皆で行きました。この学校から、中国の医科大に進むコースがあったのです。中国で医師免許を取って日本に戻るというものです。進学先となる医科大とその寮も回りました。初歩的な中国語の授業を受けて、日本に戻る前日にパーティがありました。私の精神状態はもうぼろぼろでしたが、なんとか帰りの飛行機に乗り込んで、戻ってきました。留学なんて自分はとてももたないという結論とともに、です。私の精神状態はいったん持ち直したものの、次第に悪化を続けました。あるとき社会人同級生のひとりより心無いことばを吐きかけられたことと、整体マッサージ練習の際に私の指が震っていると指摘されたことから、もう限界だと思い、町医者を再訪しました。この学校に入る数か月前より、毎週土曜夕に通っていたところです。再訪時には母親がいっしょでした。もはや私が限界であることを、母は医師に語りました。大学病院の心療内科への紹介状を書いてもらえることになりました。それを持って、母がひとり心療内科に私に代わって出向き、私のことを居並ぶ医師たちに語ったそうです。そのなかのひとりが「ぼくにやらせてほしい」と名乗りでたとか。二回目には母に連れられて、心療内科に私も赴きました。そのとき私と面接したのは女の医師でした。学生とおぼしいひとたちが何人かいました。母が私に代わって事情を話しました。私はその時ほとんど何もしゃべらなかったと思います。いったい何を喋ったらいいのか、わからなかったから。たしか翌週、母といっしょに心療内科に行って、男性医師と面談しました。「ぼくにやらせてほしい」と名乗りでた方だと後で母から聞き知りました。以後、この方にずっと診てもらいました。その詳細はここでは省きますが、私がうなだれて、自信を無くしてしまっている様子を気の毒がったのか、励ましのつもりだったのか、こう言われました。「医者の道はどう?国公立なら学費もそう高くないし」 私の目が輝いたのを見て「ちょっと希望がでてきたね」と言われました。翌年のたしか2月だったか3月だったか、よく覚えていないのですがこれ以上通院してもらちが明かないと思って、私のほうから通院の打ち切りを私が切り出しました。さらに一年後、ある予備校の入校試験を受けました。ひとつは地元のもので、もうひとつは隣の県の大都市のでした。ちなみにどちらも試験会場は家から自転車で行ける場所でした。隣の県のほうの、東大理系・医学部コースの上位クラスに回されました。ちょっとだけ誇らしく感じました。しかし二日通って神経が持たなくなって、以後は通学しませんでした。模試のときだけ予備校や試験会場に現われて、後は現れなかったのです。自分の居場所がないと思ったから。まわりは自分よりずっと年下で、私はその子たちよりずっと年上であることは明かさないでいました。整体学校では自分の歳をまわりは皆知っていました。この予備校ではいっさい伏せる覚悟でした。すなわち整体学校のときよりさらに二歳の差がまわりとは広がっていたわけです。これが苦しかった! どうしても自分がそこにいる場所に思えなかった。場違いに思えてしかたがなかった。そういうわけで二日目(それとも三日目だったかな?)でもう通う気力を失いました。そもそも朝から夕までずっと一緒に机を並べて授業を受けるというのが息苦しくて、通学時間も考えると、虚しくなったのです。そういえばコース分けの試験が入校時にあって、その試験中ずっと、壁が私のなかに溶け落ちてくる感覚に悩まされていました。子どものとき風邪をひいて熱が引き始める前ぐらいの頃に見る、世界が溶け落ちていく夢と酷似した感覚です。よくあんな精神状態で上位コースにまわしてもらえたものだと思います。ときどき模試があるのでその時は顔を出して、しかし成績なんて一度もチェックしたこともありませんでした。志望先は、この予備校のある県にある旧帝大の医学部にしました。センター試験を受けて、何点取ったか自己採点なんていっさいしないで、願書を出したら、なぜか二次試験を受けることができました。氏名を除けばほぼ白紙答案でした。合格発表を見に行った覚えがあります。私の番号があるわけないとわかっていて、それでも行きました。とにかくやり遂げたかったから。後期日程のほうにも願書を出したら、どういうわけかこれも通ってしまって、面接に挑みました。私の順番は最後で、お呼びがかかった時、窓の外はすでに夕暮れ色でした。5人ずつ呼び出すのに、私はひとりでした。このときの受験生は91名でした。90名定員で合格者枠10名のところにどうして91名?おそらく私がひとりだけほかの子たちよりずっと歳がいっていて、それで書類選考で興味を持たれたのでしょう。試験官トリオとのやり取りは惨憺たるものでした。セカンドレイプとはこういうものかと思いました。郵便で合格者の番号名簿が後で送られてきました。私の番号はありませんでした。

段落分けしなくてすみません。読みにくかったでしょうが、医者になろうと思ったこともない者がどうして医学部を受けたのか、そのいきさつを一気に語ってしまいたくてこうしました。

これにはさらに前日譚があります。この変わった整体学校に入るより一年半前、私はある心療内科を訪れたことがあります。上で触れた方とは別のところです。あまりに精神状態が酷いので、町医者で精神科のあるところを探し出して、そこを訪ねたのですが、ここで酷いことばを浴びせかけられました。ずっと後になってこういうのをドクターハラスメントと呼ぶのだと知りましたが、当時はそういうことは何も知らなくて、ただ一方的に侮蔑のことばに耳を傾けていました。耐えたのです。(ちなみにこの医者はずっと後に亡くなったと、その半年後に知りました) 上で触れたように、私が医学部の面接官と向き合ったとき、彼ら(全員男性でした)の横柄な態度にくわえ私が何か訥々と語るとそれにいちいち茶々をいれてきたり、少しずつエンジンがかかってきたと思ったところに「おい」と割り込んで話をすべて台無しにしてきたりと、それはちょうどこの町医者によるドクハラを追体験させられるものとなって、それで途中より私がパニックを起こしてしまったというわけでした。「またあの医者がいるのか、それも三人に増えてる!」と。

自分のトラウマを克服したくて医学部を考えたのが、それをさらに悪化させて終わったのでした。もっとも当時の私は割とさばさばしていた気がします。「結果はともかく、とにかくすべてをやり終えた、歩ききった」と。あまりの酷い終わり方に、もういちいち何も感じなくなっていたのかもしれないわけですが。

その後の予定?「来年もう一度受けるわ」と母に告げて、そうしなさいとうなづかれた覚えがあります。しかしその一方で「ああまた同じループに入ってしまった」とも思いました。

入試に何の熱意も抱けないまま、大学病院の医師が言った「医学部受けてみたら?」という物語を、結末はともかく最後まで外れず歩ききった…こうやって振り返りながら、あの時の自分はとにかく何か物語を生きていたかったのだと感じます。その物語も終わり、またループに入ろうとしていた私を、そこから抜け出させようとしたのでしょう、父は私に何か仕事をさせることにしました。パソコン一式が、家の応接間にいつのまにか置かれていました。そしてこう言われました。「インターネットが使える。これを好きなように使って、何かやってみろ」

[今回はここまで]

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