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昔は「登校拒否」と呼ばれていたという

「学校いくの嫌!」と最初に言い出しのは、中1のときでした。

同じ小学校の出身で、しかし同じ学級にはなったことのない男の子と、その取り巻き(というかお仲間)くんたちから、いろいろ嫌がらせをされる日々に参ってしまったのです。

実はもうひとつ理由がありました。午後に美術の授業があって、何か描いて提出する課題があって、それをやっていなかったのです。

結局、一時限の授業には出なくて二時限か三時限から参加しました。

朝、私がごねるのを見て、祖父が動いたのです。彼は私の通っていた小学校脇にある、公民館の館長さんだったこともあって、教育関係者にも顔が知られていました。それで「うちの孫が」と中学校に電話したようでした。

登校後、級友のひとりから教わったのですが、その日は朝の学級会で私が登校を嫌がっている旨が公表され、主犯である男の子がつるし上げられたようでした。

今思うと、そんなのは解決とはいえません。だいたいひとの不登校を、不特定多数の人間に公表するなんて、いったいどういう神経しているのでしょうあの担任の先生。(ちなみに理科と音楽の両方を受け持つメガネのちょっと気の強い才媛で、私が三年生になってまた理科と音楽を教わるときには苗字が変わっていました)

登校後、私は職員室に呼び出されて、見知らぬ中年男性の教師からいろいろ問いただされました。私の知らない方です。ぬらりくらりと会話を強いられました。特に不快ではありませんでしたが、本当に肝心なことは何も伝わっていないとは感じました。

あれは一学期のときのささやかな事件でした。当時の私では語彙が圧倒的に足りなくて、どうしてもうまく自分の感じているものを、ことばにできないまま、あやふやのまま事件は処理されました。いじめはそれで止まったとはいえ、私のなかでは何かが沈殿したまま、日々は過ぎて行って、やがて気に留めなくなったのでした。

あれは今思うと「これ以上先に進みたくない!」だったように思います。

幼稚園から小学校にあがる前に、事実上の全身不随を経験した話をこれまでしつこくしてきました。あれは私にとって、今に至るまで影響を残す、大きなおおきなできごとでした。

小学校から中学校にあがる際に、またはあがってより、あれと同質の何か大きな身体的事件を、もし私が味わっていたら、どうなっていたんだろうって思います。

リセットというか、次のフェイズに向かうための儀式というか。


ちなみに中3の一学期にも「学校行くの嫌!」とごねたことがあります。

私の通っていた中学校は、5月か6月になると「球技大会」というのがありました。学級対抗でバレーボールするんですよ。校庭をフルに使って野外バレー大会。その本番の日に、あまり覚えていないのですが何か忘れ物をして家に一度戻って、もう遅刻だと思って「行くの嫌!」と言い出したのです。

遅刻するから嫌ってことではなくて、それまでずっと通っていたけれどもうこのあたりで勘弁してほしい!という気持ちだったのだと思います。(ちなみに私は中1のある時期より札付きの遅刻常習犯でした)

父に殴り倒された覚えがあります。

その後のことはあまり覚えていませんが、自家用車で学校の近くまで運ばれたような気がします。

彼は健全なひとでした。だから学校に行くのを嫌がる、それもサボりとしか思えない理由で行くのを嫌がるわが子を許せなかったのでしょう。

頭のいいひとでしたが、それは実務方面についての話で、思春期心理などという面倒くさいものは、そもそも管轄外でした。

そうやって合理的に処理されていったものが、だんだんと私の中で鬱積し、そして心を病ませ、土台を腐らせていったのだとしたら…

彼は二年前にこの世を去りました。「税務署が来る!」と、確定申告のことを、昏睡状態になるまで気に病みながら。

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