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【エッセイ】蛙鳴雀躁 No.14

 ご縁があって、20歳から23歳くらいの男女と接する機会が、25年近くありました。総勢で、200人以上の子たちと出会いました。いまも、30代になった男子2人が、月1の割合で、拙宅にやってきます。
 なんの肩書きもない、高卒ババァが好き勝手にしゃべりまくるだけなのに、腹も立てずに辛抱づよく聞いてくれます。
 2人に、1度も言ったことはありませんが、感謝しています。
 介護職と変わらないので、時々、気の毒になりますが、彼らの訪問がなければ、とっくの昔に書く作業をやめていたかもしれません。
 オバサンたちのグループも月に1度、来ます。
 どちらも言いたい放題の読書会のようなものです。

 40代の頃の私は、傲慢で鼻持ちならない(いまもかわりませんが)、思い込みの塊のような女でした。
 自分の知っていることを、実践してさえくれれば、即席麺をつくるように小説家になれると本気で思っていました。
 よく言えば能テンキですが、その実体は底ナシの脳タリン。
 小説家でもないのに、どうして、流行作家を育成できると思いこんだのか、いまとなっては不可思議です。
「アタシはあかんかったけど、若いアンタらには出来る」と思っていたようです。

 月に1度か2度、午後の2時半頃からはじめて、夜の10時から12時近くまでやるわけです。休憩は、6時頃に15分くらい。
 警備員の方が、何度も覗きにいらっしゃって、「まだ、おわりませんか?」と急かされても平気でつづけていました。
 昔から神経が、荒縄より強い鉄線でできていた気がします。
 女の子は帰り道のことがあるので、早めに帰ってもらっていましたが、数人の男子は最後まで居残っていました。
 その子たちと駅近の「王将」で、晩ゴハンを食べるのが常でした。
 60半ばまで続けました。
 読んでくださっている方なら、おわかりと思いますが、どうしようもなく無神経でガサツな女だったのです。
 いつもB型ですかと訊かれますが、AB型です。
 血液が混濁しているせいか、熱血なわりには、みんなの名前と顔がまったく覚えられず、席につく前に、手伝ってくれる子に名前を書いた座席表をつくってもらっていました。
 最初は数人、少ないときは1人の時もありました(嫌われたせいで)。しかし、次第に我慢強い子が増えて10人から15人程度になり、1年ごとに新しい子が入ってきて、2年間で卒業していきました。

 順番に、自分史や小説を本人に読み上げてもらい、コの字型に座っている1人ずつに感想を尋ねます。最初のうちは、「よかったです」「おもしろかったです」くらいしか返ってきません。
 noteに書く私のコメントのようなものと想像していただければおわかりになるかと。言い訳になりますが、口述筆記の上に、対面ではないので爪楊枝で像の背中を掻くような文章になってしまうのです。
 もしかすると、老いて臆病になったのかもと時々、不安になります。これでもナイーブなところもあるんです。フッフッフ……。
 
 当時は酷なことを要求していたわけです。
「もっとなんか、言うことないのん? どこがどうおもしろいのか、おもしろないのか、ハッキリ言うてくれへんと、本人につたわらへん。これでええと思てしまう」
 と、文句をたれまくって責める私に、みんなは閉口し、それこそムカついたと思います。しかし、良家の子女の集団なので、歯向かう子はいませんでした。
 感想の回答がひとまわりした最後に、私が気づいた点を、詳細に言います。
 傷つけるつもりで言ってなくとも、ボロクソだったと、いまもやってくる男子は、言います。
「毎回、女の子のだれかが、泣いてたやないですか?」
「うっそお。あたし、気になったことしか言うてへんデ」
「覚えてないんですか?」
「ゼンゼン」
「ほんまっスか」
「初見で手元の文章を添削するのに必死やったし、近眼やから顔が見えてへんもん――ほんでも、あれくらいのことで、泣くかなぁ」
 1つ2つは覚えています。
 母の得意料理のカレーライスがいちばんの好物だと書いてきた女子に、「カレーは料理とはいわん」と言ったことと、他の学部の卒業生で新聞社に就職のきまった女子が、何を血迷ったのか、見学したいと言ってやってきて作文をみなに披露したとき、私は彼女の文章の欠点を事細かに指摘したことくらいでしょうか。
 このとき、彼女は号泣しました。

 イバラのお恵の面目躍如と言うと語弊がありますが、みんなに対して率直でありたかったのです。とにかく全員の作品をその日のうちに終わらせることを自らに課していました。
 だれか1人の、ぱっと見、よさげな作品を選んで、当たり障りのないホメ言葉を言えば時間もかからなかったし、嫌な思いをする子も少なかったと思うのですが、その頃の私は、どう直せばよくなるのかをぶっつづけでしゃべっていました。
 みんなにも、おのおの思うところを、堂々と言い返して欲しかったからです。

 下町を根城にしている私と異なり、育ちの良い子たちはだれに対しても機嫌を損ねたくないと思う気持ちが先行して、文章を書いても自分自身を規制していると感じていました。やさしい子たちが、ほとんどでした。私のせいで、書くことが苦痛になった子たちも多くいると思います。いまだったら、パワハラで訴えられていたかも。
 クソババァの言ったことなど、すっかり忘れて、幸せになっていると思うし、そう願っています。
 しれっと言いつつ、ほとんどの子は、小説家になりたいと言っていたにもかかわらず、はじまったばかりの人生なのに、なんで夢を諦めてしまうのか!! と内心で憤っていました。
 世の中、すべての人が作家と呼ばれる人になれると思っていないし、実際、なれもしません。でも、文章は綴れるはずです。いつの日にかどんな形でか、夢は叶うはずです。
 こういうのを、負け犬の遠吠えと言うのでしょうか。

 時間を持て余すようになった鉄線のイバラは、豆腐の夫を毎日、メッタ打ちにするしかありません。
 耳が遠くなったのだの、歯のぐあいが悪いだの、腰が痛いだのと、縷々訴える軟弱な夫に我慢ならない昨今です。

 夫いわく。「アンタのせいで、からだが、めちゃめちゃになってしもた」
 娘たちいわく。「パパは、神経がやられてるねん」
 本日も、拙文で、ご不快な思いをされた方がいらっしゃれば、深くお詫びいたします。


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