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1995.1.17.永遠の待機中にリミットなし(4/9)

    11 ダニエル

 薄闇の静寂に寄り添うような声が聞こえた。高くも低くもない、その声は形容しようのないほど美しい響きを秘めていた。

「全能の神ヤハウェに聖別された、ユダの民と、神の住まう宮(神殿)をお守りくださいますように……生ける神の霊が宮に満ちますように……」

 眼前にまぼろしのような映像が現れる。白衣の少年が胸の前で手を組み、神に語りかけていた。だれかに似ている。だれに……? 

山岸涼子の描く『日出処の天子』の聖徳太子だ! 

切れ長の目が一点を見つめている。男女の判別にとまどうような不可思議な容姿はだれの目をも魅了するだろう。透き通った象牙色の肌に一点の染みもない。切れ長の目元に憂いの表情を湛えている。

「唯一の神よ。わが民は聖なる櫃を見失いました。穢れた木の箱を拝するわたくしをお許しください。そして、いま1度、お怒りをおさめてくださいますように――憐れみと許しはわれわれの神のもの――祝福の託宣(レギオン)を賜りますように――アーメン」

 ひざまずいて祈る、少年の目の前に置かれた箱には、血に染まった厚布がかけられている。

「託宣て何よ?」

【神のお告げです。かつて聖櫃の上蓋には、2人の天使=ケルビムの立像で飾られていました】

「日本のお神輿のてっぺんは、羽をひろげた鳥やけどな」

【聖なる櫃=聖櫃の中には、10の戒めを5つずつ記した2枚の石板と、モーセに引き連れられ、40年間さすらったヘブライ人の飢えを救ったと言われる食糧=マナの入った金の壷、それに再生の力を持つと言い伝えられているアロンの杖が入っていました】

 イスラエル版三種の神器かと、たずねると、ルーシーはうなずくかわりにグゥワンと吠えた。

「ユダの人びと、エルサレムの住民および全イスラエルの者は、近き者も、遠き者もみな、あなたが追いやられたすべての国々で恥をこうむるでしょう。これはわれわれがあなたにそむいて犯した罪によるものです。〝神の日〟がイスラエル全家の存在するうちに実現しますように。その日には神の偉大な名が讃えられますように。アーメン」

 少年の声は賛美歌のように聞こえる。

 耳に心地よいので眠くなる。

【目覚めよ!】とルーシーはわたしを恫喝し、【この世界を、神が一新される〝神の日〟には、悪を行なう者に神の鉄槌がくだされるのです】

 麗しき少年は神に哀願する。

「すべてのものの上におられる神よ。この地にはイスラエルの12部族がおります。その指導者たる、油そそがし王が捕らわれの身になろうとしております。タビデ王の血を受け継ぐエホヤキン王に万が一のことがあれば、聖都の民は生きたまま地獄に投げいれられ、とこしえの処罰である第2の死を与えられるにひとしき事態にいたります」

 寝落ちしそうな頭の中心を、ルーシーの声が居座る。耳の奥でハエが飛び回っているようだ。

【ダニエルさまは国家存亡の危機にさいし、怒れる獅子のごとく奮い立たれ、百戦錬磨の敵を打ち砕かんと決戦の時に備え、神殿の至聖所において微動だにされず、かくなるうえは死をも辞さぬお覚悟。ああ、偉大なる若き預言者よ。麗しき者よ。その祈りは炎に焼かれた大石をも切り裂き、志をもちて戦う人びとに力を与えん!】

 話すほどに熱を帯びるルーシーの口調は、どこかの国のアナウンサーとそっくりだった。

【全能なる神ヤハウェよーっ。どうか、お声をーっ】

ルーシーは声をふり絞り、ふいに声を低め、つけくわえた。

【神は沈黙しておられるのです】

 ダニエルの悲嘆の声が重なる。

「テベテ(1月の初旬)の1日より断食をし、祈りを捧げてまいりましたが、ついに聖都は〝終わりのはじまりの時〟を迎えようとしております。〝神の日〟が近いと歓喜すべきなのでしょうか……」

 ルーシーいわく、大預言者エレミヤの告発があって、聖都の滅びに至る警告がエルサレムの民の間に流布しているという。

【若き王エホヤキンは、ネブカドネザル王との誓いを守るべく、開城の決意を臣下に告げましたが、徹底交戦を主張する氏族の領袖らの率いる戦士団の反対にあい、進退窮まっています。王族や上級祭司らは言を左右し、肝心なときに王の援けとならないばかりか、王の近しき者たちの中には聖都をのがれようとする者があとをたたず、人びとを不安と混乱に陥れています】

 ルーシーはキューンと鳴いた。

そのとき、がなり立てるような悪声が脳内を貫通し、眠気がふきとんだ。

「国中のラッパを吹き、大声を呼ばわって言え、『集まれ、われわれは堅固な町々へ行こう』。シオンのほうを示す旗を立てよ。避難せよ、とどまってはならない」

 だれの声なのか、ルーシーに訊く。

【ヨシヤ王の死後、比類なき預言者イザヤが去ったのちに現われた禍(災い)の預言者と呼ばれるエレミヤの言葉を、ダニエルさまが想起していると考えてください。ダニエルさまの思考があなたの脳内に伝達しているせいです】

「知らんおっちゃんの声なんて聞きたない」

【エレミヤはベニヤミン族の領地、祭司の都市とよばれるアテトナの出身です。その地の祭司の子孫として生まれた彼は門前に現われたときから、エルサレムの祭司らに対して批判的でした。戒律にこだわる祭司らが、一方で、ヤハウェの真意を問いさえしないと叫びつづけています。興奮のあまり、時に卒倒したりしますが】

 エレミヤの預言活動はこののちも長くつづき、40年間にわたるという。いまどこにいるのかと訊くと、縛り縄とくびき棒を首にかけて門前で座りこんでいるそうだ。

「食べ物はどうしてるん?」

【心ある人びとの援助で命をつないでいます】

「ホームレスなんや」

【3カ月前にネブカドネザル王に攻め込まれて以来、為すすべがないと諦めたようです。『ユダ王国の民は、騎兵と射手の叫びのために逃げて森に入り、岩に上る』。エレミヤ書4章29節です。エレミヤの布告を側近から読み聞かされた先の王エホヤキムは、書状を焼き捨てました。神に忠実でない、王自らに裁きが下る内容が記されていたからです。エレミヤの預言した通り、エホヤキム王はネブカドネザル王によって杭に架けられ、城壁に晒されました】

 ダニエルは突然、額を床に打ちつけた。漆黒の長い髪が乱れる。

「ほむべき御業によって畏れられ、くすしき御業を行なう神ヤハウェよ。ネブカドネザル王が次代の覇者となることは、だれの目にもあきらかです。その威名は文字どおり四周に轟きわたり、心優しきエホヤキン王の、もとより適う相手ではありません。神よ、ユダ部族は、サマリアの10部族と同じ苦しみに遭おうとしています。北の王国は偶像礼拝の罪を犯したためにアッシリア軍との戦いに敗れました。そしていま聖都は3カ月前と同様に、バビロニア軍にふたたび踏みにじられようとしています。神の宮も無傷ではすまないでしょう」

 彼は四肢を大の字にして、しばらく床にひれ伏していたが、半身を起こし、言葉をついだ。

「大祭司はエホヤキン王を油そそがれし者、メシアと信じ、日に3度、神殿の庭にある大祭壇で犠牲の山羊を屠り、その血を神の顕現する偽りの聖櫃にしたたらせています。そのようなまやかしで、神の怒りは去らない。ましてや祝福の託宣などあろうはずがない。わかっています。わたしになんの力もないと」

 ダニエルは血の染みこんだ布を剥ぎ取った。

木箱が現れた。

「神のおわす聖櫃はいずこへ? ヤハウェよ、どうぞ、この地におもどりください。そして、穢れた木像や金の小牛を拝する者たちを処罰し、民を目覚めさせてください」

 地方に住む民衆の日々の生活から魔術が消滅することはなかったとルーシーは嘆く。

【バアル神に豊穣を祈願する者、タンムズと呼ばれる太陽神を崇める者、アシェラと呼ばれる女神の柱を建てる者、子どもを生け贄に捧げるモレク神を拝している者さえもいます。名のある貴族をはじめとして多くのユダの民が、神と契約した民であることをないがしろにし、律法を守らず、邪悪な神の像に祈りを捧げています】

 それらは悪魔の仕業なのかとわたしはルーシーにたずねた。

【God knows!】と、ルーシーと吠える。【邪な神=悪魔に心を操られる者らを、神はかならず糾弾なさいます。そのとき、魔女となった秦野亜利寿の命脈は断たれるのです】

 ネブカドネザル王にダニエルの処刑をすすめた秦野を、ルーシーは悪魔に操られているという。神は彼女をけっして許さないのだそうだ。この時代に裁判があったように、神の審判があるという。

【悪魔に誘惑されて、人間は悪業を為すわけではありません。彼らの欲望に満ちた本性が自らを悪へと導くのです】

 ルーシーはユダ王国の支配層を糾弾しはじめた。

【貴族でもある大地主は自由農民のユダの民に不作の年に高利で金を貸し、支払えなくなると、家、土地、ぶどう園、果ては子どもさえ抵当に要求します。そして返済が不可能になったとき、すべてを奪い取り、債務奴隷と呼んで働かせています】

「ヤミ金みたいやな」

【かろうじて返済した者の耕作地を安値で買い取り、これを小額の債務者に低賃金で耕作させるのです。これを小作奴隷と呼びます。農地を収奪された者たちは逃亡するか、氏族や商人の使用人になるか、身を売るかです】

 城壁の修理や建設などに使役される者たちは賦役奴隷と呼ばれ、税を収められなかった農民や他国からやってきた貧しい者たちが従事しているという。

【他国からやってきた寄留民の職人の弟子となる者はわずかでした。意外かも知れませんが、当時のユダの民は人の形に似た像をつくることも厭わない金細工職人や木工や陶工や石工などになることをよしとしなかったのです。若者の多くは氏族を基盤とする〝兄弟団〟を結成し、戦士となる道をのぞみました】

「なんでよ。ヤハウェを信じてるユダヤ人は少ないと言うてなかったか?」

【ユダヤ教は他の宗教のように布教しませんが、旧約聖書があるかぎり、神の言葉は彼らの血肉になっています。いっとき、他の宗教に走っても、危急存亡のとき、彼らは目覚めるのです。自分たちは神に選ばれた民であったと】

「ほんなら、なんで、バビロンのユダヤ人の豪商や両替商はバビロニアの王サンにお金を貸すんよ」

【古代から現代に至るまで、国際金融資本が世界を動かしていると言っても過言ではないでしょう。貧しい人びとにはまったく関係のないところで、財貨のやりとりは成立しています。バビロンの豪商や両替商がなぜ、ユダ王国を攻める戦費の一部を貸すのか、わたしなりに考えました】

「さっさと教えてよ」

【バビロンの郊外、ニップルに移住させられたユダの民の身の安全をはかるには、ネブカドネザル王の求めに応じて戦費を負担するしかないと思います。日露戦争時に、小国日本に戦費を貸した銀行家のジェイコブ・シフも、ロシア国内で虐げられている同胞への思いがあったからこそ、日本の勝利に大金を賭けたのです】

 ルーシーの目は哀しみに満ちていた。

【ユダヤ人の思考の根本には、恥辱を受ければ必ず復讐をとげるという神の掟が存在しています。日露戦争時にロシア兵として戦い、捕虜になり、日本で厚遇を受けたユダヤ人のトロムビーダーはその後、パレスチナにおもむき、ユダヤ人部隊の創設を企てました。

革命思想家、無政府主義者には圧倒的にユダヤ人が多いのです。日本との戦争に敗れたロシアでは、ユダヤ人のトロッキーが1917年に革命を成功させます。彼はウクライナに生まれ、オデッサ大学を卒業し、青年時代から革命運動に参加しています。しかし、レーニンの死後、グルジア生まれのスターリンと争い、国外に追放され、メキシコで暗殺されました】

「なんでそこまで……」

【長州の下級武士だった伊藤博文は、日露戦争が避けられないとなっとき、『成功、不成功は眼中にない』と言っています。明治維新も革命ですから、成し遂げた人たちの間での共通認識だったのではないでしょうか。日米戦争も似たような思考回路で突入したと思われます。これらのことは過ぎ去った話ではなく、これからの世に現われてくる未来に関するものなのです】

 背筋が寒くなる。

「遠い未来がどうなっても、アタシとは関係ないし……、さっきの話で気になったことがあるねん。ネブちゃんは捕虜から使用人を取り上げなかったんやろ? 兵隊にしたほうがええやん。アタシが使用人やったら、捕虜になったのをチャンスやと思て、給料のもらえる仕事につくけどなぁ」

【国内が乱れるまでのアッシリアが強国だったのは自由農民で軍隊を編成したからです。使用人の身分は奴隷です。彼らを兵士にしても、失うもののない彼らは生死をかけて戦いません。機を見て逃亡しようとします。奴隷でいるほうが都合のいい場合もあるのです。それに7年間、勤めると借財はゼロになります。その後は賃金が支払われていたのです。女性の場合は、ご主人さまに気に入られて、子どもを産んで側女になれば一生、面倒をみてもらえます】

「それって、ありがたいことなん?」

【ですからぁ、話が堂堂巡りになりますが、ユダ王国においても自由農民からなる氏族の発言を無視できないのです。主として氏族とその郎党が戦士となりますからね。しかし、既得権益を死守したい支配層と他国の支配をよしとしない氏族との対立は日毎に悪化しています。主として土地が世襲制度、つまり親のものが子に相続されるわけです。これによって、貧富の差は固定化されてしまいます。時を経るごとに持てる者が持たざる者からすべてを奪っていくことになりますので、どこの国もいつの時代も不公平をただすために改革派が現われ、時に過激派となってテロ活動を起こすのです】

「それな」

【これを好機と見て、扇動者を送りこむ国も大昔からいます。同盟国を離反させることも朝飯前です。戦争なんて突然、起きるものではありません。互いの国が準備をかさね、開戦にいたるのです。規模の拡大にしても一瞬でなされるわけではありません。いきなり戦闘状態になったと思うのは国民だけです。だからでしょう。重税にあえぐユダの多くの民は過酷な現状を変えてくれる救世主=メシアをひたすら待ちわびているのです。けっして災いを告げる預言者を歓迎しているわけではないのです。ただ、だれを信じていいのかわからなくなっているのが現実です。目端のきく貴族は王の名のもとに死海に至るキャラバンから通行税を徴収し、ついでに戦禍を避けてシリアに避難しています】

 持てる者が強欲になるのは止めようがないと言って、ルーシーはキューンと鳴く。

【氏族の領袖の中にも不埒な者がいます。力の弱い氏族の土地を奪い、従わせるのです。王の名のもとに税を徴収しようとしても、応じません。多くの郎党を従える氏族の力をそぐことは地主や商人を従わせるよりむずかしいのです】

 郎党とは何かときく。

【日本でいうなら地侍のようなものです。彼らも親族で構成されていて、まさに一族郎党なのです】

 わたしたちが愚にもつかない話をしている間も、ダニエルは床に額をつけたまま祈りつづけている。わたしなら1分ともたない。

「全能の神ヤハウェよ、最後の砦であるエルサレム城内に立てこもる民は戦闘意欲を失っています。神殿にいる祭司らは、バビロニア軍に内通しているベニヤミン族の伝令から買い入れた供犠の羊や山羊をこっそり食しています。大祭司は見て見ぬふりをしておられます。供儀の効力を疑えば、破滅的な結果を招くと恐れておられるのです。レビ人祭司らは、贖罪と罪科の区別さえつかない」

 ルーシーは声を震わし、

【ユダ部族の領地と隣接する地に住むベニヤミン族は甲冑を持っておらず、投石兵しかいません。ユダの飛び地、砂漠と隣接するベエル・シェバに追いやられたシメオン族も同様です。ベニヤミン族は彼ら以外の部族によって、絶滅の危機にさらされた過去があります。シメオン族は12部族ある中で唯一、領地を分け与えられませんでした。そのせいで、この期におよんでも戦う気がまったくないのです。バビロニア軍の傭兵に襲撃されたとき、町を空っぽにして逃げたようです】

 ダニエルは胸の前で両手を組む。

「しもべの祈りと懇願を聴き入れ、あなたの聖櫃の上に御顔を輝かせてください!」

 気づくと、彼の視覚と思考に一体化していた。眼裏に破滅に至る情景が映る。

敵軍の重装歩兵は鉄製の兜と鎧を身につけ、鉄の斧をたずさえ、城壁に向かって這い上ってくる。道なき道をあとからあとから攻めあがってくる。祭司職のレビ人をのぞいた、12の部族を象徴する門と砦を護る守備隊は乏しい武器で懸命に応戦しているが、敵兵を阻止することが困難になりつつある。地表からも、地底からも、この世のものならぬ振動が聖都をゆるがしている。敵の工兵部隊は丘陵の土塁に投射台を据え、攻城機を組み立て、薪で焼いた大石を市内に投げこむ一方で、防壁内に通じる地下水路にむかって掘削機で地面を掘りすすんでいる。混乱した城内では奴隷身分の者の掠奪と逃亡がはじまっている。

【これから起きることが、ダニエルさまには感知できるのです】

ルーシーの声は力がない。

【それでもなお、ダニエルさまは、民と国の存続を祈らずにいられないのです】

「あなたの激しい怒りが聖なる山から離れますように」

 祈りつづけるダニエルの澄んだ瞳にわたしとルーシーがいきなり映った。

「黄金の被り物の、不思議な身なりをした少女が赤犬を背負い、見たこともない乗り物に乗って、〝王の大路〟を神殿に向かっている。魔女か……バアルの化身か……」

 げぇ、わたしが女子だと、ダニエルにはわかるのか!

「神よ、奇跡を――」とダニエルは言った。「わがユダ王国はかつて、ヤハウェの御力を得て18万余にのぼるアッシリア軍を退けました。星が雨のごとく降り、セナケリブ王の率いる大軍が一夜にして滅んだと巻き物=メッギラーに記されております」

 アッシリア、エジプト、バビロニアと強国の間で揺れつづけた150年余り、栄華を誇った神殿に神が住まうかぎり、敵はかならず打ち負かされるとユダの民は心のどこかで願っている。それが叶わぬ願望にすぎないことは、ダニエル自身がもっともよく知っていると背中のルーシーはキャンキャン鳴きわめく。

「お聞きとどけなくば、わたしに死を賜わりますように……」

 ダニエルには未来が見えるという。燃え立つような大岩が火花を散らしてダビデ王の建てた王宮に落下するさまが――紅蓮の炎に包まれる胸壁に立って奮戦する父親の姿が――。敵兵に立ち向かうダニエルの父に向かって矢が飛んでくる。数百年にわたって、聖都を守りつづけた堅労な城壁が破壊槌で打ち砕かれ、侵入してくる敵兵らによって王都とその民が焼き払われるビジョンが光をともなって彼の眼前に表れる。

「父上」と彼はつぶやいた。

 ルーシーは、父親の安否に心をよせるダニエルの身の上をわたしの耳元でペラペラ話す。

【王族の1人でありながらダニエルさまの父上は軍の司令官なのです。お父上は預言者を疎ましく思っておられます。しかし、ダニエルさまが誕生した時、当時の大祭司ヒルキヤにこの子は将来、神の御言葉を目にし、耳にする選ばれし者となると告げられ、武人のお父上は案じられたのです。魔都と謳われたバビロンでは美童は、美少女よりも珍重されるからです。お父上は、ダニエルさまがよこしまな心をもつ者の目にとまることを恐れるあまり、大祭司の許しを得て神殿域でひそかに育てられたのです。ああ、非力で無能なゴボテンは命を使う使命を果たせない】

「アンタの話は、ツジツマがおうてない。無事に捕虜になるように、アタシらは活躍することになってるんやろ?」

【活躍はおろか城内に入ることすらままならない。グゥワン】

 火の粉の手前にマッチ棒の先のような赤い光がぼつぼつと漂っている。道の両側には深海ような砂漠が暗やみに波打ち、静寂が不安と焦燥をかきたてる。

【聖都の陥落後、宦官のアシュペナズが王のもとに侍る美少年を選別します。選ばれた少年らはハーレムの女たちと同じ扱いをうけます。美容術を施され、王の関心がある間は王の食卓にはべりますが、15歳を過ぎると、雑用係の宦官となり、忘れ去られた身の上となるのです】

「美少年にも賞味期限があるんや」

「美少年だからです」

 うわの空でルーシーの話を頭の片隅に入れながら自転車を漕ぐ。助けたいと思わないけれど、足が勝手に先を急いだ。

【ネブカドネザル王が悪夢にうなされる、その日まで、ダニエルさまは生き延びなくてはなりません】

「ヒトのことより、自分の心配をしたほえがええと思うけどな」

 はじめは風のうなりのように聞こえていたざわめきが次第に大きくなり、男たちの怒号が闇をつらぬいた。

 全身が緊張で萎縮する。

【ダニエルさまが捕われの身となって10年後、そのときネブカドネザル王は王位について約20年たっていました。王は38歳になり、第2回目のバビロン補囚を決意します。紀元前587年、335年間つづいたユダ王国の王政は終わりをつげます。翌々年、6年間つづいていたリュディアとメディアの戦争が日食のせいで終息し、バビロニアとメディアとリュディアの3カ国は婚姻関係を結びます。これで後顧の憂いなく、長年の懸案事項であったティルス攻めが決行できるとネブカドネザル王は欣喜雀躍します】

「どうでもええけど、補囚は3回目とちゃうのん?」

【言いましたよね。今回の捕囚は3カ月しかたっていないので、ほとんどの歴史書では2度の侵攻を1回として記述されています。この年、紀元前597年に第1回目のバビロン捕囚があったと記されています。前年のバビロン捕囚は省かれているのです。理由は簡単です。バビロニアからエルサレムまで大軍を移動させるのに最低でも約3カ月要します。往復すれば半年かかります】

「3カ月前にいっぺん攻めて……? そやから土塁があるんか。ふむふむ。ネブちゃんは先にバビロンに帰ってたんや」

 ルーシーが言うには、ユダの各地に潜伏する兵士を駆逐すると同時に、捕虜となる人びとを捕らえるのに時間を要した。その間にも反乱を主導する氏族らが各地に出没し、収拾がつかない情勢になっていたのではないかという。

【ネブカドネザル王は自身がバビロンに帰還することで一旦、兵を退いたと見せかけたのでしょう。後背地となる砂漠や草原に陣を移動させたのではないかと――】

「軍隊は残して行ったんや」

【とにかく急ぎましょう。城門が開く前に】

 王の大路には、夜のとばりがおりていた。マッチ棒の先のように見えた赤い光は篝火だった。地平線をおおうひと目では数えきれない黒いテントが眼前に現われた。男たちは焚火のそばで酒盛りをしている。そのせいだろう、彼らの大半は自転車に気づかない。わたしはすくめた首をゆっくりのばす。見張り役らしい男たちがこっちへむかってくる。

「どーしたらええんよ」とうろたえるわたしに、ルーシーは、【情けない。小心者なんですね。こういう事態にそなえて通行証があるんです】と叱る。

「突き進んだらええゆーことなん?」

【自転車のリンを鳴らして進んでください】

ルーシーは事もなげに言う。木のリンだから鳴らないと言うと、だったら、自転車を下りるしかないと言う。

【バビロニア軍の守備連隊ですので、1個大隊1000人ほどいます。ほとんどが金で雇われた傭兵なので恐れるに足りません】

 木のペダルをひと踏みするごとにチリンチリンと声で鳴らす。

【あなたに思いつく方法はそれくらいでしょう】

「犬にバカにされる天使の話なんて聞いたことがない」

 道の両脇には黒いテントが波打っている。歩哨らしき兵士が前方に立ちふさがった。身長の高低はあっても、どの顔も同じに見える。中の1人がひげ面の険しい顔をこちらにむけた。

 自転車をおりるべきかどうか一瞬、迷った。

 男が怪訝な表情を見せると同時に自転車をおりて、粘土板の通行証を差し出した。あいにく、男は文字が読めなかった。通行証を手にしたまま奥のテントにむかって走って行った。残った兵士はルーシーを背負ったわたしをにらみつけ、ユダの民かどうかたずねた。

「ハランの民だ」と、通行証に書いてあった地名を答えた。

【テントは羊ではなく、黒い山羊の皮でできています。百聞は一見にしかずですよ。日々、見聞きすることで知識が蓄積できるのです】

 こいつを黙らせる方法はないものか。目が慣れてくると、テントの群れの中心に囲いがあり、その中に女や子どもが押しこめられている。ユダヤ人の捕虜のようだ。見るなとルーシーは言う。自分の力でどうにもならないことで心を悩ましてはならないと。

【バビロニアの王は3年後、15歳を過ぎたダニエルさまを食卓から遠ざけます。そののち、ある人物の助言でふたたび召喚します】

「アタシらはもとの世界にもどってるよな?」

【グゥッウォッフォン! グゥエッ!】

ルーシーは咳払いとゲップをし、

【ここからはネブカドネザル王の夢の話になります。見たという記憶があるにもかかわらず、どのような内容の夢だったのか、どうしても思い出せないので王は心を悩まし眠れなくなります。いまでいうところの脅迫神経症を患っていたのでしょう。記憶にない夢を解き明かせる者として呪術者、魔術師、占星術者、神官などその道のあらゆる権威ある者たちを召集しますが、だれも王の夢を説き明かせません。王自身が覚えていない夢がなんだったのか、答えられる者などいようはずがありません。あなただって、そう思うでしょ?】

 武装していない、軽装の男がゆっくりと歩み寄ってきた。整えられたひげを引立てる、大きな黒い目がわたしをまっすぐ見つめた。

「ナブ・アッヘ・ナイードとは親の代からの知人だ」と、彼は言った。「おまえのくることは、ネブカドネザル陛下に直言する者があって、護衛長のわたしが出迎えるように命じられている」

 直言した者とは、秦野なのか? 秦野は異形のわたしを捕らえるように言ったはず。ここに囚われている人たちの仲間になるのか。

「わたしの名はアリオクだ」

【彼を粗略にあつかってはなりません。将来、アリオクが、夢と幻を見ることにおいて右に出る者のないダ二エルさまを、王の前に立たせることに尽力する重要人物だからです】

「わたしが陛下のもとに案内する」

アリオクの声は低く、自信に満ちていた。

「陛下はリブラを視察されたのちに、エルサレムに来られる予定なので、この場でしばし待つように」

【一刻も早く、エルサレムへ行きましょう。彼に伝えてください。ここに用はないと】

 わたしはルーシーに促され、「エルサレムへ行かなくてはならない」と言った。

「ユダ王国はまだ降伏していない。下手をすると戦闘に巻き込まれるぞ。命を奪われなくとも味方とみなされず捕虜になるやもしれない」

 ルーシーは、わたしとアリオクが話している間も耳うちをやめない。情報をもらさず伝えることが使命だと思っているのだろうが、意識が散漫になるだけだ。

【王の夢を解き明かしたダニエルさまを、王は、ふたたび食卓にはべらせます。それが嫉みとなり、陰謀を生み、宦官長のアシュペナズと神官長のレソンとは謀略をもちいて、ダ二エルさまを王の食卓から遠ざけます。宦官長や神官長と敵対関係にあった護衛長のアリオクは、ダ二エルさまの地位を挽回しようと奔走するのですが、敵対する者らの手の者によって暗殺されます。後任の護衛長には、ユダヤ人を敵視する王の親族の1人、ネブザラダンが就くことになります】

 わたしはつぶやく。「それがどないしたん……目の前のおっちゃんが生きようと死のうと……知ったこっちゃない」

【目覚めよ!】ルーシーの声は鼓膜を撃つ。【3カ月前に捕囚の身となったユダの王族はバビロニア帝国とユダ王国とのあいだで戦端が開かれることを、もっとも恐れている。ダビデ王の血を継ぐエホヤキン王の身を案じてのこと」

「魔術を封じる呪術師だと仄聞した」とアリオクは言ったあとに片頬で笑い、つけ足した。「噂にすぎぬと思っていたが、ナイードが推薦するだけのことはあるようだな」 

 額のあざと金冠頭を見れば、そう思うだろう。三白眼にも気づいているだろうし。思わず、「有り難迷惑だ」と言うと、

「陛下の食卓で侍りたいと思わないのか」

「だれにも命令されたくない」

 アリオクは声をあげて笑った。

「いいだろ。何をしたいのか、わからないが、付き合おう」

 アンタの未来には死が待っていると言うべきかもしれないが、

「変わってるな、アンタ。うちらのせいで災難がふりかかってもいいのか?」

「陛下に仕えている者で死を恐れる者はいない」

 無事に検問を通過。先を急ぐ。

【この先、ダニエルさまの身がどうなるのか、なぜか、ヴィジョンを見ることができない】

ルーシーの声は焦っていた。

「どっちみち聖書に書かれてる通りになるんとちゃうの?」

【そうならないかもしれない恐れがあるから、わたしたちは天界から指令をうけているのです。未来は1つではありません。ただし、エルサレムの命運は定まっています。世界の末の日も】

「末の日……?」

「神の日=終わりの日のことです」

 脳裏に末の日を想起させる映像が浮かびあがる。包囲攻撃の末の、バビロニア軍の攻城機による火の玉による猛攻に味方の将兵はなぎ倒され、市中の民衆は嘆く間もなく焦熱地獄の中を逃げ惑っている。ユダの民の阿鼻叫喚が地鳴りとなって、神殿にとどく。敵兵は瓦礫の山をものともせず、戦闘意欲を失った将兵や放心した民を嘲笑うかのように破壊された城壁の瓦礫を踏み潰しながら進軍してくる。沈みかけた船に、海水が浸水するように火炎は聖都と人々を飲み尽くす――。

今夜中にエルサレムはこのありさまになるとルーシーは言う。

【聖なる都は滅びる定めなのです】

「いまのダニエルには、これが見えてるのん?」

【至聖所にいるダニエルさまを、もう1度、見せましょう】

 ダニエルはこうべをたれ、ひざまずいている。

「父上とともに戦うべきだった……」

 敗戦が色濃くなるにつれ、ダニエルの父は、戦闘に加わるという息子を足止めした。ダニエルの父は言った。「救いはヤハウェそのもの」と。「ヤハウェの御名を賛美せよ。われわれの神は、他のすべての神に勝っている」と。

【ユダの民の中の心ある者は、他のすべての神にヤハウェが勝っているという自負があるので、国を追われたのちも信仰を捨てませんでした。強い信仰がユダヤ人をユダヤ人たらしめたのです。その自負心が行った先の国々で、成功を手にする力になったのです】

 数人の少年がダニエルの身を案じて、聖所の外にひろがる中庭に控えていた。せめて彼らだけでも逃すことはできないかと、彼は苦慮しているとルーシーは鼻水と涙をわたしのうなじにたらしながら訴えた。

 ダニエルは憤っている。「ユダの民の多くは、祝福の宣託を告げる偽予言者や神の保護を名目に甲虫石の護符=スカラベを売るレビ人祭司らの言葉に惑わされている。神がわれわれをお見捨てになるはずがないと、人々を欺いている。油そそがれしエホヤキン王が、聖なる都におられるのであるから、かならず奇跡は起きると――なんという――愚かさ」

 ルーシーが補足。レビ人祭司らは、神殿と王と民はヤハウェの保護下にあると言いつづけた。北のイスラエル王国が滅んだのは、油そそがれし者を王としなかったからだとも。神が、王と認める者は12部族の中で、ユダ部族のダビデが王位に就いたときから後継者はタビデの子孫に定められ、大祭司職はアロンの一族に、祭司職はレビ人に限られた。

 ダニエルの口から思いがけない言葉が出た。

「なぜ、モーセの親族とユダ部族にのみ特権をお与えになられたのですか。民から10分の1税と称して、金品を受け取るレビ人祭司や長老らは神殿に詣でる両替商や神殿の中庭にたむろする犠牲の動物を売る商人からも金品を得ています。人々の欲望をあおる娼婦や男娼を排除せず、看過しています。地方の貧しい民は神殿に詣でたくとも旅費がありません。いつの時代も正義を求める者ほど苦しみます。彼らが地元民の崇める神に心惹かれるには理由があります」

 神に忠実だったヨシヤ王の忠実な部下であったダニエルの父は、思慮深いヤハウェはご自分の民に苦難を与えられたと長子のダニエルに告げ、いくさに身を投じたと、ルーシーは涙をふりしぼる。

 ルーシーとダニエルの悲しみはシンクロする。

「戦わぬわたしも、シリアのダマスカスやフェニキアのシドンに逃亡した富裕な者らと変わらぬ……父上……わたしはどうすれば……バビロンで財をなした同郷のヨアキムは、捕われびととなる前に彼の住むバビロン市内に移り住むようにと書状ですすめますが……わたしはそのような気持ちになれません。ヨシヤ王が亡くなられたときにバビロンに移住したヨアキムの一族はネブカドネザル王に黄金を差し出すことで、身の安全を保障されています。神に許された行いだと父上はおっしゃいましたが……」

 民衆が奇想天外な流言蜚語に踊らされないように導くには神への祈りだけではたりないとダニエルの父は言ったという。

「神殿前の広場では、フェニキア人の神バアルを信じる若者らが伸び放題の髪の額に刺青をほどこし、お互いに身体を傷つけ合って、彼らのつくった祭壇の周りを片足踊りで巡っています。大麻で恍惚状態の彼らはバアル神に祈れば、嵐を呼び、敵を追い払えると信じているのです。わたしには何が真実で、何が偽りなのか……わからない……」

 ダニエルは憔悴しきっているのだろう。血の気のない顔を祭壇にむけ、ひざをおり、忍び泣いた。

「この時代に大麻があったん!」

【びっくりするのはそこですか! まぁ、いいでしょう。大麻どころか、ケシの花からアヘンをつくっていましたよ。紀元前3400年頃、シュメル人は医薬品として用いていましたが、時代が下がるにつれ、どの国も乳状の液体=生アヘンを兵士に使用するようになりました。半ば、意識を失った状態で敵の真っ只中におどりこみ、血に飢えた獣のように手当たり次第に虐殺できるからです。人間は動物より弱い生きものなので、本来なら死の恐怖や残虐な行為に耐えられません。思考することを放棄するために薬物を必要とするのです。聖書を読めばわかりますが、カナンの地をめざすヨシュアに率いられたヘブライ人の戦闘集団は、行く手を阻む国に攻め入ったとき、女や子どもや赤ん坊まで殺害しています。言葉がどれほど正しくあっても、口から泡をふき、恍惚状態で喚きつづける預言者も通常の精神状態でないことはたしかです】

「そんなことゆーてもええのん? 天界のジェネラルマネージャーに怒られるで。聖書にアヘンの記述はないんやろ?」

【いっさいありません。ありませんが、マナの壷の中身がパンであったと記されていますが、60万人の食糧を賄えるとは思いません。しかし、生アヘンであったら闘争心がわき、他の部族から食糧を奪えます】

「想像するだけで、めまいがするわ」

【ダニエルさまは美しく聡明なお方です。常軌を逸することなど生涯ないでしょう。常に冷静であるからこそ将来、他国の高位の者にかぎらず、多くの人の信頼をかち得ます。自らの言葉でだれひとり殺めることなく、神のご意志を後世の人々に伝えられるのはダニエルさまをおいて他にありません】

 ダニエルは衣の下に隠しもった短剣を捧げもった。ラピスラズリと黄金の装飾のある鞘と柄は、彼の手の中によく納まった。

「父上は、微力なわたしが足手まといになるとお思いになられたにちがいない……」

 彼は神への信仰と同時に父への献身を生きる糧としてきたようだ。しかし、父親は、彼を生かすために戦っている。エレミヤの預言にダニエルは真実を見ているのだろうとルーシーは言う。バビロニアに降伏せよと戦闘意欲を削ぐ言葉を吐きつづけるエレミヤを、主戦派の氏族の多くは、捕縛せよと言いつのった。エレミヤは捕らえられた。ダニエルの父親は先の王エホヤキムに、エレミヤに密かに会うよう進言した。前王は牢獄を訪れ、ユダ国の運命を問うた。エレミヤは降伏をすすめ、至聖所にある聖櫃に神がおわすなど世迷いごとだと吐きすてた。神はもはや去ったのだと。

【エレミヤは人々の不信仰やレビ人祭司の言動に神への背信を見たのでしょう。解き放たれのちもエレミヤはすみぼらしい身なりで昼夜を問わずひたすら説きました。「主はわたしに言われた。『災いが北から起こって、この地に住むすべての民の上に臨む』」と】

 ダニエルは短剣の鞘をはらい、怜悧な輝きを放つ切っ先を白い喉首にあてがった。

「全能の神よ、いま1度、あなたの御名を崇める民を顧みてくださいますように。異教の神に祈る者たちの罪をお許しください。世界を統べる神よ、わが血を捧げます」

 ルーシーはきゅ~んと啼き、

【あの短剣は父上のものです。イスラエルの民の祖先であるアブラハムは、犠牲として幼き息子を神に捧げようとしました。それに彼もならおうとしているのです】

 至聖所の手前に位置する聖所から言い争う声がきこえる。祭司らと少年らが押問答をしているようだ。至聖所と聖所の仕切りとなる緞帳がひかれる音がした。

「入ってはならぬ!」

至聖所の外にいる祭司らは緞帳のむこう側で怒号を発している。

 ダビデ王の時代、聖櫃に触れただけで死んだ者がいる。以来、本物の聖櫃だと信じている祭司らはけっして入ってこない。少年らは恐ろしくないのか、ダニエルのもとに駆け寄ってきた。 王族の子弟である彼らは低頭すると、ただ1人、武具をまとった少年が真っ先に声を上げた。

「羊の門が破られるまえに逃げよと、父君が申しておられます。われわれとともに参りましょう」

【石の障壁に守られた神殿域の北側にある城塞にもっとも近い門が羊の門です。断崖絶壁の上に建てられている城塞には射眼があり、難攻不落と言われてきました】

「父上は生きておいでなのか!」

 ひざまずく少年はダニエルの問いには答えず、繰り返した。

「一刻も早くこの場を去るようにと、父君が――」

 城塞で指揮をとるダニエルの父は、聖都の終わりのときがきたことを伝えているのだ。

「神のしもべであるわたしが、至聖所を去るとあってはユダの民への背信となります。大祭司はなんと思うか。神などいないと、すべての希望を捨てるにちがいない」

「みな、浮き足立って、なんびとの言葉にも耳を貸す者はおりません」

「エホヤキン王はいかがなされた」

「王は……王は、ご自身のお命をネブカドネザル王に差し出すお覚悟で王宮の寝所にこもっておられるよしにございます」

 ダニエルの目が充血した。

「ダビデ王もソロモン王も、いくさのおりは北極星を仰ぐ城塞に入り、敵の侵攻に備えられた。聖櫃を押し立てて進軍された。ヨシヤ王は先陣をきり、戦死された。偉大なる王たちの後裔であるエホヤキン王はすでに死を覚悟されておられるのか」

 年少の2人はダニエルの言葉に涙をこぼした。

「わが母は、いかがした」

 ダニエルの母は、王家の血を受け継ぐ者であったとルーシーは言う。

「敵兵の慰み者になるまいと、父君の長剣で自害されました」

武装した少年は顔を伏せて答えた。

「ダニエルさまが生きのびられることを願って……」

「そなたたちの家族の身の上を案じず、わたくしごとにかまけた問いかけをした。許せ」

 ルーシーは赤ん坊のように、ひぃっひぃっと泣きじゃくる。

「母君は常に毅然としておられ、傷ついた兵や民の手当てをしておられましたが、父君の形見の長剣をお渡しし、最期のお言葉をお伝えすると……」

 少年らは慟哭した。

 ダニエルは、黄金を張り巡らせた天井を見上げた。

「わたしの死に場所は神の住まう宮より他にない。聖なる場所を人の血で穢すことを、神はお許しにならないかもしれぬが――」

「〝神の裁き主〟を意味する御名をもつあなたさまには大きな使命があると、父君よりうかがいました。いつの日にか、あなたさまの御言葉がユダの民を覚醒させ、結束させる日が訪れると」

 ここを去りその身を隠すようにと、武装した少年は繰り返し言った。しかし、ダニエルは首を縦に振らなかった。

「ヤハウェに選ばれし民は永きにわたって、偶像を崇める罪を犯した。北の王国の民のように神に背いた代償を支払わなくてはならない。その時に至ったのであれば、わたしはもはや片時も生きていたくない。神殿の破壊を目のあたりにする前に命を絶ちたい」

 ダニエルは少年らを見回し、

「しかし神は、いかにすべきか、なぜか、お答えくださらない」

 329年前の紀元前992年に南北に国を隔てた時から、聖都エルサレムは瓦解する定めにあったとルーシーは嘆き悲しむ。

「ユダの民に希望はない」とダニエルは言った。「南王国より強国であった北王国がアッシリアに滅ぼされたのちは、南王国は盾と矛を失ったにひとしい」

「何をおっしゃるのです!」

武具をまとった少年の目は、群れない鷹を思わせた。

「わが国と北王国とは長く敵対してきました」

「そなたたちは、いくつになったのだ?」

ダニエルの表情がわずかにゆるむ。

「互いの存在を間近で見るのは何年ぶりだろう。同じ、エフライム族の子孫でありながら、幼い頃、ともに過ごしたわずかな日々をのぞいて、遠目でしかその姿を目にすることはなかった」

 エフライム族と近しい部族だったと聞き、ルーシーは、

【北王国の中でもっとも高い地位を得たのは、王家につらなるエフライム族でしたが、偶像崇拝に堕することを嫌った親族の一部の人が聖都に詣でるために南王国に移住したのでしょう?】

 少年たちはみな、整った顔立ちをしていた。

「わたしシャムライは、ダニエルさまより4歳年長です。いくさにおいて何人にもひけをとらぬと自負しております」

武具の少年は言下に答えた。

「シャムライと同じ16歳です。名はティイワ。律法学者を目指しております」

「キタバと申します。15歳です」

答えた少年は、ダニエルに従う書記官になることが夢だと言う。

「ダニエルさまと同じ12歳です」

同時に声を発した2人の少年はハレとハカシャと名乗った。

13歳の〝戒律の息子〟の儀式=バル・ミツワをすませた暁には、シャムライのような神殿を守る戦士となり、ダニエルを警護することをのぞんでいると言った。

「みなで、逃げよ」

「そのようなお言葉をお聞きするために、戦闘に加わらなかったのではございません」

真っ先にシャムライは反対した。

「わたしは幼少より訓練を課せられ、成人式ののちに神殿の警護職につきました。それ以後、神殿域であっても人目につかない場所に隠れ住むダニエルさまを見守りつづけてまいりました。父上が懇意にされている、バビロン市内に住まう商人のヨアキムから送られてくる書状を受け取り、ダニエルさまのお手に届くように取り計らうのもわたしの役目でした」

「書状の受け取りを、わたしが拒んだときになぜ、逃げなかった?」

「ダニエルさまのおられる場所こそ、われわれ臣下の生きる場所にございます。父君もわたしたちも、ずっと以前からその覚悟でおりました」

「みなの親族は地方の氏族として生きることを強く望んでいるであろうに、父母の願いを聞き入れ、この地より落ちのびるがいい。生きて、かならずや、ユダの人々のために聖都の再興を図ってほしい」

「ご無礼をお許しください」

 シャムライは素早く立ち上がると、ダニエルににじり寄った。

「何をする!」

ダニエルから怒りの炎が立ち上った。

「お静かに。将来への禍根を絶つために、王族と縁ある者は辱めをうけたうえに、命を奪われると聞きおよびました。なんとしても生きのびねばなりません」

 ティイワが、ダニエルの短剣を奪った。

「こののち、神の子、油そそがれし者として振る舞える日が訪れるまで身をお隠しください。ご存じのことでしょうが、あなたさまの御名には、神の裁き主である同時に、神から深く愛された者とも神の気に入りとも意味します」

 キタバはひざまずき、

「この日のくることを、われわれは待ち望んでおりました。あなたさまこそ、エレミヤにまさる預言者となられるお方だと」

 幼さが頬にのこるハカシャはダニエルを見上げると、

「父君は、先の王が、ダニエルさまを王宮の側近にと望まれないように、前任者の大祭司、ヒルキヤさまにお預けになられたと伺いました」

 ハレは声高に、「いずれ、あなたさまがユダの民の希望の星となられる日がくると、われわれは固く信じております」

 ハカシャは口早に、「あなた様には未来を見通せる力が備わっていると、現在の大祭司からうかがいました」

 ダニエルは首を横に振り、

「わたしはこれまで黙してきた。神のおわす聖櫃がすでに失われていることを――だから、わたしごときが至聖所に入れるのだ」

「いまなんとおっしゃいましたか!」とティイワが詰め寄った。「まさか、そのようなことが、いつ、喪われたのでございますか」

「さだかではないが、イザヤがエルサレムを去るときに持ち出したと聞いた。聖櫃を護るためにそうしたと」

 シャムライは他の少年の動揺を振りはらうかのように、

「大祭司のアザリヤさまは、戦いに挑もうとするわたしを引き止めておっしゃいました。『かの者こそ、神よりつかわされた預言者であると。守って、そのことを証しせよ』と。真実にございます!」

「神はわれわれを見捨てられたのだ」

 ダニエルが言ったそのとき、ひと筋の闇が、平伏する少年らを越えてダニエルの額に注がれた。思わず、彼はまぶたを閉じた。

 行け、バビロンへとどこからか声が聞こえた。

『これより先、そなたは未来を見る者となる』

 少年らにその声は聞こえていない。

『ネブカドネザル王はいまこのときも頭を悩ましている。王は不安でならないのだ。世界支配者としての王権を確立したのち、王の気の病はさらにひどくなる』

 ダニエルの目は天井に広がっていく闇を追う。立ちつくすダニエルを少年らは不思議そうに見つめている。

『ひとつの大いなる像が王の前に建っている。その像の頭は純金、胸と両腕とは銀、腹と腿とは青銅、すねは鉄、足の一部は鉄、一部は粘土だった。そして、1つの石が、その足を撃ち、これを砕いた。足を砕かれた像は倒れ砕け散り、風に吹かれて跡形もなくなる。バビロニアの王こそ純金の頭である。天の神はネブカデネザルを諸王の王とし、生存中の支配権はゆるがない。しかし、王の死後、第2、第3、第4の王国が興り、末の日、天の神はすべての王国を打ち砕いて終わらせる。そののちに天の神はけっして滅びることのない王国をうち建てる。その王国では、ユダの民がすべてを支配する』

 漆黒の幻の発する声はダニエルを怯えさせるのに充分だった。

『神殿が破壊されるのは十数年後、第七の月。そのときから7つの時を経て、末の日に至る』

 ダニエルは口の中で言う。

「7つの時とは……。7カ月のことか、7年のことか……? エレミヤの預言では70年後にエルサレムの荒廃は終わるはず……」

『メシアは70週ののちに現われ、のちに断たれる』

「70週……」

ダニエルは困惑している。

『末の日のはじまりは360日の7倍の年……聖櫃が喪われた時より2520年ののち……』

「気の遠くなるような時を経なければ、天の神は、裁きをくだされない……これこそが神の復讐なのかもしれない」

 何事かをつぶやくダニエルを、少年らは呆然と見上げている。

『バビロニアの王は大木が切り倒される夢を見る。7つの時の間、王は王宮を追われ、野に住み、雄牛のように草を食べる。支配権を失う危機に見舞われる。そのとき、おまえはバビロニアの影の支配者となる』

「7つの時は、いく通りもの年月を指し示しているのではないのか……」

ダニエルの独り言はつづく。

『天使長ミカエルを名乗る異形の者がおまえの助けとなる』

 低く、くぐもったこの声は、秦野の乗った車を運転していた男の声と同じだ。ルーシーのいう複製人間=ロボットの声だ!

「神の宮を出よう」とダニエルは力強い声で言った。

「ケン!」といっせいに言って、少年らは立ち上がった。

 シャムライは、フードのついた黒いマントをダニエルの肩にかけた。

12歳のダニエルは痩身で小柄だった。同じ歳のハカシャやハレより小柄なので男子には見えなかった。6人は、大祭司だけが入ることの許される至聖所を後にし、つづき部屋となっている聖所に出た。

 壁にそって等間隔にならぶ椅子にユダ部族の長老数人と10人ほどのレビ人祭司が腰かけていた。写字生とよばれる書記官たちもいる。みな一様に、苦渋の表情を隠さない。七又の燭台=メノラーの灯りが、黒衣のダニエルを照らすと、口々にののしった。大祭司でない者を至聖所に入らせたりするから神の怒りをかい、いくさに負けるのだと――。

「神は、われわれを罰せられたのだ」白い髭が胸にとどきそうな老人がうめくように言った。「おまえを敵軍にさしだせば、神のお怒りもやわらぐやもしれぬ」

「それこそ、神の罰を受けましょう!」

 声を荒げるシャムライを、ダニエルは制すると、

「モーセご自身は約束の地に至ることはないと知っておられたが、苦難の道を40年、60万もの民を率いて歩まれた。のちに子孫が、神に与えられたカナンの地から追われることも知っておられたにちがいありません。しかし、いつか、わたしたちユダの民はカナンの地を取り戻します」

「祭司でないおまえが、何をたわけたことをっ! 永い年月、わしらをたばかりおって、許されぬことじゃ」

「嘆き、涙、苦痛、死、これらは〝末の日〟に過ぎ去ります」

 胸に矢をうけた父親の幻が、ダニエルの目の前をよぎった。

「なんとしても、この戦乱を生き抜かなくてはならないのです」とダニエルは言った。「おのれの力を見定めるためにも、歩をすすめなくてはなりません」

「大祭司とおまえら親子のせいで、神の怒りをかったのだ!」

 老人のにごった金切り声が神殿の高い天井に反響した。黄金が張りめぐらされているのに、神々しさはなく有無を言わせぬ重苦しさがあった。

「どのように長い時を経ても、民の解放と神殿の再建につくすこと――それが、いまのわたしに科せられた使命です」

「神殿はいまも神に守られておる。ネブカドネザルといえども神のおわす神殿を破壊するようなことはせぬ。ましてやいくさに負けたわけではない。神がわれわれレビ人祭司をお見捨てになるはずがない」

祭司の1人が血走った目でわめいた。

 そのとき、バビロニア軍の勝ちどきが、雷鳴のように聞こえた。最後の砦だった羊の門が破られたのだとルーシーは言った。

「わが軍の守備隊が全滅したようですね……」

 ダニエルは目を閉じ、同胞の流した血の行方へ思いを馳せているようだった。

「無益な死などない。聖都の塵となってもかならずや蘇るはず」

ダニエルは長老らと祭司らに告げた。

「失せろ!」老人の声は震えていた。「バビロニア軍は、宝物のある神殿域に火の玉を降らせることはできん!」

 ダニエルらは神殿の正面玄関をさけ、北側の祭司専用の出入口から回廊に出た。

 年長の3人がダニエルの身辺を警護した。

「参りましょう」とシャムライは促した。

 乱れた足音が襲ってきた。 

 松明があたりを照らした。

 石の障壁を越え、神殿の深部に侵入してきたのは敵兵ではなかった。麻袋を背負った十数人の男たちは少年らを目にすると、色めきたった。

「やけに身ぎれいにしてるじゃねぇか。おめぇら、どこかに食い物を隠してるんだな」 

 少年らの容姿は、長い間の兵糧攻めにもそこなわれることがなかった。整った目鼻立ちと無駄のない身のこなしが男たちの目をひいたのだ。

「ケニ人だな」とシャムライは言った。

「それがどうした!」腕に刺青をした蓬髪の男が答えた。

「おまえたちは、いままでどこに隠れていたのだ」

シャムライの口調は厳しかった。

「おれたちは、おまえらに不自由民=ゲーリームだと蔑まれてきたんだ。恩も義理もねぇのに、いくさにまで狩りだされたんだ。たまったもんじゃねぇ」

「戦う意志のないゲーリームはとっくに逃げ出したはずだ。おまえたちは富者の邸宅から金品を盗み出すためにいままで残っていたんだろ。袋の中身は推して知るべしだな」

「食いぶちを盗って、何がわるい!」

「神殿の器まで盗もうという魂胆か」

 ケニ人は、目を凝らした。

「なんだぁ、真ん中で隠れてるやつは!」

 彼らの興味をそそったのは毅然と立っている黒マント姿のダニエルの存在だった。

ルーシーは説明した。エルサレムの住人はダニエルを目にしたことはなかったからだと。

「男か、女か?」

 血糊で顔を汚した男は、指差して問うたが、マントのかぶり物で顔の半分を隠したダニエルは何も答えない。

「畜生め、生意気なガキらだ」

 ケニ人らが駆け寄ろうとしたとたん、シャムライは素早く剣をぬいた。

 犬の遠吠えにその場にいる者たちの動きが、一瞬止まった。

【天使長ミカエル、いよいよ、あなたの出番ですよ】

背中のルーシーは吠え立てる。

【Everything come handy when rightly used】

 わたしには気懸りがあった。

「ダニエルの聞いた声は、秦野が乗っていった車の運転手の声と似てたよなぁ。考えてみたら、地震のときに聞こえた声もあの声やった気がする……。あれはいったいなんなん?」

【どうでもいいことに脳みそを使わなーい!】

  12 アーハ

 ダニエルはヴィジョンで、自転車を漕ぐわたしとルーシーを目にしたはずなのに静止画像のように身動きしない。

【馬とは似ても似つかない乗り物に乗り、刺青と見紛う青あざや三白眼の不審人物を見れば、だれだってびっくりします。怪しみますよ。金色の髪はそそり立っているわけですしね。形而上学的なレベルでは認識できても、生理的に受けつけないのでしょう】

「おかしな帽子をかぶった犬はどーなんよっ」

「だ、だれだ!?」

腕に刺青をした男はうろたえている。

【名乗ればいいのですよ】とルーシー。

「ミカエルだ!」

 ダニエルは、あっと声を出した。少年らはダニエルを守ろうと身構えた。盗賊どもは背負っている大きな袋をその場に投げ捨てると、戦いを挑んできた。自転車のすぐ後ろにいたアリオクは足音を立てずに、進み出ると、腰におびた剣を胸の前でかまえたかと思うまに男たちの1人に斬りかかり、致命傷を負わせた。

まばたきする間もなかった。

「いつの間に?」

【ぼぉーっと見ていてどーするんですかっ。いまこそ、天使の実在を明示すべきときであり、絶対の真実を披瀝するときなのです!】 

アリオクの素早い行動に力を得たのか。

「ソーラ!」と少年らはいっせいに雄叫びを発した。

 別の男がわたしにむかってきた。勝手に手が反応した。カッターナイフを刺青男に向けたとたん、青白い光が発射した。感電した刺青男はうつぶせに倒れた。

【Fine! Excellent! Splendid!】

 ここにいる連中には、ルーシーの絶賛の声が、犬が吠えているようにしか聞こえないのが、無念だ。

 アリオクは盗賊と格闘しながら、「いまのが魔除けの呪術なのか」

と感心している。

【このくらいはやってもらわないと、補佐役のわたしが本部統括管理官に叱られますからね】

ルーシーは肉球でわたしの肩を叩き、

【But――、途中でへばって、アラビア人のキャラバンの隊長に〝太陽の神〟だと偽って健康に有害な煙草を与えたお返しに、飲み食いさしてもらい、あげくに、やれ下着だのトイレだのと、ぐだぐだ言ってるうちに貴重な時間を浪費しましたね。これでは神のご意志に添う使命は果たせませんよ。だってそうじゃありませんか。まっすぐに進めばもっと早く着いたものを、深夜になってしまったんですよ。アリオクはアリオクで椰子の実でつくった酒をしこたま飲んでくだをまくし――せっかくダニエルさまの前頭連合野にアクセスしてあげたというのに――わたしの努力が無になる寸前でした。The watch has stopped!】

 背中で聞こえている唸り声は、怒りに満ちていた。それはまさに、漆黒の闇に閉ざされようとする聖都への鎮魂歌だった。だれの耳にも届いただろう。わたしは血の色に染まった月にむかってカッターナイフをかざした。怒り狂うルーシーにも、わたしの意図するところがようやく伝わったようだ。そろって、月に向かって頭をしっかりと固定した。1日の終わりの微光は長い筋となって、聖所の上空を照らしていた。

【The watch is going】とルーシーは機嫌をなおす。

 刺青男がそろりと起き上がり、腕をのばし、青白い光を放つカッターナイフに触れようとした。後退りしようにも、背中のルーシーが男にむかって火を吹くように吠えるのでままならない。

【Go,Go,ゴボテン!】

 脅すつもりでカッターナイフを振りまわす。迫ってくる刺青の額から血が吹き出した。ギョェッとわたしが悲鳴をあげたとたん、カッターナイフの先端の刃がパラリと落ちた。

「なんでやのん?」 

 別の男が襲いかかってきた。尖った刃先で男の腕を切り裂いた。男は蚊にでも刺されたようにしか感じないのか、腕から血を流しながら短剣を逆手に持ち直し、振りおろそうとした。絶体絶命、頭が真っ二つになると恐れた瞬間、ルーシーの前脚がわたしの後頭部を前へ押し出した。頭がぐらつき、カッターナイフを握る手元が狂った。男の親指に刃先が触れた。骨まで切れるはずがないのに親指が切断された。刃がまた1枚、落ちた。もしかすると、人を傷つけるたびに容量が減っていくのか!? 

「バアルの化身めっ」

 斧を手にしたもう1人の男が、斬りかかってきた。カッターナイフが青白いビームを発した。逃げていく男の背にビームが命中した。男は全身を震わせながら、うつぶせにたおれた。

「さすがだなぁ」アリオクは笑って見ている。

 目の先に殺した相手の死体が転がっている。

【Good job!】

ルーシーは右前脚でわたしの頭を叩いた。黄金の毛髪の1本がポキリと折れた。頭に手をやると、根こそぎ折れている。ハッと気づいて頭をまさぐると、べつの箇所にも同じような丸ハゲがある!

「あかん!!」わたしは絶叫した。

「神のものを盗む、アカンなどわれわれの中にはいない」とシャムライは訂正を迫る。

【ヨシュア記7章を参照してください】ルーシーののんびりした声にムカつく。【アカンは人名です。奉納物を盗み、神の怒りをかい、家族もろとも石打ちの刑に処されたのちに焼き殺されました】

「なんでアタシがこんなめにあうんよ!」

 何事が起きたのかと、ダニエルも盗賊らも不審を通りこし、驚愕の目で半狂乱のわたしを見つめる。

「いややん、もお、このままやと、早晩、丸ハゲだらけになる」

 それだけではない、身を守るすべもなくなる。男の1人が、あかあかと燃える松明を金色に輝く頭に近づけた。燃えうつることはなかった。松明のほうが、根元まで燃え上がったのだ。

「ば、化け物だっ」腰をぬかした男は叫ぶ。

 黄金の毛髪は? 折れていない!

「よっしゃぁー!」

 そうか、防禦にのみ使えばいいのか。

「このお方は、モーセの後継者ヨシュアではないっ!」

 ダニエルにつき従う1人――ビジョンで見たティイワが、ダニエルの呼び名がちがうと抗議した。残る4人も、ヨシュアさまではないと言い立てる。

「この連中は、さっきからなにをネチネチゆーてるのん?」と、背中のルーシーに訊く。

「静かにせよ」

りんとしたダニエルの声に、その場にいる者たちは、ケンと答え動きを止めた。

「全能なる神が、わが願いを聞きとどけてくだいました」

ダニエルは、天を仰ぎ、アーメンと発し、

「今後、どのような事態に立ち至っても、黄金の冠をいただくミカエルさまのお助けがあれば、われわれは救われます。あなたさまは英雄ヨシュアの再来とも言えましょう」

「美しい……」アリオクはダニエルを見て感嘆の声をもらした。

 どいつもこいつも趣味がわるい。

「『よっしゃー』は日本語なんやって!」

 ルーシーが耳元で唸る。

【関西弁だと、翻訳機能プログラムに誤作動が発生し、変換されないと言いましたが、よっしゃーとあかんは類似したヘブライ語があるのです】

「ケンも、ソーラも?」

【ケンは、はい。ソーラはソーレと同じです】

 ティイワはわたしを一瞥し、「ダニエルさまこそ、油そそがれし者」

と言った。

シャムライは、「理解不能の言葉を話す奇怪な魔物さえ、ダニエルさまには恭順した」とほざいた。

「アンタに油をかけてもらわんでよかったとつくづく思うわ」

首を背中にねじまげる。

「こいつら、恩人に対して礼儀をしらんすぎやろ」

 ルーシーのしれっとした顔が目のはしに映る。

【高価なそそぎ油がムダになった王や預言者もあまたいますけどね。あなたの場合は、なんと言えばいいのでしょうか。せっかく統括本部管理官に用意していただいたそそぎ油の壜を割ってしまったんですから、もはや形容すべき言葉がありません】

 ダニエルは盗賊どもに命令した。「無傷の者はわたしに従いなさい」

 4人の者が無言で頷いた。うつぶせに倒れた男は死んでいなかった。

「いまから神殿内にある神の器を、安全な場所に運びだします」 

「祭司らのいる聖所を通らなくてはならないのですよ」

ティイワがダニエルを止めた。

「ミカエルさま、どうか、わたしにお力をお貸しください」

ダニエルには拒めない特別な威厳があった。

「そのお力を祭司らに見せていただきたいのです」

「天使長ではない」と断ったのに、

「では、ただちに」とアリオクは、従う者たちを促す。「ともにまいりましょう」

「なんでやねん。カンケーないゆーてるのに……」

【Because,社交不安障害のあるあなたが、根深いネガティブ思考に侵されていることは先刻、承知しています。ですがこのさい、意義ある使命にむかって邁進するしか現状を打破し、以前の堕落した思考を断ち切るすべはないのです。神に不服従では、敵に罠を仕掛ける使命は果たせません】

「関西弁でしゃべってんのをええことにして、自分の都合のええようにダニエルはゆーてるねん。こうなったら、とことんさかろうたる!」

 ダニエルはほんの少し、フードをかぶった頭をかしげた。標準語で彼に話す。行動をともにしたくないと。名前はたしかにミカエルだが、天使長ではないし、彼らの信仰しているヤハウェともかかわりがないと。

 ルーシーが口をはさむ。【ダニエルさまにはお立場があります。天使長の名誉にかかわる発言は標準語ではなくヘブライ語で述べてください。あなたの使命はあの方をお守りし、お助けすることなのですからね。ただし、愚痴は関西弁でけっこうです】

「ヘブライ語なんてしらんやん。どうせぇゆーんよ」

「犬を黙らせろ! 黙らせないなら斬り殺す」とシャムライ。

「てめぇ、もーいっぺん、言ってみろ」

激しい憤りのせいで、頭が爆発しそうになった。

「オレさまの犬を、殺せるものなら殺してみろ。てめぇの喉をかっ切ってやる!」

「おまえは、われわれの味方なのか? 敵方の内通者ではないのか?」

「てめぇらは、敵と恩人の区別もつかねぇのかっ」

 カッターナイフを持つ手に力をこめる。

背中のルーシーは鼻先でわたしのうなじを小突いた。

【体力と気力を消耗するだけの、くだらない喧嘩は時間の浪費です】

「おまえが呪術師なら、あの少年は天界の者だろうな。あのような高貴な輝きを放つ少年を、わたしははじめて目にした」

 アリオクはダニエルにひたすら見惚れている。

このおっさんは、モノホンのアホタレや。

「なんで、関東弁は変換されるん。これって、東京を日本の中心やと考えてる神サンの差別とちゃうか。言葉を乱すだけでは足りひんのやなぁ」

【形態素解析ソフトの有る無しの差ですよ】

「至急、なんたらソフトを用意してよ。標準語やと自分の思うことがちゃんとしゃべられへん」

【神のご意志にかかわりなく経費削減の波は天界にも押し寄せているのです。コンピュータに関しては西暦1999年問題に備えなくてはなりませんからね。今回のミッションにも多額の経費がかかっているのですよ】

「木の自転車をくれただけで、多額の経費もクソもない。アタシにカンケーないって、なんべんゆーたらわかってくれるんよ!天界には被害を申し立てる部署はないのん?」

【不完全な人間の定めたろくでもない法律はありませんが、裁判所のようなものはあります。主として、最後の審判を受け持っていますので、天使の不平不満を訴える部署はありません。そもそも天使には使命いがいの役目がないからです】

「ほんならアタシは天使とちゃうな? これでほっとしたわ」

【言ったではありませんか? あなたは稀な誤作動のせいで出来損なったのです】

 この後に起きた神殿内での祭司とのいざこざは省略するとして、とにもかくにも仕切りに使われている緞帳を、アリオクが血にぬれた短剣で切り裂き、金ピカの器と燭台をいくつか包み、偽物の聖櫃へ入れて外へ持ち出した。神殿内はこれでもかというほど黄金の器物で充たされていた。壁も燭台も台座も何もかもが黄金なのだ。わたしの目には悪趣味に見えた。適当に偽物の聖櫃に投げ込み、みなで担ぐことになり、わたしも手伝わされた。

掛け声は「エッサ」。

少年らは、神殿の回廊に運び出したとたん、「エンヤラヤー」と言った。正確には「エァニ・アハレ・ヤー」と言ったらしい。『われはヤハウェを賛美する』という意味だそうだ。

 ダニエルに熱い視線を注ぐアリオクと、ダニエルに畏敬の念を抱く少年らをおいて、わたしは踵を返した。

「こんな恩知らずな連中とは付き合いきれんわ。神経がさかむけになる」

 ウーッウーッとルーシーは唸る。【何ひとつ、使命を果たしていなーい!】

 彼らに背をむけ歩きだすと、彼方で花火のような火柱があがった。南の方角だという。ダビデの都市と呼ばれているあたりらしい。

「ミカエルさま、敗者となった民に希望をお与えくださいますように」

ダニエルは立ち止まるわたしの上着を引っ張り引き止めにかかる。

「あほんだら! 天使長じゃねぇつってんだろうがっ」

 目が慣れてくると、自分の立っている場所にたじろいだ。

神殿の建てられている敷地の広さがとてつもないのだ。

ヴィジョンで見たバビロンの謁見の間の光景もそうだったが、2600年近く前に人間の知覚を圧倒する建造物がすでに存在したことへの驚異を感じずにはいられない。神殿の屋根の高さも半端ないのだ。クレーンやブルドーザーなどの機材があったとは思えない時代に、どうやって石材を積みあげたのだろう。女性しか入れないという広場を突っ切ると、これまた数えきれない人間のいる広場に出た。傷ついた兵士や女や子ども、それに年老いた者たちで埋まっている。大勢いるにもかかわらず、意気消沈する気持ちが強いのだろう。奇妙な静けさの中に人びとはいた。

 後を追ってきたダニエルはしつこい。

「ミカエルさまは、ふしぎな力をもっておられます」

「犬におかしな力があんだよ」

「あなたにその自覚がなくとも、ヤハウェに選ばれし者はその役目を果たさねばなりません」

「うちらは、この時代のもんじゃねぇつーの。戦争なんか50年もない遠い島国からやって来たんだからさ」

 ダニエルはまたしても首を傾げる。

「ユダ王国も平和な時代がありました」

「オレさまとこの犬とは、2600年先のニッポンからやって来たーっ!」

 2592年に訂正しろとルーシーはうるさく吠える。

 ダニエルの青ざめた顔が一層、透き通る。

「いまより2520年後に、末の日は、こなかったのですか!」

 ルーシーは耳元で囁く。【末の日を、わたしたちの生きている時代から70年後だとすると2065年になりますが、ユダ王国が滅びた年、紀元前587年から計算すると1933年になります】

「2520マイナス587で1933か」

【1933年、この年、ヒットラーがドイツの首相になり、日本が国際連盟を脱退します。第二次世界大戦への序曲ともとれる出来事でした。終わりのはじまりのときとも言えるでしょう】

「この時代のダニエルからすると、〝末の日〟はとんでもない未来になるけれど、アタシらの時代から計算すると、〝終わりの日〟にむかって生きてることになるんや。へぇ」

【悪魔に操られた者が利益を得る人類の歴史は、ほどなく終わります。神に忠実な者たちは天国へと導かれ、悪に染まった者たちには神の鉄槌がくだるのです】

「ほんでも、もしかしたら、1933年から70後ということもあるかもしれへんやん。そしたら2003年にならへんか? で、終わりにならへんかったら、2073年かも。それでも終わりにならへんときは70年ずつ先のばししていったら、どこかで当たるかもな。そんなん、アタシの知ったこっちゃない」

 ダニエルは超感覚で内緒話を理解したのかしないのか、

「ミカエルさまは〝末の日〟を生きのびられたのですか」

 たしかにこの世の終わりを予感させた大地震だった。

 ティイワは顔をしかめると、不平をもらした。

「なんの話をされているのです?」

「おまえの言う未来に、ユダ部族はいるのか」とシャムライ。

「ユダヤ人と呼ばれている」

「われわれはバビロニアの奴隷ではないのか?」

 ルーシーは唸る。祖国を失ったユダヤ人に襲いかかった数々の苦難を伝えるべきではないと。イスラエル建国後に起きたアラブ人との紛争も。

「有能なので、世界を支配するほどの力を持っていると言われている」と告げる。

 ティイワの表情が明るくなった。

「われわれの王国は滅びなかったんだ。バビロニアと戦い、勝利し、ソロモン王の時代のような栄華がよみがえるんだ」

 ティイワは髪をむしり、衣服を破り、泣きだした。

ユダヤ人は感動すると取り乱す性癖があるらしい。

「知っていることを教えてくれ」とシャムライ。

 ルーシーから送信された知識を伝えた。

「国名はイスラエル。首都はエルサレム。北の隣国はいまと同じシリア。ヨルダン川の東の国はヨルダン。エジプトとギリシアの国名に変化はない。アッシリアとバビロニアは合わさってイラクになり、フェニキアはレバノン。歴史上では、メディアと属領パールサのペルシア人の連合軍がバビロニアを敗り、大帝国をつくる。エラム人も当然、メディアにつく。現在の国名はイラン」

「属国のペルシアと、わが国と同盟を結んでいるメディアとの連合軍がバビロニアを滅ぼすというのか……」アリオクは呻くように言った。「メディアはともかく、小国のパールサ(ペルシア)がまさか、そんなばかげたことが……」

「ネブカドネザル王の時代は大丈夫。いますぐの話じゃない。ペルシアの次は、ギリシアとローマが栄えて……」

 ルーシーはしゃべりすぎるなと文句をたれる。

「人の一生は短いのでゆっくりとしか過ぎないように感じるけれど、あっというまに世界を支配する国は変わっていく」

 だれも止められないと言うと、「それだけ伺えれば充分です」と言ってダニエルは笑顔になった。そして、たずねた。

「後の世に、ユダ部族と聖なる都は存在し、バビロニア王国とその都バビロンは存在しないのですね。聖なる書物=モーセの五書に記されているヘブライ語はどうなっているのです?」

「イスラエルの言語はいまもヘブライ語だ」キタバが口をはさむ。

「ダニエルさま、すべての国の記述をまとめたものとはなんのことですか」

 ルーシーは歴史をそんなふうに訳したのか。

「ミカエルさまがご存じです」とダニエルは言った。

「えーと、つまり、人間が誕生したときから、うちらのいる時代までのことを記録している書物があって、それを読めば、人間のたどってきた出来事がわかるようになっている」

「人間が誕生したときと言うと、モーセの記した巻き物が、あなたの時代にもあるということですか?」とキタバもしつこい。

 ルーシーが唸る。旧約聖書を見せろと言っている。前カゴのリュックの中から取り出し、創世記1章1節読み上げた。

「『はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた』」

 みなの顔が光り輝き、その後につづく言葉を、声をそろえて暗唱した。

「『神は言われた。『光あれ』と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光と闇とを分けられた。神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第1日である』」

「ユダの民の記した書物が世界の歴史なのか?!」とアリオクは驚く。

「まあな、そんなふうに考える人も大勢いる。もちろん、異なる意見もなくはないが」

好き勝手に解釈しろとホントは言いたい。恐龍が跋扈した時代の後に登場した哺乳類の中の猿から人間が誕生したと学校で習うなんて、どうして言えるだろう。シャムライ以外の少年は、その書物を見せてくれと言う。爺さんから押しつけられた旧約聖書を手渡すと、ものめずらしそうに開いて見ている。豆粒みたいな日本語を指さして、いま読んだ箇所がどこかと問う。教えると、またもや驚嘆する。これは楔形文字の一種か言う者もいれば、モーセの記した言葉からはじまると言って小躍りする者もいる。ダニエルは彼らを黙って見つめている。考えてみれば、想像を絶するというか、奇跡だ。彼らの先祖の記した書物が時を越えて、東の果ての島にまで伝わっているのだから。

「人びとは長い時を旅しなくてはならないようですね。為すべきことを為しましょう」

 ダニエルは彼らから旧約聖書を取り上げると、リュックに入れるように言った。

 グワングワングワン……。わたしはワンワン語を小声でダニエルに伝えた。

「この書物の中に、『ダニエル書』がある」と。

「そのような啓示は受けていません」

 王命で、バビロンの宮廷に呼ばれることも告げた。

 アリオクがわたしとダニエルを見比べた。

 ダニエルの表情がこわばった。

「啓示は、自ら感受するものとばかり思っていました。神の御使いによってもたらされると、たったいま知りました」

「もたらしたから、ここで別れる」 

「神のご加護と祝福を信じてともに歩みましょう」ダニエルは聞き入れない。「ミカエルさまの導きなくして、ネブカドネザル王との対面は果たせません」

「王の護衛長が計らってくれる」

アリオクに、ダニエルを案内するように言った。

「おまえこそが王命によって召されるているのだ」とアリオクは言った。「呪術師のおまえの予言が正しいのなら、メディアとペルシアとエラムを警戒するように陛下にお伝えしなくてはならない」

 もう少しで、あんたは殺される運命なんだから、バビロニアを救うことはできないと言いそうになった。

「神が未来を定めておられるのですね」

ダニエルは何かを悟ったように、「安堵しました」と言った。

【アリオクの求めに応じなくてはゲートは開きませんよ】

背中のルーシーは許さない。

「石と時計ではあかんの?」

 なぜか、アカンのところだけ、連中に伝わり、ぐちゃぐちゃやかましい。われわれはアカンではないと。

「アリババの『開けゴマ!』みたいに呪文はないのん」

【Open sesame! アラビア語で『イフタフ・ヤー・シムシム』と百万回叫んでもゴマ1粒でてきません。天界の許可なくゲートが開きません】 

「おまえが同行しないと、ダニエルが不安がる」

 アリオクはダニエルとかかわることを自ら望んでいる。一蓮托生とはこのことか……。

 神殿を囲む石段下の敷石は白と黒の正方形の市松模様になっていた。神殿前の天にとどくような2本の門柱を見上げる。彼らとともに、水の満ちた巨大な水盤を横切り、片側に階段のある台座の前にきた。来るときは迂回したので煙しか見なかったが、お揃いの白い服を血に染めた男たちが台座の下で悲鳴をあげる仔羊や仔山羊の首を刎ね、皮を剥き、逆さに吊している。血抜きを終えると、台座の上にいる同じ格好の数人の男たちに届ける。受け取った男たちは皮を剥がれ、血液をしぼりとられた仔山羊や仔羊を串刺しにして丸焼きにしている。一面が血の海といってもいい。血にまみれながら兵士らは焼きあがったばかりの肉を食している。遺伝子組み替えの仔山羊と間違えられないよう、ルーシーはターバンの頭を引っ込めた。

「柱廊玄関へまいりましょう」とダニエルは促す。

 神殿域は2重の障壁で守られている。民衆は至聖所の外側にある、むやみにだだっ広い庭にも集まっていた。石と煉瓦の街は、神戸と違って、緑がほとんどない。防衛のためなのだろう、断崖の上に建てられているのでアリオクの案内で潜入するときも、身寄りのない遺体やゴミを捨てる場所〝ヒンノムの谷〟を進んだ。湿度が高くないせいだろう。悪臭はほとんどしない。幅が2㍍もないような曲がりくねった坂道を登り、内通者の待ち構えている〝灰の山の門〟から忍び入った。木の自転車を背負ったアリオクは言った。谷から軍隊は攻め登れないが、われわれは悪路を我慢すればなんとか入れると。

 長い黒衣のマントに身をつつんだダニエルは大理石の敷石の上をすべるように歩む。 柱廊玄関はバビロニア軍の土塁に灯された篝火で、真昼のように明るかった。敵兵の喚声と押し寄せる足音がどよめきとなって地面を揺るがせている。まるで地震のようだった。

【シオンの山にそびえる、ソロモンの宮殿が焼け落ちたようですね】

とルーシーがささやいたとたん、

「わたしの生まれた日は滅びうせよ。『男の子が宿った』と言った夜もそのようになれ」

シャムライは、たちのぼる火炎を目にして、呻くように言った。

「その日は暗くなるように。神が上からこれを顧みられないように。光がこれを照らさないように」

 ルーシーは耳打ちする。ヨブ記3章からの引用だと。

 少年らも口々に言って涙した。

「闇と暗黒がこれを取りもどすように」

「雲が、その上にとどまるように」

「日を暗くする者が、これを脅かすように」

「なにをゆーてるのん?」

【生まれたことを嘆いているのです】

「いまさら、間にあわん。アタシも捨てられた日になんで死なんかったんかって、なんべんも嘆いたけど、どーにもならん」

【そうでしょうか……】とルーシーは言った。【あなたは捨てられたのではなく、保護されたのです】

 広場を見下ろす神殿の柱廊玄関に、彼らが姿を見せると一瞬にして静寂が訪れた。敗北を知り、傷ついた民衆や兵士らは神殿の広場に逃げこんでいた。絶望のあまり、自らの手で死を選ぼうとする者たちもいたが、麗しい少年らの出現に息をのみ、その手を止めた。 

行き場を失った傷ついた民が、声なき声を発した。「お助けを……」懇願の声はさざ波のようにひろがった。

 ルーシーは、円柱の陰に隠れているわたしの首筋に咬みつき、人々から見える位置に出ろとしつこく言う。ダニエルを守るための心ないルーシーの振る舞いに腹の底は煮えたぎったが、

「のど飴いらんのん?」

【No,thanks.わたしが耳元で囁きますから、その通りに言ってください。Do you understand? 傷ついた民衆の目には、焼き尽くされようとする聖都を、魔の手から守るために天界よりつかわされた三白眼の金冠頭が、Sorry! 御使いのように見えるはずです】

 仏頂ヅラで従う。

「わたしの名はミカエル。世紀末のニッポンからきた」

 話しだすと、舌が勝手に動き出した。ルーシーは唸り声をあげたが、「アンタたちの子孫はノーベル賞をたくさん貰っている」

【What’s?】と、背中でやかましい。【アホ天使め!】

「20世紀の大発明と言われている相対性理論を考えたアインシュタインはユダヤ人の子孫だし、人間に無意識があることを発見したフロイトもそう。新たな宗教ともいえる共産主義を信奉する人たちが聖書のような崇めている『資本論』を書いたマルクスしかり。とにかくすごい。ハンパでない金持ちもいる。大統領や総理大臣の名前は知らなくてもロックフェラーやロスチャイルドの名前はみんなが知ってる。政治家もいれば芸術家もわんさかいる。作曲家のマーラー、詩人のハイネ、画家のシャガール、建築家ではピサロ。映画監督のスティーブン・スピルバーグ。動く絵をつくる人で、『シンドラーのリスト』でアカデミー監督賞を受賞した。彼らしくない映画だったけれど、ユダヤ人の彼はどうしても先祖の苦難を映像化したかったようだ。アンタたちの子孫は総じて優秀で執念深い」

 咳払いを1つし、

「うちらの住む国、ニッポンが世界の歴史に登場したのはごく最近のことで、えーと、130年ほど前になる。その当時から、アッシリアから逃れた北の10部族が、東の果ての島ニッポンに渡来したと言われている」

 10部族と聞き、人々の間に動揺が広がりはじめた。彼らにとって歓迎すべき仲間ではないようだ。

 ダニエルが前に進み出た。彼はフードを首の後ろに下げると、広場を埋める嘆きの渦にむかって、両の腕を高くあげた。まっすぐのびた白く細い腕は天の雲にとどくかのように見えた。

 虫の息の民が起き上がり、「メシアだっ」と悲鳴のような声で言った。

「わたしは、いと高き神のしもべである。いかなる苦難もわれわれの神ヤハウェへの愛を挫くことはない。聖別された民よ、さぁ、勇気をもって、ヤハウェに賛美をささげ、ともにこの苦難に耐えよう」

 ユダの民は胸を叩き、衣服をやぶり、土にまみれて慟哭した。

「ヤハウェが、すべての災いからあなた方の身を守ってくださる。魂を救ってくださる」ダニエルの声は染み透るように人々の頭上にとどき広場の隅々に響いた。「天の神の王国を信じるのです」

【あなたもひと言でいいから、天使長らしいことを言ってくださればねぇ】ルーシーは難癖をつける。【わたしの面目もたつのに……】

「天使やないって、なんべんもゆーてる!」

ほとばしるように叫んだが、その声はだれにも届かなかったようだ。

シャムライには通じたのか、「妖術師のたぐいにしか見えないんだ」と愚弄した。

 やはりわたしは偽物なのだ。だれも本気で話を聞いてくれない。

【もうひと押しです】とルーシーはわたしが人々に話すことにこだわる。

「アンタが、代わりにゆーたらどーよ」

【言えるもんなら、この不条理に甘んじていませんよ】

「ダニエルさま、一刻も早く、この場を去りましょう」とシャムライは促す。

 ダニエルがうなずいた次の瞬間、バビロニア軍の兵士が群れをなして神殿広場になだれこんできた。戦闘意欲のある民は皆無だった。敵軍の兵士は憐れみのひとかけらも見せず、負傷した兵士を槍で突き刺し、両刃の剣でなで斬りにしていく。

「これって、映画のセットの中にいてるんとちゃうよな?」

【少しはおのれの使命を悟ったらどうなんですか】

「歴史もんのビデオの夢を見てるわけでもないねんなぁ。立体映像やもんな。リアルすぎて、信じられへん……」

 広角レンズの三白眼のおかげで隅々まで見渡せる。若い女は引きずられ、犯され、抗うと串刺しにされていた。逃げ場はないと諦めているのか、民衆は残虐な光景が眼前でくり広げられても敵兵の為すがままに身を任せていた。

「背徳の都バビロンに、神の鉄槌は下る!」

 ダニエルの声は、悲鳴と嬌声の渦巻いていた広場全体に響きわたった。テノール歌手のようだった。広場を埋める将兵と民衆の目が、わたしに注がれた。異様な風体の魔物が呪いの言葉を発したと敵の射手は勘違いしたようだ。

 火矢が前方、180度、あらゆる角度から飛んできた。夜空は一瞬にして真紅の軌跡を描く。アリオクとシャムライは剣をぬき、ダニエルの前に立ち、振りかかる火矢を切り落とすつもりのようだ。

 ルーシーの脚が、わたしの肩を押さえた。

「なんで、アタシの肩に後ろ脚で立つんよーっ!」

 ルーシーは、わたしのハリネズミのような頭に腹部をもたせかけると、前脚を頭のてっぺんに置いた。そのとたん、わたしたちは黄金の発光体に変身した。サウナに入ったように熱い! 

「火傷するやないの!」

 ルーシーは、『ドラゴンボール』の主人公、千年に1人しか現れないというスーパーサイヤ人を真似たのか、「ワンワンウーッ」と、犬語バージョンで叫んだ。とたんに飛んできた火矢はマッチ棒の火のように燃えかすになり、パキパキと音を立てて折れていった。

【あなたの背中で両手、両足をめいっぱい広げてましたから、人々からは手が6本に見えたと思いますよ。金冠頭の上に、わたしの顔が王冠のように乗っかっていましたからね。オリエンタルティストでしたが、神のご威光は伝わったと思います】

 敵味方の区別なく、おおっという感嘆と畏怖の入り交じった声の集合体がわたしたちを包んだ。ルーシーに言わせると、高次元のマイクロ波で火矢を無力化したのだそうだ。

「ヒラテンもやるやん」

 上体をねじり、片足の肉球にハイタッチ。ルーシーは、グゥフフフンと笑った。

 ダニエルは、歓喜する人々に静かに語りかけた。「エホヤキン王の治世第2年(紀元前597年)、第1の月、テベテの17日、聖都エルサレムの城門は破られたが、神の宮は滅びることはない。土足で踏みにじられ、黄金の壁も床もはぎ取られ、聖なる櫃を奪われようと、神の宮はゆるがない。いま、血の色に染まった月が、神殿の真上にかかり、闇夜を見下ろしている。われわれユダの民はこののちいかなる困難に遭遇しようと、愛ある神ヤハウェとともにあることを誓おう。万物の主ヤハウェは、聖都エルサレムをふたたび栄光の地とされる。その日はかならず訪れる」

 腰に筆記用具を携帯していたキタバが書き止めようとした。

突然、夜空に雷鳴が轟き、青い稲妻がいくすじも走った。

 ビー玉のような雹がふり、城壁の篝火がかき消えた。

「神の裁きだっ」という声がそこかしこから聞こえる。

 稲妻と霰の荒れ狂う中、ルーシーを背負ったわたしは激走した。ダニエルたちがついてくる! 金冠頭の輝きのせいだ。振り返り、同行を拒否。

「やはり異教徒の魔術師なのだ!」とティイワは喚いた。「勿体ぶって、ダニエルさまのお心を悩ますのが本心だろう」

「てめぇっ」と、わたしはティイワに殴りかかった。「ぶっ殺されたいかっ」

 シャムライがわたしの手首をつかんだ。ルーシーを背負っているせいで重心をたもてず、うつぶせに倒れる。青あざの額を敷石にぶつける。

シャムライは「非力なくせに突っ張るな」と言った。

 永遠に彼らと袂を分かつ決意を固める。

 屈辱感と憤怒を抱き、回廊に引き返した。

薄気味悪いくらい背中のルーシーは黙っている。

「こんなろくでもない連中のいてる場所に、1分でも1秒でも余分におりたない。だいち、丸ハゲになるかもしれんのに。ほんまになったらだれが責任をとってくれるんよ。損害賠償で訴えても、アンタにお金を払う能力なんてないやん。骨折り損のくたびれ儲けやっ」

 回廊の下に隠しておいたリュックと壊れかけの自転車を引っ張り出した。ルーシーを背負い直し、ギシギシ音を立てる自転車にまたがり、南にむかって走らせた。時計をもらったことが災いをもたらしたのか、秦野から盗んだ石の影響か……。なんとかしなければ――日本に、神戸に、家に帰還する方法を懸命に考える。ルーシーがなんと言おうと、秦野も言っていたではないか。石と時を刻む腕輪があれば、なんでも可能になるようなことを。

 暗闇の中、地元民と同じ、ターバンに筒状の衣の男とすれちがった。秦野を乗せた車の運転手に似ていた。あのときは表情が見えなかったのでロボットにしか見えなかったが、窪んだ目に歓喜の色が見えていまにも笑いだしそうな雰囲気が感じられた。

「なんやのん? いまのは……」

 背中のルーシーは呼吸を忘れたように息をひそめている。

「なぁ、あれは?」

【わたしは何も見ていません!】

 問いつめようとした。敵軍の兵士が神殿の広場から回廊になだれこんでくる光景が目の前にひろがった。途切れることがない。歩ける兵士は破られていない城門をめざして移動している。

「すぐにこうなるということか……。ルーシーはどう思う?」

【この街はひょうたんの形をしていて、真ん中がくびれています。橋がかかり、その手前の東側に王の園と呼ばれる場所があり、そこは二重の城壁が築かれているうえに壁と壁の間に急斜面の石段があります。彼らはそこを下って逃亡するつもりです】と説明口調。

「エルサレム市内に入ったときは、木の自転車を見ただけで腰をぬかして、みんな黙って通してくれたけど……」

 生きるか死ぬかの瀬戸際になると、大半の兵士は魔物を目にしても道をあけない。我先に逃げる兵士のせいで前も後ろも見えない。どうにかならないかとすがっても、ルーシーは無回答。『神曲』を思い出す。ダンテは不思議な旅に出て、まず豹に出くわし、つぎにライオン。そのあとに地獄からきた狼と出会う。さっき首筋に咬みついたルーシーは狼の子孫か?いやいや、種が異なる。ダンテは狼に食われそうになるが、詩人のヴィルギリウスが現れて助けられる。そして、地獄巡りがはじまる。ルーシーはもしかして詩人か?

「気にさわることがあるんやったら、謝るわ。なんとゆーても、ふたりで手を携えて2600年も昔にやってきてんから、仲良くしょうな。ほんで、いっしょに帰ろう。賢いアンタのことやから、帰る方法も知ってるんやろ。おしえてくれたら、お礼にのど飴を――」

【飴ごときで崇高な精神のしもべの使命感を砕けるとでも?】

「それそれ、その言い方からして拗ねてるやん」

 こういうときのために、胸のポケットに入れておいたのど飴を取り出す。

 ルーシーはゴフッゴフッと咳払いをし、【バビロニアの遠征軍は、兵站を補充するために、リブラに通じる隊商路にもっとも近いところに陣を張っています】

「ネブちゃんも兵站のことをあれこれゆーてたな」

【太平洋戦争の日本軍の敗因は戦線を拡大したせいで、兵站不足に陥りました。飴はまだか】

 のど飴を背中にむかって投げると、ルーシーの口がキャッチする歯音が聞こえた。

ネブカドネザル王は総攻撃の前に兵站を確保させているという。【ユダ王国が篭城できないように、本隊とは別に4個師団の兵士を四方八方に分けて――街道は言うに及ばす荒地にも軍を配備しています。わたしたちがさっき出会ったのは、南東の街道に配備された軍の分隊です】

 ぴちゃぴちゃ飴を舐める音が耳障りだ。

「エルサレムから逃げた兵士を捕らえるつものなんやっ」

【最後まで戦う戦士は殺されますが、早々と逃げ出す雑兵は貴重な労働力になりますから捕虜にします】

「こうなったら死んだフリするしかないなぁ」

【繰り返しになりますが、ネブカドネザル王の精鋭部隊は、フェニキアの君主らの率いる都市連合軍からの援軍があった場合に備えてリブラで待機しています。王はエルサレムが陥落したのを待って、ほどなく南下してくるでしょう】

「見せてくれたヴィジョンは10日前やったよな。もうこっちへ来てるんや。川を渡るのに時間がかかるとゆーてなかったか?」

 ルーシーは鼻でせせら嗤い、精鋭部隊に守られて早駈けしたのだと言う。街道にある宿場で馬を乗り換えれば容易いそうだ。

【でなければ、伝令官や使者は勤まりません。フェニキアの君主らはユダ王国のエホヤキン王に使者を送り、ともにバビロニアと戦うべしと持ちかけたのですが、聡明なエホヤキン王はネブカドネザル王との契約を守って、これに同意しなかったのです。しかしエホヤキン王の意志に叛いて、強硬派の氏族の戦士団が城門を閉ざしたのです。バビロニアの密偵に操られている王の兄のマッタニヤが影で扇動した気配が濃厚です】

 犬を背負って自転車に乗っていると目立ちすぎる。

「……死体の下に隠れる手は見破られやすいしなぁ……どうやったら逃げられるんやろ……大柄の兵士の死体の鎧を盗んで――巨漢の首をカッターナイフで切り離すのが難儀やなぁ」

 ルーシーはわたしの両肩に2本の前足をそれぞれおく。

【都市国家の集まりにすぎないフェニキアの戦力を、氏族らは頼みとしたのです。いくさがはじまるまでは、どの国も心地よい言葉をささやきますが、戦闘がはじまれば態度を一変させます】

「いっしょに戦う気もないのに、なんで大国に歯向かうように誘うんよ。アンタと似てないか?」

【目先のことを考えれば、いくさをすることで得られる富は莫大です。属国に課税できますからね。しかし、長い目でみれば、いくさのたびに国内は少しずつ破綻にむかっていきます】

「そうかなぁ。わたしが生まれる前からアメリカに勝てる国はないで。ベルリンの壁も崩壊したし……」

【かつてポンドが基軸通貨でした。第一次世界大戦後、イギリスは勝利しましたが軍事費で疲弊し、覇権はアメリカに移りました。世界強国は移り変わります。長くつづいたローマ帝国でさえ滅びました。アメリカのドルが基軸通貨であることもいつか終わりを告げます。ダニエル書の預言通りなら、英米の時代の終わりに神の鉄槌がくだされるのです。キリスト教を信仰する国の者なら言葉にしなくても予感しているはずです。終わりの日が近いと】

 耳には、女と子供の泣き叫ぶ声が、地獄の底から聞こえてくる阿鼻叫喚に聞こえた。わたしは懸命にペダルを踏む。わたしたちに関心をだく者はいない。

【第一次世界大戦までの戦争の多くは、縦隊戦術を取り入れながら兵力を大量集中させる戦闘でした。主として短期決戦となります。

前の年、わずか三カ月前ですが、バビロニア軍がユダ王国に突如、進攻したとき、盟約を結んだはずのエジプト軍は、現王の父エホヤキム王の求めに応じて出兵を試みましたが、兵を退かざるを得ませんでした。現代も変わらない軍事上の鉄則なのですが、軍を進めるには、兵站の補給路の確保がもっとも重要なのです。いまのエジプト軍には自国を護る国力しかありません。エジプトの王はそれと知りながら、バビロニアの国力をユダ王国と戦わせることで削ぎたかったのでしょう。隙あらば、バビロニアに勝って覇権を握る魂胆なのです】

 城門がやぶられたという兵士の声が津波のように押し寄せる。

【ユダ王国のように相手方より兵力が格段に劣る場合、食糧を備え篭城して長期戦に持ちこむほうが有利なのです。そのために古来よりユーラシア大陸においては、都市の防備に城壁はなくてはならないものだったのです】

「簡単に城門を突破されたやん。なんでやのん?」

【ネブカドネザル王はゲリラ戦を避けるためにエルサレムを攻囲する前から密偵を市中に放っています。彼らは、バビロニア軍に包囲される以前に、ユダ王国のこれと思う人間を買収しています。そうでないと、難攻不落の都がこうもたやすく陥落しません】

「ああ、もういややなぁ。なんでこんなイヤな目にあうんやろ」

【金冠頭は目立ちますから、あなたとわたしの動静は逐一、報告されているでしょう。あなたをネブカドネザル王に近づけるよう進言したサバン・秦野にも】

「ちゃうやん。警戒せよってゆーてたやん」

【ダニエルさまのことにしろ。人物の名前を出し、避けるように言えば疑り深い為政者は反対の決断をしがちです。彼女はそのことを熟知しているのです。だから恐ろしい】

 兵士らに揉まれながら見覚えのない場所に、自転車ごと押し出された。兜と鎧の隙間から、谷にかかっている橋が見える。その先に泉があり、城門があるという。この町から脱出できると安堵したのもつかのま、兵士の壁ができていて一歩も進めない。汗と血の臭いに糞尿の臭いがまじり、息をするのも苦しい。

【ユダの人びとは、ユダ族に忠誠を誓う、ベニヤミン族の領土であるエリコに逃げこもうとしています。しかし、エルサレムの北東約22㌔に位置するエリコに逃げても、荒地に陣を張っているバビロニア軍にすれば、逃亡した人々を袋小路に誘いこむようなものです。これでは捕縛してくれと言うにひとしい。ユダに有能な指揮官のいないせいでしょう。南東の塩の海に近いアラバに逃げても早い遅いの違いはあっても結果は同じです】

 リュックを入れた前かごと車輪で兵士をかきわけ、押し合い圧し合いになんとか競り勝って前列に出た。

ルーシーを背負っているのでじかに背中を押されたわけではなかったが、強い力で押し出されて長い橋にさしかかったときだった。吊り橋がなんの前触れもなく崩れ落ちたのだ。

「あれれれれーっ」

 橋がない。これでおしまいかと思ったせつな、向こう岸に、あの女の人が立ってわたしを見ている。みな、谷底にむかって落下している。どうしようと迷うひまもなく、気づくと『E.T.』のワンシーンのようにわたしたちは空を飛んでいた。

 『ロッキー』のテーマ曲が頭の中で鳴り響く。

 頭上に曇天があったが、「よっしゃぁ」と歓声をあげたついでに、「アンタのおかげで、大冒険ができたわ。感謝してるでぇ。なんもかんも、賢くてイケメンのルーシーちゃんのおかげや」と持ち上げた。

 兵士の群れから離れて着地した。石畳の道は傾斜しているので、その場にとどまるために自転車から下りた。

【ありきたりな賛辞しか思いつかないんですね】ルーシーは不機嫌だ。【言いましたよね。日本犬のMIXは聡明なんだって。だから、気をつけてものを言うように教えたはずですよ】

「怒ったら、せっかくの美貌が台無しやで」

【わたしの描いた羽根のパワーだけでは飛べません。魔女メディアが、see thrugh super sneakを出張させてくれたおかげで、飛べたのです】

「スネークってヘビやんな? シースルーやから見えへんねんな。例の女の人は見えたから、魔女とちゃうねんな?」

 おんぶらっくをほどき、ルーシーを背中から地面におろす。

【神の御業を心得ない、愚かなあなたがなぜ選ばれたのか。わたしは今後、この空間に存在するあなたをオプショナルパーツ、すなわち神のオーダーよる部品の一種だと感知するように務めます】

「魔女メディアのおかげで引力に逆らうことができたんや」

【そもそも万有引力の法則と相対性理論との間には矛盾があるわけです。絶対速度が無意味であると同様に絶対的加速度もないのです。20世紀になり、アインシュタインの『空間の歪みが重力を生む』という画期的なアイデアによって、光さえのみこむブラックホールやビッグバン理論が導き出されたのですが、アインシュタイン自身は宇宙は不変であるという考えを捨てきれず、宇宙が膨張するという科学的事実を否定する方程式に変更したのです。大天才にして、思いこみという罠から逃れられなかったのですから、不出来なゴボテンが、神の御業について覚醒する日などこないでしょう】

 こいつを言い負かすことは諦める。

【宇宙の膨張が加速する原因はいずれ解明されます。それによって、一般相対論とミクロの世界を表す量子力学とが統一されるのです。そのときこそ、『わたしはアルファでありオメガであり、最初であり最後であり、初めであり終わりである』という神の御言葉、黙示禄22章13節の真の意味を科学者は理解するでしょう】

「魔女のメディアと友達なん? 神サンに怒られへんの?」

 ルーシーは話の腰を折ったわたしを、あざ笑うように大きな屁をひった。ケムに巻くという諺は知っていたが、屁に巻かれるという諺はなかった。

「爬虫類の蛇や龍は、神サンの天敵とちゃうのん?」

【民の心を奮い立たせる言葉を話せないあなたに、魔界に住む者の魔力を借りる根拠と方法について論じる気はありません。この時代の人にノーベル賞やらアカデミー賞やらを言って通じると思うような思考力しかない同伴者なんですからね】

「ほんなら、みんなになんてゆーたらよかっんよ?」 

【巖のような災難に打ち砕かれようと、あなたがたの子孫は他の部族から大いなる誉れを受けるとでも言ってくれればねぇ。ほんとにバカなんだから……】

 屁をひる犬にバカ呼ばわりされて、黙っていられない。

「生涯の友から同伴者に格下げになったんやし、ほな、家に帰ろか。お腹が減って、減って、足が立たへんようになってきたもん」

【このくらいの忍耐ができなくて、神の御使いとなる資格はありません】

「ただのアホのミカエルなんやて。IQも100以下やと思うわ」

【たしか85だと神光掲示板の書き込みにありました。能力が低く問題のおおいあなたが選抜されたせいで、天使の間で論争が沸き起こったのです。なぜ適任者でない者が選ばれたのかと】

「なんべんゆーたらわかるんよ。なんかの間違いやって。だいち、アタシが何をゆーてもだれも信じひんやないの。このままやと、ギリシア神話に出てくるカサンドラみたいになるかもしれへん。ほんまのことゆーてもだれひとり信じてもらわれへんねん」

【一気に電圧を上げても、体内に電気が貯まるだけなのです。ゲートのキャパシタスを越えられません。C1/KR1。すなわち、速度はKに比例しますからね。神のご意向もありますし】

「わざとわけのわからんようにデタラメゆーてるやろ」

【お義父さまからいただいた旧約聖書、中でもモーセの書=Exodusを熟読してください。話はそれからです】

「読んでいらんことするかもしれへんで。タイムトラベルでよーあるやん。歴史を変えたらあかんって」

【歴史は後世の人間が好き勝手につくるものなのです。教科書に書いてあることなんて、どこの国でも半分は嘘です】

「余計なことは、覚えんでええゆーことなんや」

【記憶して検証することと、はじめから何も記憶せずに知らないままでいることとはまったく違います】

 城門の方角へ向かおうとしたが、「もう、もう歩かれへん。もっぺん、メディアに頼んで宙に浮かしてぇよーっ」

【絶体絶命の局面においてしか、メディアには頼めません】

「わかった。アンタは、メディアにたのんで犬用の三輪車でも出してもろて、どこへでも乗ってってよ」

 話しているうちに腹の虫が治まらなくなった。

「帰るゆーたら帰るねん。たとえ死んでてもジジィの家に引き返す権利がわたしにはあるんや。なんとゆーたかて、正式の養子やねんも。アンタみたいに犬小屋に住んでる捨て犬とちゃうねん!」

 言葉に出した瞬間、涙があふれ出た。堰を切ったようにという言い回しはこういうときに使うのか。

「ごめん、ルーシー……おんなじ捨て子やのにしょうもないことゆーてしもた……ただな、お腹はすくし、それにな、こわいねん」

 こぶしで涙を拭っていると、

【神さまは必要なときに必要だと思われるものしかお与えになりません。人は正しくない欲望のために、人を裏切るからです。欲しいものを望むままにお与えになるお方を神だと信じるなら、信仰などいらないのです】

 ふと、欲しいものを自分の手で作り出せばいいのだと思いつく。「『バック・ツー・ザ・ヒューチャー』でやってたやん。雷を利用して、もとの時間にもどるゆーのん。さっき見た火の玉にこの頭をぶつけてみようと思うねん。そうかてあの火の玉、1999年に空から降ってくる大魔王みたいやったやん」

【1999年に火の玉は降りません! ユダヤ人のノストラダムスはそのような予言はしていなーい!】

「火の玉を飛ばすバビロニア軍の兵士にたのんで、飛ばしてもらお。交渉してみよっと。善は超特急や。早よ、はじめにいてた場所にもどらんと――。メフィストは、『忍びこんだところから出ていくというのが、悪魔や化物のきつい掟』やとゆーてるねんから」

【バカなくせに受験に関係のないくだらないことは覚えていて、思いつくんだから……】

「小声で言うても聞こえてるでぇ」

【電子機器のない時代に、正確に飛ばせると思っているのですか。1991年の湾岸戦争をテレビで見なかったのですか。誤爆で大勢死んだっていうのに】

「エジプトのピラミッドやスフィンクスって、この時代より前に建てられたんやろ。あれが造れて、火の玉を目的地に飛ばせられへんなんて、おかしいと思わへんの?げんに一発も逸れんと飛んできてたやん。神殿には当たらへんように飛ばしてるのんもわかったもん。さっき、あなたはゆーたやないの。歴史の半分は嘘やって」

 犬が顔面蒼白になるなんてありえないが、このとき、赤毛のルーシーはマッ青になった。【真実をお話しましょう。わたくしことルーシーは何を隠そう、ルシファーのひとり娘なのです】

「書記官はやめたん? 性別も変えるのん?」 

【あれはまぁ、話のついでというか……】

「ええかげんすぎるやろ」

【この話をするのは、あなたがはじめてです】

「ルシファーって、マンガでしょっ中でてくる、あのルシファー? 日本語で悪魔、英語でサタン、デビル、デーモンのこと?」

 問いつめると、ルーシーは目をしばたきながら、【父のルシファーは、神が自ら創造した神の長男なのです。しかし、神の子=ルシファーは父てある神に反抗し、天使の一部を率いて反乱を企てたのです。天界を追われた父は地上と地獄の支配者となったのです】

 目薬でもさしてように、ルーシーの目が潤んでいる。

「嘘やん」わたしは前をむく。「なんぼ名前が似てるからいうて、ルシファーに、アンタみたいなぶさいくな赤毛の犬の子どもがいるやなんて、ぜったい信じられへん。むく犬やったらともかく――メフィストはむく犬に変身できるねんで。知ってるか?」

【Be conscious】

ルーシーは頭をわたしの足元に擦りつけてくる。

【犬は約3万年前から人間と暮らしてきたのです。なぜ犬が人間とかくも長く生活を共にできたのか。わたしを見てください】

 自転車にまたがろうとするわたしの背に、ルーシーは後ろ足で立ってしがみついた。

【ええそうですよ。こうして互いの体温を感じ合えば体内のホルモンが分泌されて信頼感が高まり、絆が生まれるのです。友誼を結んだ証となるのです】

「同伴者とちゃうのん?」

 首をねじり、ふりむくわたしの出目よりルーシーの目力は強い。

【父を裏切り、神に仕えたせいで、呪いをかけられたのです】

「ほんで爪が真っ黒なんや。肉球と鼻の頭と口ひげも墨汁みたいな色してるもんな」

【わたしの真実の姿は、クレオパトラや楊貴妃にも劣らないものです】

「ルシファーって天使の中で一番、美形やったんやろ? メフィストとルシファーって同一人物のはずやと思うけど」

と、わたしは目をそらし、

「魔女がメフィストにサタンの若旦那って呼びかけてるから、ゲーテは、イケメンのつもりで書いたんやと思うわ。アンタの親は、首がぐるりんと回る『エクソシスト』の悪魔のほうとちゃうのん?」

【あなたのように口が悪いうえに疑り深い天使は、神の救いを得られないでしょう。裁きの日には、火と硫黄の湖に投げこまれる確率が高いですね】

「蛇つかいの魔女と友達のアンタもおんなじ目に遭うねんわ」

【メディアの国名の由来となった太陽の孫娘、メディアとは彼女がコルキス王の王女だった頃からの友です。わたしほどではありませんが、かつては美少女でした】

「メディアは、イアソンに騙されて〝金毛羊皮〟を盗むのを手伝わされたあげくに捨てられたんやから、顔も性格も歪むわ」

【彼女は愛情が深すぎるのです。それでわが子を自らの手で殺してしまったのです。いまとなっては、犬となったわたしの目にしか、彼女は見えないのです】

 しぶしぶルーシーを背負いなおす。

 ペダルを踏んだとたん、車輪が死体につまずいてひっくりかえった。背負っていたルーシーはキャインと鳴いた。わたしのハリネズミのような頭は折り畳み式の傘のようにしぼんだ。ふたたびルーシーを背中からおろし、大の字になった 能書きたれのジジィと口うるさいババァのところに帰りたかった。恨み、つらみばかりで、愛情などかけらも感じていないはずの養父母に猛烈に会いたいのだ。水洗トイレがあって、冷蔵庫があって、自分の部屋があって、犬小屋があって……。

【わたしはあのような屈辱的な暮らしには2度ともどりたくありません!】

 わたしは半身を起こし、「ほんならどないすんのよ! アタシは2度とあの連中には会いたないねん」

【焼失をまぬがれた王族の家に住みましょう。食べ物も少しは残っているでしょうからね、わたしも背負われている姿勢がつづくと、くたびれました】

「住むってっ! バビロニア軍がどんなにえげつないか、アンタも見たやん」

 絶望するという言葉の意味をはじめて実感した。なんの因果で、怠け者のわたしが、こんて途方も無い目にあうのか、だれでもいいから説明してもらいたい。

腕時計を見ると、6時0分59秒のままだ。

【わたしたちはノルマを、つまり一定期間に達成すべき仕事量を果たすために、天上にお住まいのお方に選ばれたのです。わたしは名代ですが】

「カルマの間違いとちゃうのん? だいちいま、紀元前なんやろ? イエス・キリストはまだ生まれてないはずやん。それくらいはアーメンの学校に行ってるねんから知ってるでぇ」

【イエス様は、アブラハムの生まれる前から天上で暮らしておられたのです】

「アブラ……ハム? 生ハムとチーズとレタスを、オリーブオイルをたらしたフランスパンにのせて食べた~い」

 泥まみれのアリオクとダニエルの一行が、瓦礫の中から立ち現れた。無意識に削除していただけだとルーシーは言う。

「な、な、なんでなんよ?!」

 空中を飛んで連中とは永遠に決別したつもりでいたのに。立ち上がり、金髪を逆立てきびすを返した。

「ミカエルさま、どうか、お待ちになってください」

 ダニエルはわたしの前にまわりこんだ。その顔は泥と火の粉の煤で汚れていた。

バーゲンセールのブランド物といっしょで、それでもなお麗しい。

「お気持ちを宥めてください」

 わたしを追って谷底から這い上がってきたらしい。

 ターバン頭のルーシーはダニエルに尻尾を振っている。

「どうか、お力をお貸しください」

「ネブカドネザル王に拝謁できる栄誉を、なんと心得ている!」とアリオクは怒鳴る。

「関係ねぇって」腹の虫は暴れまくっている。「ひとつ、教えてやるよ。あんたが闇の中から聞いた声のお告げは間違ってる。1年は360日ではない。365日だ。365の7倍は2555。366日ある年が4年に1回ある。もう1度、言う。うちらは2592年後の世界から来ている。地震は起きたが、硫黄の臭いはしなかった。もちろん、地獄の炎も見なかった。アンタと同じユダヤ人の予言者がいまから2596年後に空から大魔王が降ってくると予言しているが、仮に的中してもすべての人間が死ぬとは思えない」

 ルーシーが唐突に頭を横向きの8に振る。

【大陰暦のこの時代は1カ月は30日、1年は360日で計算されていました。ちなみに地球の公転速度は次第に遅くなっています】

 数秒、周囲が停止している間に、ルーシーは一気にしゃべった。

 ティイワが突っかかってきた。

「ダニエルさまにたいして無礼な言葉づかいは許さない」

「無礼なのはどっちだよ? ニッポンで使う日本語で言ってんだよ。ありがたく思え。許さないと言ったよな。てめぇに許しほしいなんて耳のアカほども思ってねぇぜ」

「何様のつもりだっ。ガドの子ツェフォンの子孫なんだろ」

「ティイワ。お黙りなさい」とダニエルは静かに言った。「ミカエルさまは天使長であられると同時に、ヤハウェの民だとおっしゃっておられるのです」

「なんでダニエルは、自分の都合のええようにしか聞こえへんのよ。みーんなアンタのせいや」とルーシーを責める。

【ニッポンという語感とツェフォンという語感が似ているのです。それで、ダニエルさまは同じ先祖をもつと――】

 思わず、笑ってしまった。

「ダニエルがシャムライと呼ぶたんびに、サムライに聞こえるのといっしょなんや」

 ジジィの話を思い出した。もしかすると、シャムライの先祖か子孫はニッポンへ行ったか、行くかするのかもしれない。

シャムライに言葉の意味をきいた。

「ヘブライ語で、守る者という意味だ」とシャムライは答えた。

「ミカエル、あなたは、神が言われた『天の果てに追いやられた地』からいらしたのですね?」とダニエル。

 養父から聞いた話をできるだけ忠実に繰り返した。京都が平安京と呼ばれていることや、祇園の地名がシオンの呼び名と似ていることや、いさら井のことや、いざわの宮のことを……。爺サンは地震の起きる前の夜に、わが家にもいさら井があると言った。その井戸にわたしは落ちたのか? 金塊や白骨は幻覚だったのか?

 ルーシーのワンワン語も翻訳して伝える。「メディアに捕われていた北の王国の民は大陸を横断し、海を渡り、東の果ての島に王国を築いた。逃亡から建国までの期間が70年(前660年頃)。南王国のマナセ王の時代だった」

 ダニエルはゆっくりとうなずき、「あなたの知る預言は、北の王国と南の王国をつなげるものです。南のユダ王国の民の捕囚期間も、北の王国同様に70年で終わるでしょう。12の部族は、終わりの日に結びあわされ、『地の中の祝福』となるでしょう」

【第二次世界大戦が終わった西暦1945年から70年間を経たのち、2015年7月から新たな秩序がはじまります】とルーシーはわたしに耳打ちした。

「ええかげんことばっかりゆーて。五島勉の『ユダヤの深層予言』には2017年から新世界がはじまるって書いてたで」

 ルーシーはコホンと空ぜきをし、

【2017年3月に、欧米を中心にした有志連合国の兵士10万とイスラム国の兵士5千人との間で戦争が勃発します。核兵器の抑止力が次第に弱まって、世界最終戦争にむけて政治も経済も舵をきってゆきます】

 ダニエルは「あなたの国には乳と蜜の流れるシオンの地があり、油そそがれし王がおられるのですね」と感慨深げに言った。

「日本の天皇は、かつてミカドと呼ばれていた」と言うと、

「ヘブライ語では、高貴な方をさすとき、ミガドルと言います」

 ダニエルの言葉には説得力があった。

「北の10部族の中でも、幸運を意味するガド族は勇猛果敢な兵士が多くいることで知られていました。ダビデ王の一生に起きた出来事を記した『サムエル記』はガドとナタンによって書かれたのですよ。それだけではありません。ガドは、合唱隊の指揮もしました」

「天皇家は、専属の合奏隊をもっている」

と言うと、キタバは怪訝な表情でダニエルにたずねた。

「イザヤの言葉が記されている巻き物に『島々よ、あなたは静かにしてわたしの言葉に留意せよ』という島々からこの者らはやってきたのですか?」

 ダニエルは微笑む。

「そのあとにこう書かれています。『国たみも力を取り戻せ。彼らを近寄らせよ。その時には、彼らに話させよ。われわれは驚きのために集まろう』と。イザヤ書の41章1節です。神は契約を反古になさる方ではありません。終わりの日に彼ら10部族はかならずエルサレムに帰還します」

 終わりの日と聖都の滅亡の日をダニエルは重ねて言ってる気がした。わたしを帰還した同族だと、まさか思っているわけじゃぁ……。

ええっ!

「ミ・カエルさまは、どの部族の出身ですか」とティイワは訊く。

 そうか、そういうふうに聞こえるのか。

「こいつ、ツェファルデーアに似てねぇか」とシャムライがティイワにささやいた。

 ルーシーはわざと、ツェファルデーアを訳さなかった。尾のない両棲類のことだと直感した。そうか、命を助けてやったこいつらも、そういう言い方で恩人を屈辱するのかと思ったとたん、心が真っ二つに折れた。

 ルーシーは慰めているつもりなのだろう。【跳びはねるのに理想的な長い筋肉質の後ろ足を、カエルは持っていますし、エジプトの女神は頭がカエルの形になっています。それに、なんといっても、食物連鎖のトップは両棲類の先祖である爬虫類なのですからね】

 アオガエルとヒキガエルのどっちを選んで、部族名を名乗るべきか思案する。

「ツェファルデーアの一族、ミ・カエルだ。そこらで跳びはねるカエルの子孫だからさ、おまえらのように神に選ばれし民とは縁もゆかりもねぇんだよ。教えてやるぜ。オレさまは捨て子だ。人間の親はいねぇ」

 アリオクはシャムライに「謝れ」と言った。

 シャムライは頬を赤くし、アリオクに迫った。

「おまえは何者なんだ。ダニエルさまをバビロニア軍に売り渡すつもりなんだろ。ちがうか」

「わたしは、ネブカドネザル王の護衛長だ。できるだけ、おまえたちの力になりたいと思っている」

「嘘だっ」とティイワがさえぎった。

「わたしたちだけで、逃げましょう」とハレが言った。

「どうか、この者らの数々の非礼をお許しください」

ダニエルは彼らにかわって謝罪した。

「いくさのせいで、気が立っているからと申して何を言ってもよいということにはなりません。ミカエルさまの助けがなければ、わたしたちはいま、ここにこうして生きていなかったでしょう」

「悪かった。すまない」とシャムライは詫びた。「おれは正しくない言葉を口にした」

 無言できびすを返しかけた。

 布でおおった箱をかついだ4人の男が後を追ってきた。

「お見うけいたしましたところ、空腹でいらっしゃるご様子。とりあえず、隠れる場所を探しましょう」

 ダニエルは自分を守る少年らとわたしやアリオクの間で懊悩しているようだ。疲労の気配が憂いをふくんだ目のふちに見えている。

「ハカシャ、あなたの家はこの近くではないのですか」

「焼け残っているかどうか、わかりませんが、ただいま見てまいります。ミカエルさま、どうか、少しの間、お待ちください」

 ジャニーズ系のハカシャは言うが早いか、ハレと一緒に駆け出して行った。ふたりの背中が余りにはかなげで思わずつぶやいた。

「ハカシャって拍手に聞こえるなぁ……」

 ルーシーは、同じ意味だと言った。そして、ハレは栄光を意味し、キタバは言葉を、ティイワは希望を意味すると。

 どうして、希望だけが、穴のあいた竹輪になったのかと考えていると、ダニエルは言った。

「お国にお帰りになりたいお気持ちは承知いたしております。しかし、あなたさまは天使の中で、もっとも位の高い天使長とうかがっております」

「聞き間違いだ!」

 ダニエルは微笑んだ。「わたしが耳にした声は神託でした」

 キタバが横から、小声で、何か言った。わたしにとって耳障りな言葉だったのだろう。翻訳機能プログラムが作動しない。

「乾期にもかかわらず」とダニエルは宥めている。

「神の怒りが天地を揺るがし、雹が降ったのですよ」

 わたしはルーシーを睨む。「訳しぃよ」

【I hear that…….犬の臭いがすると。だから、わたしたちはサタンの手先かもしれないと】

 またもや怒りの虫が腹を破って飛び出た。

「キタバーッ てめぇ なぶり殺してやろうかっ」

 そのとき、苦しげな息遣いが聞こえた。

【すす少し、きき気分がわるいわるいのののので~す……ズゥージィーズゥジィーズゥ】

 ドサッという音がしたと同時に、ルーシーが横倒しになった。ターバンがはずれている。

「ルーシー! ルゥ!」

呼びかけに応えない。目を閉じた頭を抱きかかえる。

「どないしたんよっ!」

 唾液が白い泡になって口尻に溜まっている。腹部が激しく上下動し、長い舌が歯の間からのぞいている。養護施設の近所に繋がれっ放しの犬がいた。学校の行き帰りに頭を撫でていた。その犬が死んだとき、口からたれ下がった舌が紫色になっていた。ルーシーの舌はまだ変色していないが、胸に耳を当てると早鐘のような鼓動の音が聞こえた。 ティイワの持っている皮袋をむしり取り、ルーシーの口に皮袋の中の水を流しこんだ。

「何をする!」

「この犬と生涯の友となる契約をしたんだ。ルーシーが死んだらオレさまも生きていられない。絆となる体内のホルモンが、なくしてしまう……」

 時を停めることや、合体し、黄金のように光り輝くことのためにルーシーは力を消耗したのだ。空を飛ぶためにも。百万回、ルーシーに謝っても足りない。ペットボトルの水を、自分ひとりで飲み干した。ルーシーにただの一滴も残さなかった。

「死んだらいややん、ひとりぼっちにせんといてよ! おねがいやー、ルーシー」

 ルーシーの腹がグルグルキュルキュルと音を立てた。そして、ゴフッゴフッと咳こみ、まぶたがあいて、黒い瞳がわたしを見つめた。

【友よ。あなたをひとりにするはずがありません】

 ルーシーは、ゆっくりと起き上がった。

【神の賜物を内蔵した神経細胞の頭脳は、ネットワークを構築するさいにコンピュータと同じようにエネルギーを消耗するのです】

 ティイワがダニエルに耳打ちしている。貴重な水を奪われたと訴えているようだ。

「おまえたちを助けた犬に水を飲ませたのが惜しいなら、てめぇらこそサタンだ、外道だ、人非人だ!」と怒鳴りちらす。

 ティイワは平然と反論した。

「イスラエルの民は神に呪われているバアルを信仰し、邪悪な習慣に溺れた。そのせいでいまの苦況がある。ダニエルさまがなんと言おうと、おまえは異教の民だ」

 ハレとハカシャがもどってきた。

「わたしは王以外の何者も信じていない」とアリオクが口をはさんだ。「ダニエルを知るまでは……」

「屋敷は、敵方に接収されたようです。若い召使が3人、納屋の床下に隠れていて無事でした」

 ハカシャは涙をぬぐいながら伝えると、両親やきょうだいは敵兵に殺されたと言った。

 ダニエルはハカシャの肩に手をおくと、「嘆いてはなりません。その日はかならず到来します。失われた10部族がエルサレムに帰還し、すべての悲惨な苦痛は過ぎ去り、神に対して忠実に従ったことを証された人々は、永遠の星のように輝くために復活します。邪悪な人々は、神の御手によって裁きを受けます」

 ダニエルは、神によって永遠の命が与えられると言っているようだ。そんな日はやってこないと腹の底から思った。しかし、親が死んだばかりの少年の前では声に出して言えなかった。

 ルーシーは、吠えた。【その日はかならずきます!】

 ハカシャはルーシーの頭を撫でた。慰めているのが、わかったようだ。ルーシーは後ろ足で立ち上がると、ハカシャの泣き濡れた顔をペロペロと舐めた。

「わたしたちはみな、兄弟なのです」とダニエルは言った。

「いま、ダニエルは、アーハってゆーたよな?」

【アーハは、兄弟という意味です。この地域にすむ者の多くは同族なのです。エジプト人もフェニキア人もユダヤ人もアラブ人もです】

 養父母のいる世界で、アーハの歌う『スティ・ヒア』を何度、聴いても飽きなかった。

「この道程を離れるな。いつか会える、ぼくにはわかる。ずっとそこにいて、愛しい人、いつか会える、きっと。あきらめないで、そこにいて……」

 知らないうちに涙が止まらなくなった。

【まさか、泣いていないでしょうね】

「そこら中、燃えてるから、煙が目にしみるねん。そや、生焼けの猫がいてたら皮を剥いで、流行りのモツ鍋にせぇへんか。ええダシが出ると思うねんけど……」

「おい、兄弟、いま、なんと言ったのだ」とシャムライは問う。「わかる言葉で話せ」

「ニッポンでは、大きな鍋に肉や魚や野菜をたくさん入れて煮ながら食べる。家族と……」

 底知れない深淵をもつ闇が、燃えさかる聖都を飲みこもうとしていた。そんなときに思い出すのが、養父母といっしょに食べた鍋料理だとは思ってもみなかった。

「乳と蜜の流れる約束の地シオン――比類なき聖なる都エルサレム――」ダニエルは彼方の神殿を振り仰ぐと、身を屈めた。「『かつては忠信であった町、どうして遊女となったのか、昔は公平で満ち、正義がそのうちにやどっていたのに、今は人を殺すものばかりとなった(イザヤ1:21)』。ヤハウェよ、あなたのしもべにお憐れみを。アーメン」

 腕時計を見る。動かなかった文字盤の長針が7分すすみ、6時7分59秒を指している。ルーシーの言ったように、24時間で何もかも解決するのなら、時計の針が2度、5時46分を指せばいいのか? 現実には21分と7秒しか進んでいない。今後、7分づつ進むのだと仮定すると、ひとまわりして5時46分にもどるのに――(60分×24時間-14分7秒)÷7分=……?

 ざっと計算すると、1425分と53秒を7分で割ると、約204回、時計の針が動かないと、帰れないことにならないか。『不思議の国のアリス』と同じ気分になる。懐中時計を持った兎は現れないが、誕生日を知らないわたしに『誕生日でない日おめでとう』とだれかに囃し立てられているような気がしてならない。

 認めたくないが、地震のあと、わたしとルーシーは生き埋めになった可能性が高い。 誕生日でない日にめでたく死んでいるのか? 

ルーシーの鼻歌が聞こえる。耳を澄ます。クイーンの『ウィ・アー・ザ・チャンピオンズ』。

「さっき倒れたのはもしかして、芝居……ま、ええわ。のど飴、なめるか?」

【Thanks,An archangel.音楽ソフトをさらに充実させます】

「ビーチ・ボーイズを頼むわ」

【眉をひそめて嘆くより、『God only knows』。That’s nice.さっき2015年に新たな秩序がはじまると言いましたが、数字なんて予言と同様いい加減なものですよ。末尾が9のつく年に異変が起きるという説もありますからね。直近の300年でいうと、筆頭は1649年のイギリスの清教徒革命、ついで1789年のフランス革命の契機となったバスティーユ牢獄の破壊ですね。次は1929年の大恐慌、1939年の第二次世界大戦、1949年は中国共産党が誕生しましたし、1979年はイラン革命。白眉は、1989年のベルリンの壁の崩壊でしょうか。

だからぁ、世紀末の1999年が話題になるんですよ。ああ、忘れるところでした。西洋列強の求めで、神戸港を外国に開いた年が1879年でした。わが父、サタンが仕切っている世界ですから、戦争の他にも疫病やら飢饉やらいろいろありますが、末の日の神の裁きに比べれば生き残る人間のほうが多いと思いますよ。長男の暴走を抑制してくださる、愛ある父=唯一の神に感謝しなくては――ついでにおんぶしてください。足が疲れました】

「『ブレード・ランナー』は、2049年やったな」

【そこまで地球がもつかどうか。イスラエルとパレスチナの争いは21世紀になっても終息しません。終わりの日は近いのです】


古代イスラエル・ユダ王国の王都


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