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【小説】コーベ・イン・ブルー No.5

    

 冬の雨が軒先の路地を濡らす。閑古鳥の鳴くのカウンターの内と外。ノルマをこなせない営業マンの気分。マントバーニのムード・ミュージックが狭い店内に静かに流れる。
「こないだ手相、観てもろてン」
「何ンの寝言や」
 英美子と海人は馴れ合い話にふける。
「タマシイが若い! 言うてもろてン」
「脳ミソの聞き間違いやろ」
 紺地に波しぶきを散らした着物姿の英美子は、とろけるような顔でグラスを重ねる。
「五十過ぎても、ふたりは狂うてくれる、言わはってン」
「借金とりがか?」
 ロイが死んで一週間と経っていない。
「自分に惚れるのも、たいがいにせぇよ」

 晩年は南海の孤島で過ごしたいと夢見こそすれ、五十の坂を越してまで色恋い沙汰に血道をあげるなど真っ平だ。

「前に住んでたアパートで、身ぐるみはがれた上に、おれのチャリンコまで持ってかれたやないか。いまも、疫病神につきまとわれて――どないする気やねん」
 英美子は、赤い舌先を薄い唇のあいだにのぞかせる。
「暗い話はせんといてよ」
「何事もシビアに考えて、ちょうどええんや。こないだ店にきた女警察官、気にならんのか」
 変装していても、参考人室にいた女警官だと、ひと目でわかった。
「かいらしい子ぉやったね」
「あの女はおれらをさぐりに――」
 海人は、言いかけてやめる。カウンターに片肘をつき、ビールの白い泡を見下ろす。
「カイちゃんの友達に気があったみたい」
 英美子は、安物のウィスキーをグラスに注ぐ。水で割らずにそのまま飲む。ヤケ酒にしか見えない。
「なんで、そんなことが、わかるねン!」

 笑いとばせない。
 荷役を急ぐ韓国船を待つ、しばらくの間、骨休めにと藤原康介をここへ連れてきた。
 女警官と出会った翌日から、海人に接する康介の態度が一変した。
 必要なこと以外、口をきかない。
 オフィスの雰囲気も一日、いや半日で様変わりした。前日から決まっていた七時三十分、入港の船を担当し、十時頃にオフィスに顔を出すと、エラ女の席に藤原康介が座っている。
 吊るしのスーツしか着ない事務屋は息をひそめ、仕立てのスーツを鎧のように身にまとった藤原康介を中心にすべての業務が回転していた。無駄口をきく者はいない。
 吃音症は芝居だったのかと、思わせる変貌ぶりだった。気の弱い美青年が突然、冷徹な管理者へと変身するとは予想だにしなかった。

「あたしな、こう見えて、勘はええねンよ。カイちゃんの友達、そこらにいてへんくらい、きれいな男の子やな。あたしがもうちょっと若かったら、ほっとかへんのに」
「うんざりさせんといてくれ」
「聞いて、聞いてよ。山野辺が目ぇつけてたデ」
 英美子は空いた手で、海人の腕を揺する。
「どういう意味や」
 海人は英美子をにらむ。黒ずくめの山野辺は疫病神だ。
「カイちゃんが冷たくするから、カイちゃんの友達をおっかけてったみたい」
 英美子はそう言って、店の扉を指さす。
「疫病神のろくでなし――あいつの言いなりにだけはならん」
「かんにんな。あたしのせいで、ぎょうさん、いやな思いさして」

 人生のバランスシートは釣り合っていない。
 負債ばかりが増えていく。
 どうすれば、この苦界から抜け出せるのか。
 生き血を吸う蛭のような山野辺は、英美子と海人にくらいついて離れない。

 終わらない。

 十年前、酔っ払うと、英美子を殴る蹴る、サディストの会社員をおとなしくさせるには、刃物で脅す方法しか思いつかなかった。
 不動産屋のジジィも同じだ。
 不可抗力の過失だったといまでも思う。ああするしかなかったと。
 淫乱な男ほど、英美子を自分一人の所有物にできないと知ると、血がたぎるのか、トチ狂う。
 我を失った教授センセイが、もしも英美子を傷つけていれば、耳たぶにアイスピックを突き立てるくらいですませなかった。

「タマシイの若いオバサンの将来はどないなんねン」
 英美子はふふふと含み笑いをもらす。
「ハゲ頭のおっさんは、狂うてくれる二人のうちの一人か?」
「あのヒト、ヤモメやそうやし、郊外に家の一軒も買うてのびのび暮らさしてくれるそうやわ」
 謎がとける。
「もう、ヤったんか」
 海人の問いかけに、英美子は上目遣いになり、紫色に塗った長い爪を噛む。拗ねるときの仕草で、噛んだ爪の指を曲げたり伸ばしたけする。
「いつのことや」
「カイちゃんのいてないとき、いっぺんだけ……ここで……」
「なんでやねん!」

 ボロ家の屋根裏で、カイトは寝起きしている。数年前、福原の外人バーから南京町の似たような店に引き抜かれたのを機に、屋根と天井の間に自分で部屋を作った。階段とは呼べない、はしごに近いしろもので、いまも上り下りしている。
 英美子は、海人が屋根裏にいると、わかっていても気にかけずに男たちと愉しむ。
 海人が代行業の職について、さらにひどくなった。

「毛生え薬の追いつかん、あんなズルむけと、ようヤるなァ。リタイヤ寸前の色ボケのジジィに肩入れしてもろて何ンになる」
「頭とスルわけやないもン。滑れへんかったもン」

 英美子は、ホテルに客を連れこまずに、小汚い家に誘うのは、幼い海人をひとりぼっちにしたくなかったと言い訳するが、本音はホテル代を客からむしり取る算段があったからだ。

「カイちゃんが家にいてくれへんと、あかんねン。なんでか自分でもわからへん」

 押し殺していた声が次第に熱を帯びるようになり、近頃では、海人に聞かせるために英美子はセックスをしているようにさえ思える。

「もうちょっと小マシなのはおらんのか。次から次へと、ろくでもない男ばっかり……」

 サイコロジーとやらのカウンセラー、しじゅう鼻の穴をほじくる乱食い歯の中央市場のオヤジ、夏でもハラマキをはなさない土地ブローカー、株で大儲けしたエセ会計士……。

「男やったら、だれでもええんか」
「そこがなぁ、ふしぎなトコやねン」
 英美子は、ゆるく結いあげた頭をかしげる。
「こっちが寝たいと思う男は、たいていスカタンで、鳥肌が立つようなンが、エエときがあるねン。カイちゃんには、一生、わからんと思うわ」
「思いもかけんテクニシャンが、うっとおしいヤツの中にいてる言うことか――けっこうなシュミやな」

 日本の男とナニからナニまでちがうと言ってホレこみ、見つめられるだけで、ハーッとため息が出るとうそぶいたロイとも、ふた月ともたなかった。気がむけば、ハゲオヤジとでも閉店後の店でデキてしまう。ロイはプライドが傷つき、金を求めるほんとうの理由を海人に告げなかった。

「ロイのことは、目違いやってン」と、いまさら言う。
「蛆虫みたいなおっさん連中に、平気で股をひろげるンも、しゃあないか。節操のない淫乱女やもんな」
「なんぼなんでも、キツすぎひん?」
 英美子は醒めた声になる。
「結局は、お金のためやないの。いつまでもカイちゃんに迷惑かけられへんもン」
「今晩あたり、ハゲ頭が鼻の下のばしてやってくるんとちゃうか。ヨダレをたらさんばかりの男の顔ゆーのは、同属として耐え難い。オスの本能、丸出しやもんな」

 見知らぬ男たちのやってくる夜、子供の頃の海人は、海岸の方角へとひたすら歩いた。
 警察の職質に遇わないように、暗がりから暗がりへと――。
 海岸には製鉄工場が立ち並ぶが、エアポケットのうな場所がある。
 気づくと、夜の突堤を徘徊していた。
 夜釣りの男たちと出会い、隣に座っていると、魚をくれた。
 持って帰ると、英美子に抱きしめられる――それがうれしかった。

「おふくろが、おれのために苦労したんは知ってる」
 英美子の大きな瞳に涙がたまると、潮の香りのただよう夜の海面のようだと思う。
 ふくらんだ水滴が、透き通る肌をひと筋、ふた筋とつたって落ちていく――。
「客がきたときは、押し入れに閉じこめられたこともあったな、ビニール袋の尿瓶(しびん)つきで」
「そやった?」英美子は折りまげた人差し指で涙をはらい、「忘れてたわ」と、開き直ったいつもの顔つきになる。

 男女の別なく、振り返らないタイプというのは、神経がタフなのだと思う。
 ナフタリン臭いセンセイの奥方に怒鳴りこまれたときでさえ、英美子は青く透けたまぶたを閉じ、「お昼のメロドラマみたい」とつぶやいた。
 引きつった表情の痩せぎすの女は、海人をにらみ、「夫は、耳に傷を負ったのですよ。訴えます!」
 言い返そうとする海人を、英美子は目顔で制し、
「かまへんよ。ほんでも、言わせてもろたら、先に暴力をふるいはったんは、オタクのご主人です。ウチの子は、あたしを守るために静かにしてもろただけです。センセイにきいてみてください」
「夫は、夫は――深く、傷ついています」
 女の顔に化粧気はほぼなく、描いた眉が、左右そろっていない。
「ええ思いもしはったんやら、トントンとちゃいますか?」
 年齢差はたしかにあるが、それ以上に、女には男の関心を引き寄せるものが何もない。
「あなたは、わたしの家庭を壊したんですよッ」
「ご主人がちょっと遊んだくらいで、なんですのん。さいしょっから、壊れてたと思いはらへんの? 満足してはったら、十本の指で数えられる回数しか寝てないのに、暴れたりしはらへんわ」

「あンときのカイちゃん、目が飛び出そうやったわ」
 過ぎた話をなんども蒸し返し、英美子は同じ言葉を繰り返す。
「あんなカイちゃんの顔、はじめて見たわ」

 女二人が髪をつかみあい――下着を見せて転げまわるさまを目にした海人は、そのエロチックなシーンに息を呑んだ。
 世間サマに公表すべき事柄ではないが、捨て去るのは惜しい。
 さまざまな過去の記憶は胸の痛む感傷とはほど遠く、残酷で非情なエミコの語る〝モア・リポート〟みたいなものだ。
 カネのためではなく、英美子が男たちと演じた恋のゲームの数々にしてからが、現実ばなれしている。
 男と女の関係にリアルタイムでうつつをぬかす、非現実的な行為に英美子はつかのま、身も心もささげる。
 海人には理解不能だった。
 男と別れるつど、英美子は古傷には目をつむり、新たな恋への糧(エネルギー)にする。
 英美子にとって、この世にいないロイはもはや幻影でしかない。
 それらがないまぜになって、嬌羞の片鱗もない欲望へと変換する。
 しかし、ときに、不都合も生じる。

「カイちゃんがおらんかったら、殺されてたかもしれへん」

 少年だった海人は、刺した男が呻き声を発し、苦痛にゆがむ顔を目にしたとたん、抑えがたい衝動を身内に感じた。自らの凶暴性に目覚めた瞬間だった。英美子は、海人の手から刃物をもぎ取ると、路地に走りだし、近所に住む石垣を呼んだ。
 生田川から三ノ宮にかけて、欲望に飢えた男たちを誘う道端に立つ女たちを見守るのが、石垣の仕事だった。
 実体のないもので沸き立つ世情に翳りが生じはじめたいまなら、110番通報しただろうか?
 けっしてしない。
 警官から〝立ちんぼう〟と、鼻先であしらわれていた当時の英美子にとってヤクザは命綱だった。

 二つ返事で引き受けた石垣は、兄貴分の山野辺を呼び、怪我人を運びだし、建築現場で処分した。二度、世話になった。
 
「おかげで、いまだにビンボー人や」
「損はしてへん」と、英美子は言いきる。「店の名義は、あたしになってるもン」
「税金対策や。そんなこともわからんのか」
「わかっとう!」

 山野辺の性癖が息子におよぶのをさけるため、英美子は山野辺と関わりをもつ者らと、関係をもたざるを得なかった。
 対価はあった、この店だ。
 店の主人となった英美子は、選別される側ではなく、選ぶ側に回った。山野辺は自身が若い男にしか興味がないせいか、相手を選ばす男に惑溺する英美子を放置している。浴びるほどアルコールを飲み、わざと客を挑発しても、笑って眺めている。

 ふと思い出したように、
「時効って、何年、経ったら、よかったン?」
 と英美子は言う。

 過去と現実との境界線が崩れていく――。

 海人が肩をすぼめて、ため息をつくと、
「いろいろあったけど、カイちゃんのおかげで、なんとか切り抜けてこられてンわ」
 化粧がはげると、近頃は目尻の皺が目立つ。
「――おれらは、山野辺の奴隷や。毎月、この店の売り上げのほとんどをもってかれてる」
「石垣がおらんかったら、いまの家に住むこともできひんかったやデ」
「監視されてるだけや。そやろ?」

 英美子は口をつぐむ。青白い顔に奇妙な無力感がただよう。
 うつろな眼差しが海人を通りこして釘づけになる。
 振りむくと、着ぶくれしたハゲ頭の半身が見えた。黒服の山野辺はハゲ頭の脇の下に片腕を回し、半ば開けた扉の影に潜んでいる。
 予感が的中する。
 ハゲ頭は山野辺の関係者だった。
 ただ寝るだけではつまらないとムリを言う得意先には、疑似恋愛体験をさせる戦略に変えたらしい。男は若い女を好む。英美子一人で店を切り盛りすれば、客足は次第に遠退いていく。

「いやあ、うれしいわぁ」英美子の声が上擦る。「足元がわるいのに、わざわざ来てくれはったン」
「うう……」
 湯であがったばかりのタコそっくりのハゲ頭は、へべれけに酔っていた。プレスなどしたことのないズボンの足元をふらつかせながら店内に入ってくる。
 影の男――山野辺は両腕をのばし、のけぞるハゲタコの背中を支える。
 ハゲタコの血走った丸い目のまぶたが、ぴくぴくと動く。
 海人を睨みつけ、
「だれや、この若造は……」
 義歯が臭う。
「うちの子やねんワ」
「若いツバメやないんかッ」
「そんなン……うちら似てへん?」
 山野辺は海人に命じた。「きょうはもう、看板にしてくれ。このお方には、競売物件のことで、たいそう世話になってるんや」
「ぜーんぶ、わしにまかしとけッ」と、低い鼻の頭を真っ赤にしたハゲタコはボックス席に倒れこまず、カウンターに上体をもたせかけた。
「こないだおったガイジンも、子供か?」
「いややわぁ、お客サンです、ただの」
「ほんなら、許したる」
 海人は、ジャケットをつかむ。
 ハゲ頭と、あなどっていた相手から痛烈なパンチをくらった気がする。
「こら、エミコォ」ハゲ頭は、短い腕を思いきり伸ばし、カウンターごしに英美子の白い手をわしづかみにする。「こないだは、気持ちよかったやろ。アソコがびしょびしょ、やったでぇ」
「社長――そないあわてんでも」
 時間はたっぷりありますと、山野辺はハゲ頭の厚手のコートを脱がそうとする。
 ハゲタコは山野辺の手を振り払い、しみの浮いた脂じみた手が、きゃしゃな手を揉みしだく。小骨がコリコリと音を立てる。
「そこまできたよってな、こいつにムリゆーて、寄ってみた」
 ハゲ頭は、山野辺を〝こいつ〟呼ばわりする。
 山野辺はそ知らぬ顔で、海人に、コートと上着を脱がすのを手伝えと言った。
 タクシーに乗り、広い通りで降りてここまで歩けば、上着は濡れる。脱がせにくくなる。

 海人は聞こえないふりし、きひずを返す。

 英美子がカウンターの外へ転げ出る。
 海人の背に追いすがる。「怒ることないやないの。ムキになったらいややン」
「おれがおらんほうがええやろ」海人は苦い吐き気をもよおす。 「もう、うんざりや」
「じゃらじゃらさらすなッ」
 ハゲタコはねじ伏せるようにわめく。
 山野辺は海人に、「早(は)ようやれ」と顎をしゃくる。
 英美子は、海人に手を合わせる。

「なんや、ママ、怒ったンか?」
 首筋まで紅潮させたハゲ頭は、もの哀しげな声になる。
 そのすぐあとで、
「シン気くさい!」
 マントバーニはお嫌いらしい。
「パーッと、にぎやかにいかんかいなッ」
 英美子に代わってカウンター内に入った山野辺は、有線放送のスイッチを切る。
「カラオケする?」
 英美子はハゲタコのもとへ行き、ひきつった顔に微笑をつくる。
「こないだと雰囲気がちゃうな? どないしたんや」
 ハゲ頭は高びしゃに言った。
「吸いつきとうなる色気がないんじゃ!」
 怒鳴ったとたん、ハゲ頭は、立っている英美子の肩口を突き、通路に横倒しにした。鈍い音がし、英美子は、キャッと悲鳴をあげる。
 ハゲタコは前屈みになると、仰向けに寝返った英美子の胸のあたりにこぶしを打ちすえた。
 ウグッという悲痛な叫び声が聞こえる。
 
「顔は商売道具やよってな。かんにんしといたる」

 海人がハゲ頭に近づくより素早く、山野辺は間に割って入る。
 押し退けようとする海人にむかって、黒皮の手袋をした山野辺は懐から拳銃を取り出す。
 黒いトレンチコートの裾から雨のしずくがしたたっている。
 疫病神が、ショルダーホルストに入った拳銃を所持していることは知っていたが、まさか、ここで抜くとは――。
 海人はこぶしを固める。

 ハゲ頭は着物の襟元をわしづかみにし、左右ににはだけると、たれ気味だが、たっぷりある白い隆起のピンク色の乳首に吸いついく。
 馬乗りになったハゲタコの舌が赤ん坊のようにぴちゃぴちゃと音を立てる。合間に、ぐぅううっ、ぐぅううっと唸る。

 疫病神は、口の端をあげて、嗤う。
「撃てよ」と、海人は静かに言った。「ハゲが腰、ぬかすぞ」
「だろうな」と、山野辺はうなずき、「おまえが、おれとヤれば、止めてやってもいい」
「ケッ、おれはガキの頃から、金のあるオバハン専門なんだよ」
「おふくろとヤれないから、おまえはオバハンとヤってんだよ」
 海人の顔から血の気がひく。
 疫病神は、「そんなウブなおまえが欲しい」とつぶやいた。
「一回、いくら出す?」 
「おまえら親子は一生、金づるの運命なんだよ。からだで、な」
 のっぺりした顔にくっついた薄い唇は赤黒い。横幅のひろい鼻の下に蛭が這っているよう――。

「おまえは、おれの大事な玩具なんだよ」

 ヒートアップしていた頭と体が一気にクールダウンする。
 観客のいる本番ショー。
 なんども目に、耳にしてきた。口にするのもはばかれるような声をあげて、白い首をのけぞらせる母親を――。
 いまさらハゲタコを止めてなんになる。
 海人は疫病神に背をむける。

 顔は殴らないと言っていたハゲタコは気が変わったのか、荒い息の合間に頬を張る音が、英美子の「かんにんして……」という声をともなって聞こえる。
 海人は振り向く。
 ハゲタコは、英美子の股の間に膝をつき、自分で厚手のオーバーコートを脱ぎはじめる。
 目の端に、英美子が白い足の片方が映る。
 斜めにのびた白い足は力がぬけ、なんの感情もない。
 英美子は着物のとき、下着をつけない。
 ハゲタコはズボンの前を触っているのだろう、もぞもぞ身動きしている。
 
 扉が開く。

「閉店の札を出さんかったんか」と、山野辺が舌打ちする。

 予期せぬ客は、藤原康介だった。

「やめんかい!」
 彼の第一声に海人の思考は一時的に停止する。
 だれにむかって言っているのかもわからない。
 山野辺は違った。
「おんどりゃあ!」と、山野辺は雄叫びを発し、一旦、懐にしまった拳銃に手をかけようとする。
 康介は怖れるどころか、
「おまえは、八田組の舎弟か。おれは、神戸の荷役を仕切る松木組のもんや。この上の貸事務所を、今日から借りた。上に行って顔出してこい。おれがだれか、わかる」
 山野辺は、康介の顔を穴の開くほど見つめる。
「もしかして、松木のコウボンでっか?」
 康介は黙ってうなずき、「ジジィをさっさと連れて行け。それがイヤなら、おれにも考えがある」
 山野辺はしばらくうつむいていたが、「わしらのシノギに口だされたら、かないまへんなぁ」
「そうか、その気やったら、こっちも覚悟がある」
 康介はロングコートのポケットに手を突っこむ。
 山野辺は口を開ける。
 康介は、たじろぐ山野辺にむかって、ポケットを突き出す。
「――言う通りにしまっさ。ただし、こっちの顔も立つようにしてくれると約束してくれまっか?」
「さっさと出て行け!」
 山野辺はあらがうハゲタコを、英美子から引き剥がし、店の外へ消えた。

 英美子は立ち上がると、何事もなかった足取りで店の奥のトイレへ――。

 オフィスの異変が、これで合点がいく。松木組は荷役会社の中でも最大手である。上屋を何棟も有している。海運不況と言われて久しいが、松木組は一人勝ちの状態にある。港湾以外にも、事業を展開しているからだ。船会社の株も持っているはずだ。いま売られたら、持ちこたえられない。

「なんで大人しゅうしとらんかったンや」と、海人は言った。「ここらは八田組のシマや。どうする気や、松木組のコウボンは?」
 康介は、ポケットに入れた手を出す。親指と人差し指でチョキの形にしている。
「アホか、おまえは」
「咄嗟のことでしたから、バレたらどうするか、考えませんでした」
「おまえなぁ……」海人は絶句する。「ほんまもんのアホタレやったんや」
「服部サンを助けたかった、それだけです」
「自分が何者か、名乗って、女課長をどこぞへ飛ばして、かわりに居座ったンか。なんぼなんでも――」
「やりすぎはわかってます!」
 康介は、海人の首にしがみつき、大声を放って泣きだした。
 海人は、はじめて得た友の、雨に濡れた髪の中に指をいれ、顔を起こした。
 彼の額に自分の額をつけ、
「いまから山野辺におうて、話をつけてくる。そうせんと、大事になる」
「ぼくはどうしたら――?」
「今夜の出来事を、松木のオヤジに正直に話すんや。代理店の課長になるくらいのわがままはよしとても、八田組のシマを荒らすことは許さんはずや」
 うつむく康介に、海人は言った。
「妾の子でも、ヤクザの家に生まれたンやったら、わかるやろ。ケジメをつけられんヤツは、いずれエライ目に遭う」
「なんでぼくが――?」
「耳にしたことがあるンや。松木組は後継ぎに恵まれてないってな。まさか、おまえのことやったとは――ホンマの話やったンや」
 クソッと海人は吐きすてると、リバーシブルのジャケットを裏返し、雨の中を駆け出した。
 このまま走って、何もかも捨てることができるなら――。

  10

 ベビーピンクのルームウェアに身をつつんだ柳沼深雪は一人掛けのソファに座り、藤原康介からもらった名刺を、小一時間、見つめている。あの夜以来、深雪の心身は変調をきたしている。
 忙しさにまぎれているときはいい。勤務時間外で気をゆるめると、からだの芯が疼きだす。
 自分の手で自分を慰めるすべを知った日から、自身の体内に宿る熱い塊を制御できない。
 目を閉じるやいなや、康介とからだを重ねている妄想に苦しめられる。
 
 六日に一度、巡ってくる休日を伝えるべきだったと後悔する。

 出会った日からほぼ一週間たち、カレンダーは二月も末に。
 相手から連絡がくるのをひたすら待った。
 たしかに、「またこんど」と彼は言ったはず。
 なぜ、何も言ってこないのか?
 深雪は、キャップに金のピン止めのついた万年筆を康介から借り、紙ナプキンに自宅の電話番号を記した。紙ナプキンは手渡したが、万年筆は返さず、バッグのポケットにいれた――。
 康介は気もそぞろで、気づいてない様子だった。
 泥棒のマネをしたのは、疑いをもつ習性のある警官という職種のせいか?

 市役所に行き、警察手帳を見せれば、彼の名前から住まいの住所を知ることができる。電話会社に行けば、自宅の電話番号もわかるはず――。
 県警本部の警務課にあるコンピューターで、指紋を照合してもらえば、べつのナニかがわかるかもしれない。
 その前に、〝科研〟で万年筆から指掌紋を採取してもらわなくてはならない。
 深雪はため息をもらし、首を横にふる。
 末端の警官の、それも所轄で実務研修中の身ではどれもかなわない。

 調べるのは、服部英美子と息子の海人が先だと自らに言いきかす。

 電話が鳴る。

 はやる気持ちを抑えて受話器を耳にあてがう。
 長谷川千賀の声が聞こえる。「ちょっと付き合ってくれない?」

 深雪の住むコンクリートアパートと近い、岩屋中町のビルの9階にあるフランス料理のレストランに呼び出される。
 長谷川千賀と、鬼ヒラこと平田係長と深雪の三人で食事をすることに。
 あいさつもそこそこに、前菜をたいらげた鬼ヒラは音を立ててスープを飲み、長谷川千賀にナイフを入れてもらったステーキ肉を頬張る。口尻に脂がにじんでいる。
「あの親子の過去に犯罪歴はない」と、口元をぬぐう鬼ヒラ。
「ゼロでは、ないのよ」と、長谷川千賀はカットされたラディッシュをフォークで転がしながら、「男性二人の行方が、わからなくる前のことだから、ずいぶん前になるわ。服部英美子は売春容疑で二、三度、あげられてるの」
「そやった、そやった」
 先に食べおえた鬼ヒラは、ボーイにデザートとコーヒーと灰皿を急かす。

 隣席の女性客のグループが眉をしかめても、ひっきりなしに煙草を吸う鬼ヒラは、目の下がたるみ、疲れがにじみでている。
「そのつど身元引受人の石垣がやってくるらしいの」
 長谷川千賀は半分も食べずに、フォークとナイフをおく。
 深雪も皿を引いてもらう。
「あの石垣ですか?」
 深雪は小ぶりのコーヒーカップに口をつける。
 ルージュのついた飲み口を指先でぬぐいながら、
「あの親子と、石垣とは十年以上前からの知り合いなのですか?」
「そうよねぇ」と、長谷川千賀が相づちを求めると、鬼ヒラの顔はほどける。黄ばんだ歯が目立つ。
「あいつらは、切っても切れん関係や。男と女の関係やない。売春婦と用心棒や。バックに八田組がついてるのが面倒なんや」
 暖房が暑いのか、ハンチング帽のない鬼ヒラは薄い頭や顔や首の汗をオシボリでふく。
 興味深い組合せだった。
 二人はそろって異例の昇進をしている。
 警部補の長谷川千賀と鬼ヒラとの間に、二人だけの隠し事があるような気がしてならない。
 二人は、服部親子の過去の犯罪を暴くために、深雪に自分たちの手足になって欲しいと口々に言う。
「あの親子は危険よ。二人を野放しにできないわ」と千賀は憤って見せた。
 主導権は千賀にあるようだ。ということは、長谷川千賀にとって、服部親子が邪魔になるのだろう。

 帰宅後、肩パットの入ったスーツを脱がずに、思い切って、康介の勤める代理店に電話をかける。
 電話口に出た女性の声に、深雪は名乗り、康介に取り次ぐよう頼む。
「ただいま藤原課長にかわります」
 課長?!
「藤原です。ご用件は?」と、固い声が返ってくる
 女子社員は、深雪の名を伝えなかったのか?
「先日、助けていただいたお礼を申し上げたくて――お仕事中、申し訳ございません」
「いえ、とんでもありません。お気になさらずに――ちょっと手が離せない急用がありまして――」
 深雪は急いで受話器を置いた。

 一時間後、チャイムが鳴る。

 ドアスコープ(覗き穴)をのぞくと、体型のよさが引き立つスーツ姿の藤原康介が立っている。流行のベルサーチのネクタイもよく似合っている。

 急いでドアを開けると、
「ごめん。みなが耳を澄ましてるから、話せなくって――気を悪くさせたかな」
「若いのに、課長サンなの?」
「うん、まあ」
「わたしの家、知ってたの?」
「警察に知り合いがいるんです」
 深雪にふと疑問がよぎる。
「入ってよ」
「いいのかなぁ。キミひとりなの?」
「まさか、結婚してると思ってたの?」
 ドアの外にたたずむ康介の腕を取り、部屋に引き入れる。

 沓脱ぎの狭いスペースで背伸びをし、長身の彼の首に腕を回す。
 彼はドアに背中をぶつける。
 こんな大胆なことが、自分にできるなんて、夢にも思っていなかった。
「どうかしたんですか……?」と、怪訝な顔つきの彼。
「待ちくだひれたわ」と、深雪は顔を上向ける。
 彼が靴を脱ぐあいだも待てない。
「このあいだの失礼を、お詫びしたいと思ってうかがいました」
 康介の声に高ぶりはない。靴を脱ぐ気配もない。
 自分の表情が母親そっくりに歪む。ひんまがった微笑になる。
「食事でもどうですか? 車できているので、遠出できますよ」
 康介は、首にからむ深雪の腕をゆっくりと外す。
「どういう意味!」深雪は激高する。「わたしをからかったの!」
 康介の整った顔が青ざめる。
「……行きかがりで……深い意味は……何かあったわけでもないし……」

 深雪は室内に駆け込む。
 脈拍が速くなる。
 思考回路がオーバーヒートする。
 悔しさと恥ずかしさとで心が荒れ狂い、だったいま、この場で死にたくなる。
 シンクの抽き出しにある、ステンレスの包丁を取り出す。
 康介は土足でフローリングの床を踏みあがり、深雪の手から刃物を取り上げる。
 涙があふれる。
「あなたのせいで……わたしは……自分が自分でなくなってるのよっ」 いまも、からだ中がどうしようもなく熱い。
 ブライダル・ベールをかぶりたいわけじゃない。
 抱かれたいだけなのだ。
 泣きじゃくる深雪に、「申し訳ない。悪かった」と、康介は同じ言葉を繰り返す。
 
 脳細胞に電流が走る。

 もしかすると、服部海人の情報を得るために、彼はわたしに近づいたのか?

 服部親子に関する資料のコピーを、長谷川千賀からもらい、手元にある。
 
 西側のガラス窓に、冷たい落日が深雪にささやきかける。取り引きをすればいいと。
 闇が彼女をつつむ。

「たったいま、わたしを満足させてよ。ただとは言わないわ。あんたは、服部海人の秘密が知りたいンでしょ?」
 康介の顔色が変わる。
 落胆したが同時に、賭けに勝った気分になる。
「キミは……そんなむちゃを言って、たのしいの?」
「あの親子は未解決事件の犯人なのよっ。だから、店に探りに行ったんじゃないの!」
 康介は目を見開き、棒立ちになる。
「あんたの心がけ次第では、捜査しないように、ウエに言ってあげてもいいわ。わたし、こう見えて、目をかけてもらってるの」

 深雪は爪先立ちになり、彼のネクタイを引きぬき、床に投げ捨てる。ストライプ柄のせいか、大蛇が這っているように見える。衣服を剥がし、靴を玄関にむかって投げる。
 深雪自身も身につけたものを剥ぎ取る。
「あんたを、思い通りにするわ」
 ベッドに押し倒すと、長身の彼のからだに、自身のからだを密着させる。首筋に唇を這わせる。
 彼の性器は反応しない。
 焦れば焦るほど、彼のからだは冷えてゆく。

 なぜ、彼は部下の一人にすぎない服部海人にこだわるのか?

 深雪は彼の秘密を知る。
「そうだったの! わたしって、バカよねぇ。でも、かまわない。飽きるまで、このきれいな身体を愉しむわ。わたしのものなんだから――」

 はじめて関係をもった男とセックスをするとき、顔色ばかり、うかがっていた。苦痛をともなう体位をとらされても、感じているフリをした。

 康介はじっと天井を見つめている。

「服部海人がどうなってもいいのね」

 深雪は自身の内側のふくらんだところに、彼の手を導く。
 死人の手と同じだった。
 引き結んだ唇の中に舌をねじこむ。
 彼は両手で深雪を押し退ける。
 吐き気がするのか、半身を起こし、口元をおおう。

「もう一度言うわ。わたしは証拠だって捏造できるのよ!」
 ベッドに両膝をつき、大声を出す深雪に、
「希望を言ってもいいですか?」
「海人の命乞いをしたいなら――」
「やり方を変えてください」

 彼は、深雪に事細かに説明し、壁にむかって横臥する。
 深雪はベッドを降り、大切にしまってあるモンブランの万年筆を手にとり、ベッドにもどる。
 深雪は遺体の体温を計るときと同じ手順で、彼の背後に万年筆をあてがう。
 康介が身震いする。
 彼が覚醒する。
 深雪は彼の背中を、大きな子供を抱きしめるように足をからめて抱きかかえる。
 ベッドがきしむ。
 深雪の小さな掌が、うしろから彼をなぐさめる。
 康介は嗚咽に似た愉悦の声をもらし、洗ったばかりのシーツに精(エキス)を吐き出す――。
 深雪は頭をそらし、醒めた胸の奥に息を吸いこみ、寝返りをうった。
 粘りつく手を見つめる。
 康介が深雪の耳元でささやく。「こんどは、キミのしたいようにするから、教えてくれる?」
 深雪はふたたび寝返りをうつ。「うれしい。じゃあ、手を貸してちょうだい。お願い。すこしは動かしてね」 
「わかった」康介は笑顔になる。

 憤怒や屈辱が脱却(パワー)の源泉になる。

 はじめて会った日、彼は黒い万年筆を深雪に手渡したとき、わずかに動揺した。急いでいると勘違いした深雪はバッグのポケットに万年筆を取り込んだ。彼はわざと見過ごした。こうなる結果を、見越していたにちがいない。
 彼の繊細な指の動きに、深雪を満た足りた表情を見せる。

 このていどの戯れで、憎悪に燃える女を操れると思っている彼が、深雪はいとおしい。

 父を虜にした狂気が深雪に忍びよる。

 この男の愛する服部海人を破滅させるまでけっして死なない。

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