チェンそー

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最近の記事

2024/4/20

こんばんは。今日は一日中雨が降ってたので、おとなしく部屋で閉じこもってました。暇になるとなんだか楽しくなくなるんだよね、抑うつ的になる。頭が回らなくなる。でも頭がまわることに本来性があって、頭が回らないことは何かしらの疎外があると考えてしまうと、更に楽しくなくなるのでこの辺でやめておこう。 終末物のSFが読みたいですね。例えば、核戦争後に一人生き残った主人公が生き残りを探すんだけど結局見つからない。自分が世界で最後の人間なのかもしれないと考えた主人公の気持ちってどんな風に描

    • <書評>まなざしの地獄/見田宗介

      今日は結構日差しも強くて、上着がいらないくらい暑かった。最近はなぜか体が思うように動かなくて、つらいなあと思っていたんですが、今日はちょっとましになったかも。(日光浴のおかげ?) 本題。(こーやって日記みたいなテイストで書いていこうと思う)見田宗介/真木悠介氏は凄く”読ませる”文章を書くひとだと思う。抽象的な言葉で書かれているのに、その言葉が僕たち一人一人の実存をそっと掬い取っているような気がする。例えばこれとか。 「人間的な実践の弁証法は解体し否定性の実存だけむきだしに

      • やむにやまれぬ

        衝動としての思考。生命と等置される行為。まだとらえきれないその何物かへと跳躍し、世界と取り結ばれる言葉に託したその物自体が、わたしの身体のなかでとぐろを巻き、怒り、ほどけ、ひとの立つ地上の物を破壊し、空を噴火させ、飛沫を上げながら無意味が有意味へと、現実が非現実へと、転変する。 意味不明な言葉を叫びたくなるときがある。じぶんを意味不明にしてしまいたいときがある。それはわたしの内的な小刻みの爆発が、行き場のなくなるほど溜まっている事実の表出への欲望の結晶化のように思える。

        • 会話(性行為のための)<書評>

          これはチー牛ミーム分析の続きである。前回は、かの用語の成立の必然性を探ることによって、自分の立つ地点を上空から見つめ直すことを目標としたのだった。 今回取り組む主題は「コミュニケーション」である。自分が多少あがり症なところもあって、他者との円滑なコミュニケーションが難しいと感じることが多い。だから、考える(解決のために)というわけでもないが、楽しいので考察してみたいと思う。 ”世界とは結局のところ、他ならぬこの私にとっての世界である。誰にとっても、世界は、<私>の認識と相

          気流の鳴る音(旅のノートから、交響するコミューン)/真木悠介

          私たちは、意味に、それも一定の志向性をもった意味に支配されている。その代表例として、資本主義とそれを裏側から支える能力主義がある。 前者に関して言えば、それは物神への無意識的信仰であり、それとおなじ平面の上に、努力/怠惰、健常/不具、成功/失敗を位置付ける”能力”への思想的(または行動上の)勾配がある。 私たちが幸せだと感じるのは、もちろんその意味によって、未来を媒介にして人生を充実することでもあろうが、その”意味”が取りこぼす世界の複雑さがあることも事実だと思う。 「

          気流の鳴る音(旅のノートから、交響するコミューン)/真木悠介

          消極性への抵抗

          自分を覆っている通称的なことがら、真剣さが失われるような語彙に対して、ひとまず抵抗することから始めよう。 ここで文章を書くという行為自体で、抵抗と言えるような気もするが、しかしそれでは足りないのである。相手方に自分を茶化させた上で、正面を切って抵抗する必要があるのだ。これは自意識過剰の発露であり、無意味な怒りであり、自分で自分の顔に泥を塗りたくる間抜けな行為だ。しかし”キモチワルさ”の極地に至らなければ、その語彙を破壊することはできない。つまり僕は「チー牛」にならなければな

          消極性への抵抗

          わからなさから始める

          大学に入学して、少したって、色々わかってきたこと、わからないことに方向づけをしてみようと思う。 まず一つ目、大学のクラスでの自己紹介があまり上手く出来なかったことについて。つまり、見知らぬ他人に対して、――しかしその他人は具体的な顔をもっている――自分をさらけ出して解釈させる行為の、グロテスクさに、怖気づいてしまうこの自分の心のふるまいについて、考える。やっぱめんどくさいのでやめる

          わからなさから始める

          Twitterを脳みそから引き剝がす作業一日目

          どうなるのか気になるので、やってみる

          Twitterを脳みそから引き剝がす作業一日目

          「賢さ」に代わるそれでない何か

          自分が生きていく上で目指す目標があるとする。それは自伝としてのアイデンティティとして現れたり、普段は自覚的でないが人生の岐路に立つときそれを見つめ、それについて思考することがある。 最初は集団のノリに合わせて目指される事柄だったりする。「カッコいい」とか「イケてる」みたいな指標が自分の全てだったりする(そう後から気づいたり)。 自分の場合もそれと大体同じで、今ならば「賢さ」だったりする。(この前提に開き直るつもりはない、なぜなら今の苦しみをここにある言葉に落とし込むこと、

          「賢さ」に代わるそれでない何か

          <書評>人は愛するに足り、真心は信ずるに足る/中村哲・澤地久枝

          九大中央図書館に、「中村哲医師メモリアルアーカイブ」というコーナーがあったので、足を運んでみた。興味があるわけではなかったが、暇つぶしに、ということである。 中村哲/約1,600本の井戸を掘り、クナール川から全長25.5kmの灌漑用水路を建設した。 約17年間かけ建設した用水路群の水で65万人以上の命が支えられている。 2019年12月4日にアフガニスタンのジャラーラーバードにて銃撃され死去。(ネット上の情報より) 中村哲医師はアフガンでの事業を支えるために、講演会や著述

          <書評>人は愛するに足り、真心は信ずるに足る/中村哲・澤地久枝

          日記2024年4月5日

          他者を理解することとスマホを見すぎないことは繋がりうる

          日記2024年4月5日

          実質的な世界を私的な妄想世界から見つめる

          アクチュアルなもの、リアルなもの、実質的なものがまっすぐに語り交わされる時代を準備する世代たちのうちに、青青(せいせい)とした思考の芽を点火することだけを願って、わたしは分類の仕様のない書物を世界の内に放ちたい。 これは、戦後日本を代表する思想家、見田宗介の言葉である。文学的な表現を用いながら、見田氏の思想の核心的な部分をさらけ出していると言っても良いだろう。 僕は見田宗介の本の愛好家というわけではないが、「自我の起源」、や「社会学入門」において使われたこの言葉は、忘れた

          実質的な世界を私的な妄想世界から見つめる

          社会学講義(橋爪大三郎/大澤真幸)

          社会学について、入門者向けにコンパクトにまとめられた本。読んだのは橋爪さんと大澤さんの章だけだけれど、凄く分かりやすいのに面白い。 「現在色々引き摺っている過去の制度のしがらみに対して、それがいつ、誰の責任でこういう制度に出来上がってしまったのかはっきりさせ、そのことを通じて、その制度が変わりうる条件を明らかにしていく」と、社会学の実践的な役目として橋爪さんは上のように言っているが、これは当然他分野の研究にも言えることだし、日常生活においても意識するべきことだと思う。(なぜ

          社会学講義(橋爪大三郎/大澤真幸)

          ツイッター

          序列の一元化作用

          ツイッターについて考える

          僕がツイッター(現X)を使っているときに何を考えているか、何が起きてるかということを考察してみました ツイートをするということ、そもそも何らかの行為をするとき、正/負の感情が伴っている、と考えてみます。つまり、純粋に正/負の感情を伴わない行為はないということです。 次に、人が何らかの行為をするとき、それはここではコミュニケーションとも言い換えられますが、他の人の感情を誘発します。ある発言が正の情報として伝わることもあるだろうし、負の情報としてつたわることもありえます。そし

          ツイッターについて考える

          最近考えていることの吐き出しと再構成

          例えば、友達という存在について考えてみる。気の合う仲間と一緒に過ごすことは、とても心地いい。自分の言葉を、内輪ノリに還元することが許される環境、それが仲間全体に共有されていく快感、というのは確実にあると思う。 一方で、その内訳ノリ、仲間内のルールは、強く自分たちを規定する。そこから逃れるができず、微妙な違和感を抱きながら悶々とすることもあるだろう。最悪の場合、”ノリ”によって人間を殺すこともあるかもしれない。 ここで一つ仮説を立ててみる。私たちは、友達、家族、宗教、学校、

          最近考えていることの吐き出しと再構成