「賢さ」に代わるそれでない何か

自分が生きていく上で目指す目標があるとする。それは自伝としてのアイデンティティとして現れたり、普段は自覚的でないが人生の岐路に立つときそれを見つめ、それについて思考することがある。

最初は集団のノリに合わせて目指される事柄だったりする。「カッコいい」とか「イケてる」みたいな指標が自分の全てだったりする(そう後から気づいたり)。

自分の場合もそれと大体同じで、今ならば「賢さ」だったりする。(この前提に開き直るつもりはない、なぜなら今の苦しみをここにある言葉に落とし込むこと、未来において振り返って自己満足することこそが重要だと思うから、要するにこの過程にほとんど満足している)それは明確に序列を形成するものだと言える。

序列は暗いルサンチマンを生む。たとえ序列上位にいるとみなされている人間がいるにしても、”その上”が出現する用意が世界には十分にある。(比較可能な序列にいる人間は誰でもルサンチマンを抱く可能性がある。)

ならば比較不可能な存在になればいい。単純な話だ。しかしそれは観念の操作の上では単純だということに過ぎない。現実には当然難しいし、無理だという人間もいて、そう結論して自死する者もいるかもしれない。(その種類の自殺について、ここでは、ルサンチマンの攻撃性の自己への反転だと言わねばならない。)

比較不可能であるとはなんだろうか。個人的には、それは世界全体と等置されるような自己の確立だと思っている。宗教体験というのも、その種類のものではないだろうか。またこれは魂を投げ打つような恋愛を通して、自己とその相手を等置するようなもののような気もする。(その相手は世界全体に等しいのだ。)

この立場に拠れば、比較不可能性とは、ある一者(唯一絶対の存在)の肯定であり、その行為が何者によっても妨げられないと確信する、またはそのような確信に至るまでもなくただ全肯定をし続けるようなもの、それによって自己も肯定するようなものだと推測できる。

少し離れて思考してみよう。以上のように述べた比較不可能性=神への同一化、を一つの目標として、それに漸近していくような実践を考えたい。

もっとも、自分の拠り所としての目標に関係のないことには興味がないので、ほとんど自分の知的能力の位置によってしかルサンチマンを感じないのだが。(このことは、他人に対しても知的能力の上下を考えて、価値と結びつけようとするということにも繋がるかもしれない)つまり主に「賢さ」という指標に関して、何か手を加えて比較不可能なものに近づけたいのである。

例えば、数学の問題が自分だけ解けなくて、苦しいとき、その背景にあるのは序列である。その序列は「賢さ」を善としている。つまりここでは、序列内での自己否定が起きている。しかしこのとき、比較の言葉に、それを緩和する言葉(しかしそれは「賢さ」に接続される言葉ではない)を付け加えることはできないだろうか。

すなわちこうである。序列下で自分が他人より劣っているという事実と、自分が問題を解くことの価値は、他でもありうるという事実は並立する、と強く主張することだ。あえてその”他”を明示しないことは、その新たな価値による序列の形成や僕にとって重要な「賢さ」の変形(自分にとって重要な価値の単なる移転、序列の保存)を防ぐためである。

他でもありうるということの慰めは、それを無限に繰り返すことで比較自体の意味が消失する、と思う。(では宗教体験や恋愛とはなんなのだろうか)

また次のようなやり方も考えられえる。比較の言葉に、自分を単に肯定する言葉を付け加えること。


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