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どうする団塊ジュニア世代(#23)<豊臣の怨念>

introduction

敗戦後の第一次ベビーブームにより誕生した世代は「団塊世代」と呼ばれ、戦後日本の復興に大きな影響を与えました。

私は戦後日本を早急に復興せさるため、何者かが恣意的に第一次ベビーブーマーを団塊化させたのではと推察します。

あくまで個人的な見解ですので、ホラ話と思って読んで下さい。

慶喜の本音

時は遡り1946年 日比谷図書館にて
(完全にフィクションであり、実在の人物や団体などとは関係ありません)
新憲法草案作成の期限まで「あと5日」

新憲法の草案を10日で作成するためにGHQから新憲法作成を託された素人集団MSKの最年少シロータは、図書館でいつも暇そうにしている初老の紳士:米森から「小御所会議」についての説明を受けた。

*米森の「小御所会議」話はコチラ

「可愛らしいネーミングの割には、随分物騒だね。」
シロータは生々しい話に興味深々だ。

「クーデターだからな」
米森に当然と言った感じで答える。

「でも、こんなド派手にクーデターやらかしたら事前にバレるよね?」
シロータは素朴な疑問を米森にぶつける。

あくまで個人的な見解と前置きし米森は推察する。
「実はクーデターの前段である長州の赦免を決める朝議に、慶喜は呼ばれていたが病気を理由に欠席していたのだ。多分、何が起こるかは事前に察知しており、自らの身を案じたんだろう。」
「しかも居城である二条城は御所から目と鼻の先だ。御所には親幕府の公家も大勢いたんで情報は筒抜けだっただろう。」
「御所門の警備をしていた親藩の会津藩が、いきなり薩摩藩に乗っ取られたんじゃ。『八月十八日の政変』の件もあり、クーデターと認識しない方がおかしい。」

「じゃ、どうして慶喜は阻止しなかったの?」
シロータの質問は、これまた真っ当だ。

「慶喜には自信があった。」
米森は持論を述べる。
「大政奉還の延長線として考えていたんじゃろう。会議の参加者に御三家や親藩・土佐藩も含まれていることから、紛糾間違い無しと予想した。まあ、四侯会議の手応えがよっぽど良かったんだろうな。」

「領地没収の件は?」
シロータは核心に迫る。

米森は持論を続ける。
「納地については想定外だったと思う。王政復古で徳川が納地したら、理屈として他の大名もいづれは領地を没収されてしまう。一所懸命をモットーとする武士から領地を取り上げるのはタブーだ。そんなことは、諸侯が許さない。なので諸侯を新政府の構成員とする以上、それはありえない。」

「だから上手くいかないと。」
シロータは相づちを打つ。

「慶喜の本音はこうだ。」
米森は語気を強くした。
「王政復古なんて上手く行くはずが無い、いづれ自分に泣きついてくる。」

薩摩の目論見

「それじゃ、王政復古の大号令の目的は何だったの?」
時間の猶予もないことからシロータは結論を急ぐ。

「恐らく幕府を怒らせる為の挑発じゃ。領地は武士にとっての食い扶持だ。しかも徳川だけ没収するなんて言われたら、幕臣は黙ってないだろ」
米森は更に畳みかける。
「小御所会議では徳川家400万石のうち200万石を納地することが決まった。関ヶ原の合戦後、毛利も大幅に減封されたが、それが倒幕の原因だという説もある。それだけ武士は領地に執着するのだ。」

*長州藩の新年挨拶についてはコチラ

「将軍を蔑ろにされた幕臣の面子が潰れるよね」
シロータは加藤から聞いた長州藩の新年挨拶の話を思い出し納得する。

面子という言葉を、外国人なのによく知っているなと感心しながら、更に米森はシロータを試す。
「武士は食わねど高楊枝だな。」

「武士はプライドが全てということだね。」
シロータは米森の意地悪をサラッとかわす。
米森はシロータは人生の半分、日本に住んでいた事を知らない。

「薩摩藩はどうしても、このタイミングで幕府と戦争をしたかった。」
米森は言い切った。
「岩倉や西郷達は『王政復古の大号令』で、一世一代の賭けに出たんじゃ。だからどうしても幕府を怒らせて、幕府側から仕掛けて欲しかったんだ。」

慶喜の逆襲

「小御所会議の後、慶喜は京都の二条城から大阪城に移動した。」
米森の話は小御所会議後の動向に進んだ。

「慶喜は逃げたんですか?」
シロータは身も蓋もない物言いをした。

随分な物言いだなと思いつつも米森は落ち着いて答える。
「戦争のキッカケとなるような小競り合いを避けるため、地理的に距離を置いたというのもある。しかし本当の目的は慶喜による新政府の本格的な準備じゃ。」
話が飲み込めないシロータをよそに米森は話を続ける。
「慶喜による新政府構想の首都は大阪だった。大政奉還が受け入れられたので次の段階に進めただけの話じゃ。そこで慶喜は英・仏・蘭・米・伊・普の公使と引見して、列強から徳川新政権の支持を得た。更に薩長のやり方はおかしいですよね的な上表文を天皇に提出したのだ。」

「慶喜も負けてませんね。」
シロータは意外だという感じで相槌を打つ。

勢いそののままに米森は捲し立てる。
「小御所会議メンバーも一枚岩では無い。岩倉の独断ぶりをよく思わない議定の仁和寺宮嘉彰親王は『岩倉、大久保って何様?』的な意見書を提出しており、また山内、春嶽らの親幕府派の動きにより辞官納地などの小御所会議の結果も無力化されつつあったのじゃ」

「岩倉の勢いはどうなったの?」
シロータは面白半分に聞いてみた。

「親幕府派と薩長の間で板挟みになり、辞官納地は言い過ぎかなと弱腰になってしまったり、分が悪い三職会議には欠席するようになってしまったんじゃ。」
米森はシロータを諭すように話して話題を変える。
「しかし西郷はこの逆境でますます燃えたんじゃ。西郷は回りくどい政略では無く、武力でド派手にやらなきゃ気が済まないと考えていた節がある。自身も一度、自殺未遂した経緯があり失うものは何も無い。西郷にとっては、やっと自分にターンが回ってきたと喜び勇んだのだろう。」

歴史は繰り返す(豊臣の怨念)

1868年、徳川慶喜は大阪城に居た。
その254年前の1614年、そこには豊臣秀頼が居た。
どちらも大阪城で敗軍の将となるが、どちらとも戦わなければ勝者となっていた。

秀頼は高齢の徳川家康の寿命が尽きるのを待ち切れば勝ちだった。
慶喜も王政復古で誕生した新政府が自滅するのを待ち、王政復古自体を取り消せば良かった。

期限付きのアドバンテージであることは、敵方である徳川家康や西郷隆盛も十分承知である。
だからこそ家康は方広寺鐘銘にイチャモンをつけるなど、豊臣軍から戦争を仕掛けてくるまで、手段を選ばず挑発した。
西郷も江戸の街を放火するなどして必死に挑発行動を繰り返した。

賢明な慶喜は挑発に乗らない自信があった。
しかし兵卒に至るまでの管理は不可能である。
西郷の挑発は徐々に幕臣のプライドを削り続ける。

最終的には、開戦へのボルテージの高まりを慶喜が抑える事が出来なくなった。
それは260年の間、飼い慣らされた武士のDNAを呼び覚ますようであった。
武士は結局、武士なのだ。

まるで254前に滅ぼした豊臣武将の怨念が乗り移ったようでもあった。
神君が豊臣家に行った所業が、時を経てブーメランのように戻ってきた。
幕府の始まり方と終わり方の皮肉な一致。
終わる時はこんなものか。
朝廷軍が錦の御旗を掲げた時、慶喜は因果応報を感じたのかも知れない。

しかし慶喜は賢明な将軍である。253年前に大阪城が業火に包まれた歴史を知っている。
慶喜は大阪城と日本国を重ね、日本が焦土になる選択を避けた。
慶喜が大阪から脱出したのは、歴史における因果応報に一矢報いたかったためである。

そのような推測はやや勘繰り過ぎだろうか。

次回で明治維新編を終了させる予定です。




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