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どうする団塊ジュニア世代(#16)<明治維新というカオス>


introduction


敗戦後の第一次ベビーブームにより誕生した世代は「団塊世代」と呼ばれ、戦後日本の復興に大きな影響を与えました。

「団塊世代」は文化的、思想的な部分で共通しているという特徴を有しており、この特徴こそが戦後日本復興の大きな要因であると考えます。

私は戦後日本を早急に復興せさるため、何者かが恣意的に第一次ベビーブーマーを団塊化させたのではと推察します。

あくまで個人的な見解ですので、ホラ話と思って読んで下さい。

前回は「ぶっちゃけ明治維新」を講談調で解説しました。
今回もそのノリのまま続編をお送りします。

カオス

黒船来航により倒幕という悲願成就のチャンスが訪れた長州藩。
まずは日本中を掻き回し何でもありのカオス状態にする。
それが長州藩の第一手だ。

歴史上、異国との接触はカオスのトリガーだ。
蒙古襲来
鉄砲伝来
朝鮮出兵
そして黒船来航

島国の異国アレルギーは「何でもあり」の状況を生み出す。
蒙古襲来後のバサラ大名
鉄砲伝来後の織田信長
朝鮮出兵した豊臣秀吉
そして黒船来航後の長州藩
「何でもあり」は「下剋上」の条件だ。

長州藩は、とにかく日本中を掻き回す。

「攘夷最高」ってノリで下関で外国船を砲撃するも倍返しされ、京都では「天誅」と叫ぶ志士が徘徊するもヒンシュクを買い政変で追放され、逆ギレして御所の門に攻め込むも朝敵と見なされ、しまいには全国から討伐軍が攻め込んできたりで大暴れの長州藩。

一見、無謀な動きと思えるも、目的は一つ、日本中を掻き回すこと。
その破天荒な動きに注目したのは英国の武器商人。
戦争の匂いがするとばかりに米国がウクライナを支援するが如く長州藩に肩入れ。そこに長州藩と同様、英国と喧嘩して強さを知ってる薩摩藩が便乗して、ついにパワーバランスは動き出す。

ここに長州藩は目論見通りにカオス状態を完成させる。

関ヶ原前夜の再現

1866年に締結された「薩長同盟」あたりから歴史が一気にきな臭くなる。
第二次長州征討中に徳川14代将軍家茂が大阪城で急死、間も無く孝明帝も突然崩御されたのだ。

それにより長州征討はなし崩し的に中止され、長州征討に加わらなかった薩摩藩は四侯会議(しこうかいぎ)の設置を主導して、幕府から雄藩連合(力のある大名による合議)への政権移行を目論んだ。

四侯会議は島津久光(薩摩藩)、松平春嶽(越前藩)、山内容堂(土佐藩)、伊達宗城(宇和島藩)と15代将軍徳川慶喜からなる会議で、議題は「長州藩の処遇」と「兵庫港の開港」。
いずれも家茂公と孝明帝が存命時は棚上げになっていた問題であり、相次ぐ死去と四侯会議のタイミング良すぎて、英国あたりのシナリオなのか?と繰ってしまう。

ここで興味深いのは、関ヶ原前夜に酷似していること。
幼き皇位継承者(明治天皇)が豊臣秀頼と重なり、にわかに召集された四侯会議と徳川慶喜の構図が豊臣政権下の4大老と徳川家康と重なる。
差し詰め長州征討は会津討伐で毛利敬親は上杉景勝かと連想してしまう。

相違点は徳川慶喜はまだ若く、石田三成のように頭が切れたので、正論で雄藩連合を論破したこと。脂が乗り切った徳川家康のように老獪に寝技に持ち込めたら、薩摩藩の武力倒幕路線への転換を防げたのかとも思えてくる。

その後、徳川慶喜は「大政奉還」を実行し自らの理想に突き進む。

なんだかなあ

今回は歴史の解説に終始してしまいました。
「なんだかな」と感じですいません。
幕末の歴史は、色々と出来事がありすぎて、ストーリーとして見えてこないんです。

しかし歴史は人間が動かしているので、それぞれに思惑があり意図しているシナリオがあったはずなのです。
いつの時代も人間の思考には大差無いので、似たようなシナリオを描いてしまいます。

なので歴史は繰り繰り返し、過去とのデジャブが起きてしまいます。
過去の投稿で歴史は論理的な学問であると説明しました。
過去に様々な出来事があり、沢山の要因が複雑に作用した結果、今、自分がここに存在する。
これは因果関係以外の何ものでもありません。
そこに想像力を膨らませてみる。
そこが私が歴史を面白いと考える理由です。

次回は「徳川慶喜」について説明します。

<続く>

次回の内容


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