見出し画像

第2話 自己紹介編② 「自分は何がしたいのか…」漠然とした不安を抱えた大学時代


さて、こんな感じで私の高校生活は、人見知りをしながらも、友人の誘いからお笑いをすることになり、人を喜ばせる嬉しさを再認識した時期でした。(詳しくは前回の記事へ↓)

しかし、私はとても口下手で、フリートークなんて目も当てられないほどですので、お笑い芸人を目指すのは間違いだということはわかっていました。

ただ、別の形でもいいから、人を笑顔したり、明るくしたりすることを将来的にしたいという気持ちは心にありました。

芸人以外で何かないかと考えてみましたが、その時点では見つからず、とりあえず大学に進学することになり、就職率がいいからという理由で、岩手大学の工学部に入学しました。(お笑いに没頭しすぎたため勉強しておらず、第一志望の筑波大学には落ちました(泣))

大学に入学はしたものの、私は自分が本当は何をしたいのかわからないまま、何となく授業を受け、それなりに勉強し、それなりの成績をとっていました。

大学でも高校と同じくサッカー部に入りました。スポーツ科の学生が集まるガチサッカーでした。朝6時から8時まで朝練があり、そのあと16時から18時まで午後練習があるかなりハードな部活でした。チームのプレースタイルはとにかく走るサッカーで、サッカーをしていたよりは走っていた記憶しかありません(笑)たぶん辛すぎて記憶が薄れています(笑)

ただ、その甲斐あってか、チームは私が大学2年生の時に、岩手県天皇杯予選でプロチームも参加する中、決勝戦まで進み(決勝では惜しくも負けて県代表になることは出来ませんでした)、また東北大学サッカーリーグで勝ち上がり、全日本大学サッカー選手権(インカレ)に出場することが出来ました。

そんな激しい部活だったので、毎日疲労困憊で、幸か不幸か「自分は何がしたいか」など考える余裕はなく、月日だけがただ過ぎていきました。

ただ、心のどこかでこのままではいけない、このまま進んでは一生後悔する。という漠然とした不安はあったので、私は全国大会出場を最期に部活を引退しました。

大学のサッカー部
個性豊かなチームでした(笑)💦

そして私は自分が本当にやりたいことを見つけるため、海外に留学をしました。おそらく海外へ行って、全く新しい文化、環境、人に出会うことで、新しい自分、本当の自分が見つかるのではないかと期待していたのだと思います。

1か月のアイスランドへのボランティア、2か月カナダへの語学留学、イギリス、イタリア、オランダ、、いろんな国に行って、いろんな国の人たちと交流しました。

アイスランドの国際ボランティアにて。
皆が何を話しているのか、全くわかりませんでした(笑)

海外での国際交流は私に、日本以外の国で活躍する選択肢もあることや、外国語を話す楽しさ、外国語で日本語では話せない人とコミュニケーションをとる楽しさ、そして、ちょっと勇気を出して自分がやったことのないことに挑戦してみれば、自分にはたくさんの可能性があることを教えてくれました。

カナダの語学留学にて

沢山の国の人の価値観や生き方、考え方に触れて、自分の中で「こんな生き方もあるのか!」という選択肢は増えました。

でも、結局やりたいことは見つかりませんでした。

今さら専攻や進路を変えることは出来ないと思っていたので、自分の今進んでいる道を究めることにしました。後悔しないくらい、突き詰めてやろうと。

私は生命工学の分野の研究をしていたのですが、その道を究めて研究者になり、社会に貢献出来たらいいかなと思いました。

研究者はお笑い芸人のように目の前の人を笑顔にするわけではないけど、研究が役に立てば、まわりまわって、どこか遠くの人を笑顔にできるかなと思いました。やりがいは、後からついてくると信じました。

またカナダ留学中に、研究者を目指す海外大学院生に出会い、その人の挑戦する姿勢が輝いて見えました。私も、研究を突き詰めるなら、自分も海外でやってやろうと思い、海外の大学院を目指しました。

でも今考えると、日本でも十分魅力的な研究はたくさんあり、研究者を目指すという意味では日本の大学院でもよかったと思います。おそらく当時は「このまま周りに流されて生きていては必ず後悔する」という強い危機感が自分の中であったのだろうと思います。

「海外大学院へ行き研究者を目指す」という目標は、「このままではいけない。でも、自分はいったい何がしたいのかわからないまま時間だけが過ぎていく…」という漠然とした不安を、埋めてくれました。

海外大学院に行くには、最低限TOEFL iBTという海外大学留学用の英語のテストで80点以上(120点満点)、大学の成績でGPA3.5以上が必要でした。GPA3.5がとの位のものかは忘れましたが、まずまず頑張る必要があったと記憶しています。

海外大学院を志した当時私は大学4年生の春。時間の猶予は1年もありませんでした。

不安から湧き上がるエネルギーはすさまじいようで、私はそこから1年間、狂ったように英語と研究に打ち込みました。

目に入るもの、耳に入るものをすべて英語にし、何か考えるときもすべて英語で考えました。

自分を可能な限り24時間英語づけにし、寝ているときも英語で夢を見るようになりました。

学部で同じように海外大学を目指す人はおらず、前例もなかったので、定期的に東京に夜行バスで行って、経験者に会って話を聞いたりして、ほぼ我流で留学準備と英語の勉強を進めました。

TOEFL iBTテストは1回4万円もするのですが(学生の私には高い…💦)、とにかく場数を踏むしかないと思い、8か月ほど毎月受けました。

そんな努力の結果、最初40点台だったスコアも、最終的には89点になりました。

これはTOEICに換算すると、950~980点に値するスコアらしいです(笑)

勉強し始めの私は、英語はノリで話していて、1度試しに受けたTOEICでは500点もいかなかったと思うので、当時の自分、頑張ったんだなぁ。。と思います。

大学の研究や成績も順調に進み、GPAは3.5を超えました。

そんなこんなで、私は無事2015年の冬頃、オーストラリアの西海岸にある、西オーストラリア大学に入学が決定しました。

ここからオーストラリアへ旅立ち、私はハンバーガーに出会うことになります。

留学編に続きます。

この記事が参加している募集

仕事について話そう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?