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「決めつけ」てしまうこと

「曖昧さ耐性」という言葉があります。

生活するにおいて
物事は「黒か白か?」「0か100か?」には
決められません。

私も「ケジメ」と評して
物事の区切りをつけたがります。
「曖昧さ」には耐えられない、
「曖昧さ耐性」は少ない方です。

なぜ、私も含めて
「曖昧さ」の耐性が少ないのでしょう?
一つは車のハンドルの遊びのような
良い意味での融通性がないからかもしれません。

よく言われるように
私たちの生きている世界に
「白か黒か?」「0か100か?」という
決めつけができるものはありません。

生きている感覚全ては
白から黒までのグラデーションであり
その中で人は
喜んだり、苦しんだり、怒ったり
いろんな感覚、いろんな感情を
感じ、時には表現して生きているのです。

この「決めつけ」心理学、特に「認知行動療法」では
「認知の歪み」(考え方のかたより)と言われています。

「認知の歪み」が通常より
その人の中で大きくなっていくと
生活上での困難さや
その人の生きずらさに
影響が出てきます。

私もメンタル疾患罹患者なので
自分の考え方の偏り(認知の歪み)により
振り回されたり
思い込みのきっかけになったり
まさに生きずらさの原因になっていた時もあります。
(今でもそうですが・・・😅)

「人生に絶対はない」
この言葉は漫画「スラムダンク」の中に
出てくる言葉の一つですが
私もバスケットの試合の結果と同じように
「この世界に絶対はない」と
よく自分に言い聞かせて
困難な時でも意識を保っていた時があります。

この「白か黒か?」「0か100か?」という
偏った考え方(認知の歪み)を
ひどくなってしまう場合
周囲の人からや
自分のセルフイメージによる
「ラベリング」
に発展してしまう時があります。



あの人は「〜な人だ!」とか
自分自身に「私は〜な人間である」と
「ラベル」を張ってしまうこととなってしまうのです。
その心の「ラベル」はガムテープのように
剥がしづらいものになってしまいます。

私たちが生きている世界は
「わかるもの」と「わからないもの」の
境目のところに位置しています。

誰だってそうなのです。
いくら本を100冊読みきっても
世界をわかること100%な人間にはなれません。

知識は使ってこそ意味があります。
中国の古典「論語」には

「わかっていることと
わかっていないことを
自分で区別しなさい。
それが”分かる”ということだ」

ということを孔子も述べている
場面もあります。

「曖昧さ」は時に心のしなやかさでもあります。
困難や苦難に出会っても
「のれんに腕押し」のように
心の中で嫌な事実を
スルッと流してくれる、力にもなります。

勉強すればするほど
この「曖昧さ」が減少する可能性もあります。
時には「散歩」や「瞑想」のように
何も考えずにただ「歩く」のを
楽しめる気持ちも
必要だと思います。

今回は「決めつけ」や
それに対する「曖昧さ」を
取り上げてみました。
これらは「何かを成した」から
手に入れられるものでもありません。
日々の習慣や意識、思いやりが
積み重なってみにえられるものだと思います・・・。

それではここまで
では また
おわり



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