「人は物語を作りたくなる」ーー。
『ポロポロ』の最後に収められている「大尾のこと」の中に、南京で見た映画の話が出てくる。米軍が見ているところにもぐりこんで見たというその映画は「ストーリィもよくわからなかった」とことわりを入れたうえで、こんな感じで紹介される。
大尾という同期兵との出会いから、その死について話している途中で、この映画の内容が唐突に挿入される。たぶん、意味はない。「よくわからなかった」と最初にことわっているのだから、この内容が正しいかどうかなんて、たぶん、どうでもいいことなのだろう。
大事なのは、「今、デッチアゲた」ということだ。「今」というのは、「大尾のこと」という短編を書いているまさにその時ということなのだろう。加藤が言うところの自分で自分の記憶を作ってしまうことへの抵抗感が分かりやすく出ている箇所だ。
引用にもあった「北川はぼくに」(「大尾のこと」よりも収録順としては前)のエピソードも引き合いに出しつつ、さらにこう続く。
物語に過剰な意味を持たせたくないとどれだけ思っても、小説は物語になってしまう。はじめとおわりがある。主人公がいて、会話や行動がある。
『ポロポロ』で言えば、語り手は常に「ぼく」だ。そして、「ぼく」の記憶は常に曖昧だ。まるで、中年のオバさんと縮小人間の映画のように。本当はどうだったのかは「よくわからない」し、「今、デッチアゲた」だけかもしれない。
わからない、おぼえていない、そうではないかもしれない、そんな述懐が何度も繰り返される。そう繰り返すことで、戦争という大きな物語に抵抗しているかのようにも読める。