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思い出の母の味

春だ 春だ

 毎年、春になると畑の土手や川沿いの道にフキノトウが出る。早く食べてと言わんばかりに花をつけたものや、つぼみのままで地面から半分顔を出しているものもある。母は料理が得意。特に山菜を使った料理は格別においしい。フキノトウの場合は細かく刻み、さっと湯を通し、麴みそ、みりん、酢、砂糖、塩で和え、フキ味噌を作って食卓に出してくれる。それをご飯に載せて食べると口いっぱいに春の香りが広がる。母の料理の思い出は数えきれないほどあるが、このフキ味噌には特別の忘れられない思い出がある。
 それは私が結婚した翌年の1月半ばのことだった。やっと子供が授かり、妊娠初期の検診で病院に行くと、医者から「お腹の子が風疹におかされているから、産むのを諦めるように」と言われた。正確には、風疹の抗体値が異常に高く妊娠初期に風疹にかかった可能性があり、生まれてくる子供に重度の障害が残る可能性が高いから出産は諦めたほうがいい、だった。仕事関係で数か月前に風疹にかかった人がいたのは事実だったが、わたしは中学のころすでにかかっている。あまりの突然のことで、目の前が真っ暗になった。両親、夫、姉は、諦めたほうがいいと言う。でも産みたい・・・・・・だけど・・・・・・・・。
 結局「産む」を選択する勇気がなく、まわりに促されるままに病院に行き二日かけて赤ちゃんを掻爬してしまった。二月七日だった。
 退院後しばらくは実家においてもらうことになった。産んであげられなかった子供への申し訳なさと身体に受けたダメージで起き上がることが出来ず、布団の中でただただなく毎日だった。五日過ぎ、一週間が過ぎ、早く嫁ぎ先に帰らなきゃいけないとわかってはいても、外どころか部屋から出ることができなかった。
 十日ほど過ぎ、ようやく起き上がると、母が散歩に行こうと言い出した。誘われるまま家を出て、二人で田んぼ道から川に沿って土手を歩いた。

 

 寝ている間に外はすっかり暖かくなっていた。傍らに咲いていた硬くて柔らかいネコヤナギの花を手に取って観ながら(春なんだな、冬は必ず終わるんだな、元気出さなきゃな)
 ・・・・こんな当たり前のことを考えていると前を歩いていた母が

「ほれ、フキントウが出とるに」「あぁ、こっちにも、あっちにも」
 と言った。見ると足元や土手の枯葉の中に、ポツポツとフキノトウが出ていた。
「冬来たりなば春遠からじ。今夜はフキ味噌作るかな」
 そう言って母は一つ二つ採って、エプロンのポケットに入れ歩き出した。わたしも、まねして同じように採ってはんてんのポケットに入れる。家に戻る頃には二人ともポケットいっぱいになっていた。

 その晩食べた久しぶりの母が作ったフキ味噌ご飯はいつものようにほろ苦く甘酸っぱかったが、とても優しい味だった。
 「春だ、春だ」と言いながら食べる母を見ていると、「早く元気になりなさい」という母のメッセージがフキノトウに込められているようで、胸が熱くなった。泣いて食べたのか笑って食べたのか、もう思い出せないけれど、ぜったいに元気になってちゃんと子どもを産もうと決心したことは忘れない。
 あれから30年、三人の娘に恵まれ幾度となくやってきた春には、かならず「フキ味噌」を食卓に出してきた。見よう見まねで覚えたフキ味噌、いまだ母の味には届いていないが娘たちにおいしいと言ってもらい継承していきたいと思っている。「春だ、春だを作ったよ」とわたしが言うと娘たちからは「へぇ~」とか「ふぅ~ん」とか「苦いね」など期待に反する言葉が返ってくる「フキノトウは母の味なんだよ」と心の中で言いながら味わい、あの時の母のやさしさを思い出し隠れてほろりと涙している。

 実家の裏手の土手は圃場整備で跡形もなくなってしまったが、かわりに嫁ぎ先の畑の土手にフキノトウが出るようになり、両手いっぱい抱えて母に渡すのが楽しみになっている。
「春だ、春だを採ってきたよ」
「ああ、ほんに春だ春だ」

 母八十八歳、わたし五十五歳、母もわたしも口には出さないが、つらかったあの春のことは忘れないし、それを乗り越え今があるってことを、この会話で確かめ合っている気がする。
フキノトウは母の味。
忘れられない春の味。


これは、5年前に募集された「思い出の母の味」をテーマにした体験記です