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「松御前の碑」のお話(新城)

新城市豊島の座頭崖に、かつて「松御前の碑」がありました。
松御前は熱田神宮大宮司の娘で今から千年ほど前藤原氏(北家)の藤原季兼に嫁ぎ新城(稲木)に来た人です。
息子(季範)が熱田大宮司を継ぎ、松御前は孫(清季)と一緒に新城で暮らしその生涯を終えました。
その松御前の碑が、豊島というところにあったのです。

高さは150センチ以上 大きな石の地座に立つ
建てられた時期はそれぞれ違います

稲木に残った藤原(千秋)清季は豊川のほとり千歳野に館を移します。現在の海倉橋(頭首工)付近です。この館は後に富永氏、さらに菅沼氏の館となり、小高い場所に野田城を築き移り住むまで続きました。

その館を見下ろせる座頭崖に松御前の碑が建てられたのは昭和五年、地元出身者で熱田神宮とゆかりの深い方が建てたそうです。中央に松御前の碑、左は松御前の歌碑、右は大槻盤渓の歌碑。
もともとは野田城ゆかりの墓の有ったお寺の脇にあったようですが、千郷西こども園の駐車場横に移されひっそりと建っていました。

令和3年、突然、この碑が、熱田神宮に移設されることになりました。

熱田神宮の大宮司が何年かぶりに千秋氏に戻ったのを機に、新城にある松御前の碑を引き取ることになったようです。
それに先立ち、お別れ会を有志で行いました。

紅白の幕、提灯、笹、灯篭、掛け軸、鐘、お神酒、清め塩、洗米、玉串、菖蒲の花

「松御前の碑を熱田神宮にお返しするということは、解釈によっては嫁いだ娘を実家に帰す事にもなってしまう。それはあなた様にとっては辛く悲しいことであると思いますが、熱田神宮で温かくお迎えしてくださるとのこと。松御前様には、ここ新城の豊川のほとり、城ヶ峰のふもと稲木で過ごした年月、そして現在に至るまでの900余年のことを、どうか誇りに思い胸を張ってお帰りください。熱田の森で、新城での出来事、つもる話をそちらの皆さんにしてあげてください」(祝詞)

熱田神宮

数か月後、移設された松御前に会いに行くことにしました。
25丁橋というところに碑がありました。

違和感なく鎮座する松御前の碑
宮司さんが案内してくれました

25丁橋というところは、松御前が幼いころ暮らしたお屋敷があった場所だそうで、近くに松の木があったため「お松様」と呼ばれていたとか。

榊を奉納しました

松御前の塚がある城ヶ峰の榊を奉納しました。嫁ぎ先からのお土産です。

松御前の子供季範は、娘由良姫を源義朝に嫁がせます。この由良姫が頼朝を産むのですが、由良姫には坊門姫という娘もありました。坊門姫は九条良経に嫁ぎ、その娘の全子は西園寺公経を産む。その息子「実氏」の娘「姞子」は後嵯峨天皇に嫁いでおり、さらにたどっていくと今上天皇につながってきます。
松御前様は頼朝の曾祖母であると同時に今上天皇のご先祖さまでもあるということでしょう。

令和6年現在、わずかな痕跡しかない松御前の塚のある城ヶ峰が千年の歴史をひっそりとひっそりと語っていると思うと心が騒いでならない・・・。

城ヶ峰・小城ヶ峰


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