神学/原罪とは何だったのか(自由意志がなければ愛たりえなかったこと)

※アウグスティヌス、トマス・アクイナスの自由意志や悪についての神学を継承発展させた新論である(まだ、以下の説を唱えた論者と論説、内容の展開は見たことがない2024年時点)/神学者さまに査読して引用してほしい


■原罪とは何だったのか(自由意志がなければ愛たりえなかったこと)



・神は完全であるのに、なぜ、アダムとイヴに、原罪を犯す”余地(自由意志)”を与えなければ、ならなかったのか
※原罪とは意味的に何なのかは、後に浮上させる

・逆に言えば、アダムとイヴが、原罪を犯す余地なく、人間に自由意志、を与えずに創造すればよかったのではないか、という疑問がある

・結論は、愛、を誕生させるためであった(人間が神を愛するために自由意志が必要だった、ということになる)

・では、初期条件で「神を愛する人間」を、創造すればよかったではないか

「神を愛する人間」を初期条件で創造することは、それは、「愛する」、にならずに、「洗脳や支配、つまり、プログラミング」、である(そのような即物的でバーチャルな存在=他者を創ったとて、神にとってそれは宇宙的な虚無感を深めるだけであろう)

・つまり、愛、は、プログラミング、植え付け、強制、できない、から、愛、たりうる(そうなると、神は、愛、を創造できなかった、ゆえに、神は神ではない、ということは言い得ない。現に、神は、自由意志を有するゆえに、人間が神を初期条件で愛さない余地がある、というように創造したことで、愛を、現に今、創造し続けていることになる)

・つまり、愛、は固定した状態系ではなく、常に今的で、現在的な、生命的動態(いきもの)であることが、言える

・ここまでで言えることは、原罪を犯す余地さえある、自由意志、をアダムとイヴに与えなければ、愛、が創造できないことになる、ということである。つまり、愛の必要条件は、自由意志、に基づく、ということである(それ以外の愛にみえるものは、洗脳や支配やプログラミング、である。つまり、”神の自作自演”、にしかならず、神がそのような人間を創造し、それに愛されたとしても、神は宇宙的孤独と虚無を深めるだけである)

・神は、人間を創造したが、同時に、愛、も創造しようとしたことになる。逆にいえば、神と人間の間に、愛、がなければ、人間は存在していないことになる。存在の根拠としての神と無関係(非愛)な人間、というのは、即、存在してないことになるので、人間ですらありえないことになる。つまり、神から創造されていない、無、であることになる。神と人間と愛、は、三者揃って、はじめて、人間、が創造されたことになる(どういうことかというと、全知全能の神は、愛という動機以外には、全てに劣るところの人間など創造する動機が一切ありえない、といえる)

・そのような、愛(非クリエイト的なビゲットによる)、を神が創造しようとしたこと、が、原罪、ということに実は、直結している


・原罪とは、アダムとイヴが、悲愛、だったことである。アダムとイヴが、神を愛さなかった、ことに尽きる(実は、これは、他者への悲愛であり、結論は、他者抹殺だったのである)

・アダムとイヴは、善悪の実、を端的に言って「神になる」ために食べたことは、間違いないだろう。その後、生命の樹の実、を食べると、神になる可能性すらあったのかもしれない

・「アダムとイヴが神になる」とは、どういうことなのか、から、原罪、という壮大な悲愛について、ひも解きたい

・事前に言いうるのは、「アダムとイヴが神になる」ことは、即、「神の抹殺(かつ自殺)」であったと完全に言いうるのである

・なぜなら、自分が神になってしまえば、他者としての神、などいらない、ということではないか。自分が全知全能の神になってしまえば、全知全能の神、など、一切不要、になるつまり、アダムとイヴが神になろうとしたことは、自覚はなかったとしても、神の抹殺と同じこと、他者としての神の抹殺だったのである

・だが、もし、アダムとイヴが、生命の樹の実まで、食べていたらどうなっていたのか。つまり、アダムとイヴが、神になっていたら、どうなっていたのか、を考えてみたい

まず、神、は完璧に、完全に、”一なるもの”、である。”神以外に神はありえない”これが、神の性質(唯一性)である

その”神以外に神はありえない”ところの、「神になる」ということは、神に同化し、神に帰入し、神自体に同化する、こと以外のなんらも意味しえないのである(それが、神の、唯一性、一なるもの、という性質である)

たとえば、まず神がいて、その創造されたところのアダムとイブが、神になったとしたら、結果的に、ふたりの神がそこに存在する、ということは”神以外に神はありえない”という神の性質(唯一性)からして、ありえないのである(それが神である)。必ず、一なるもの(一性)、に回収されるのである

つまり、アダムとイヴが「神になる」ということは、神に同化し、神に帰入し、神自体になる、こと以外は意味しない。結果、アダムとイヴが神になる(神に帰一する)ことは、アダムとイヴの、自己抹消なのである

・具体的には、そもそもこの宇宙には、神、以外には、なにもなかった(この言い方も喩えで、本当は、宇宙すらそこにはない。神お一人が、あっただけである)

・もし、アダムとイヴが神になっていたら、それは神への帰一であり、「神お一人以外には一切、何も存在しない原初風景」、にすべてが巻き戻るのである

こうなると、神はアダムとイヴをわざわざ創ったのである(その根源的な理由は後に述べる)。神に帰一したアダムとイヴは、さて、何をするのかというと、即、アダムとイヴを創造することになるだろう(なぜなら、それが神が当初において意志し行ったことであるから、神の行為であるからして、そこに間違いや不正はありえず、やはり、神はアダムとイヴを創造することになる)
※この時点で、多世界解釈を神学的には棄却することができる(アダムとイヴの歴史の一性)

・つまり、端的に言って、アダムとイヴが神になる、ということは、神への帰一しか意味し得ず、結果、神になったアダムとイヴは、神自身として、アダムとイヴを創ったということを、巻き戻して、リテイクすることにしかなりえない、のである(なぜなら、それが神の当初の意志であったため、神自身になったのなら、それを行うのは必然なのである)

・アダムとイヴが、神になることを、神により阻止されたこと、つまり、失楽園は、アダムとイヴが、自己喪失(消滅)してしまうことへの神の配慮だったのである

・この再帰構造に気が付かなかった、アダムとイヴは、たしかに、不完全な存在、である

・だが、その、不完全な存在、たるアダムとイヴを創ったのは、神なのである

・ここで、なぜ、アダムとイヴが、不完全な存在、に創られなければならなかったのか、ということは、他者、という問題に直結する。どうやら、神、は、神以外の存在、つまり、「他者」を求めたようなのである(事前にいうと、愛、というものを神は創造したゆえに、他者、が必要不可欠だった、と言いうる。愛とは、即、他己愛のことしか意味しないからである)

・さて、では、なぜ、アダムとイヴは、不完全、に創られなければならなかったのか。それは、完全なる神の他者があるとすれば、不完全な存在、以外にありえないからである(それが、完全なる存在、であれば、それは神への帰一しか意味せず、再帰構造に陥る。神自身になって不完全な存在を生んだことをリテイクするだけだろう)

・つまり、神にとっての「他者」とは必然的に、不完全な存在、以外にありえないのである。それ以外は、神にとっての「他者」ではなく「神自身」にしかなりえないからだ(神が、完全な存在を創造したら、それは神自身になってしまう、というトートロジーをそのまま実行するだけのことになってしまう/神の一性、唯一性)

・では、なぜ、神はそのような「他者」を求めたのか。不完全であるにも関わらず

・それは、神の創造のうちに、愛、というものが含まれていたからにほかならないだろう。神は愛である、といわれるように、神の創造には愛が含まれていたことになる。というより、神の創造自体が、愛、とほとんど一体化しているようなものに思える(実利的には、神にとって、人間などいなくても、損害は一切、何もないからだ。どのように考えても、愛、以外に創造の動機がないのである)

・1の話に戻るが、愛が、なければ、他者も不要であり、反対に、他者がいなければ、愛も誕生しえない。

・つまり、神にとっては、不完全でなければ他者は存在しえず、それゆえに不完全な他者を創造し、かつ、神と人間の間に愛がなければ、両者は完全なる無縁者であるゆえに、そもそも人間の側は存在しえないことになる(つまり、神は人間が不完全であっても完全に愛することができると思われる)

・つまり、神の意志は、神ではない、他者を創造し、神ではない他者との、愛、を誕生させることだったと思われる

なのに、アダムとイヴは、神になる(結果的には帰一以外にはありえないが)ことで、他者としての神、を抹殺(なきもの)にしようとしたことになるのである。これが、原罪、であり、神という他者を抹殺しようと試みた非愛こそが、糾弾されているのである(もちろん、抹殺などできない。神自身に帰一して、思い知り、アダムとイヴが、アダムとイヴとしてふたたび創造されるだけだろう)

・これが、自由意志という、原罪を犯す可能性を有して、アダムとイヴが創造された理由になるだろう。愛は自由意志に基づかなければ、洗脳か支配かプログラミングにしかならないので、自由意志が与えられて、かつ、不完全な存在として、アダムとイヴが創造されたことは、まさに、神の完全なる創造ゆえ、と言いうるのである


■原罪と愛が命令であっては愛ではありえないことの難儀さ



・では、アダムとイヴに、前もって、神は、「神を愛しなさい」と言っておけば、原罪を犯すに至ることを抑止できたのではないか、と窺われる

・だが、難儀なのは完全なる神が、「神を愛しなさい」と言ったとしたら、それは命令、支配、プログラミングにしかなりえず、途端に、愛ではなくなってしまうということである

・ゆえに、神は、当初においては、「神を愛しなさい」とは言えなかったことになる(命令化による悲愛を避けた

・そうなると、神は、アダムとイヴと、約束、をすることで、それを守るかいなかをみていたと思われるのである。つまり、食べてはいけない実、について、アダムとイブが、そそのかされても、食べない、という行為をすることが、アダムとイヴにそのとき唯一可能な、神への愛、の体現だったのである

・なぜかというと、実を食べて、神のようになってしまえば、もはや、神から罰されることもない(神と対等な存在だからだ)。それゆえに、アダムとイヴからしたら、実を食べてしまえば、こっちのものだ、とさえ言えたのである

・この、蛇(サタン)との、利害取引としては、食べて神のようになれば、罰されることもなく、神のようになれるという利があるわけである

・それでも、もし、アダムとイヴが、実を食べない、ということがありえたとしたら、その利を捨てて、神の他者性を認める、という純粋な、一切の利害取引のない、関係、つまり、神への愛、の体現なのである

だが、アダムとイヴにはそれができなかった。神のようになり、それゆえ神から罰されることなく……を選んだのである(まあ、おそらく、神のようになって神に帰一した果てに、神自身として、思い知り、アダムとイヴを再創造したのかもしれない)

・では、失楽園、とは、このことについての純粋な罰だったのだろうか

愛していないものと一緒に住み続けることは、地獄の苦しみである。おそらく、これである(だれでも、こういった経験はあるだろう)

・もはや、愛していないのに、自分より常に正しく、完全なるものと一緒に居続けることはアダムとイヴにとって、地獄、であり、神はそれを省みたのである

・だが、アダムとイヴは、死ぬようになった、とはどういうことなのだろうか

・神とは永遠のいのちであり、その永遠自体は、原初的には、神以外にはありえない。つまり、永遠を愛すること自体が、神を愛することだったともいえる。それは、愛の他者性に基づき、神を永遠に愛し続けること、だったのである

・そうなると、神(永遠自体)を愛していないのに、永遠に生き続けることは、地獄、にほかならないことになる(永遠に生きられたとしても、永遠自体たる神を愛していなければ、地獄である。永遠に生きられたとしても愛するものが不在であれば、地獄である)

・結果的に、アダムとイブは、神という他者を愛していなかったゆえに、神と一緒にいることは苦痛であり、失楽園せざるを得なかった、ということになる(それを神は、自分の責任として、追放、という言葉を自ら被って、離れさせてあげたのかもしれない)

・余談だが、産みの苦しみ、や、労働の辛さ、をアダムとイヴがするようになったことについては、自活、の苦しみとも言いうるかもしれない

・自活、することとは、それほど苦しいことである。かつては、神が代行していた、人を生む(人間の創造)ということや、人を養うということの、苦しみ、をアダムとイヴが、神から離れることで、自分でせざるを得なくなった、ということにおもう(逆に言えば、それほど、神を愛していなかった、本音では一緒にいたくなかったのかもしれない)

・垣間見えるのは、神は、完全なる自活者であり、相当に苦しみながら、あり続けているのだろう。人間は、神を阻害することで、自活者になってはみたが、これほど苦しいものなのである


・だが、神の子としてのイエス・キリストが失楽園したアダムとイヴの末裔の世界に派遣される頃になると、事情が異なってきた

・なぜなら、イエス・キリスト、「神を愛しなさい」と、おそらく、至上命題として、告げたのである

・「第一の掟は、これである。『…わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい(29~30節)』」

・これは、もはや、命令、であるのか?

・イエス・キリストは、聖書の、この時点、においては、神ご自身、とは認知されていなかった(聖書の後半で、はじめて仄めかされて、キリスト教の枠内で、神ご自身らしきことが示される)

・ゆえに、ぎりぎり、なのだが、神ご自身が、直接、「神を愛しなさい」と命令したことにはならない

ーーーー
メモ

・神を愛するためには、神から愛されていることを完全に理解する必要がある

・そのためには、人間の死や悪や不条理というものが、現にあることが、神の存在や愛することを人間に否定させる

・それゆえ、人間の死や悪や不条理が、原罪、という一点から生じたことを、まず仮説してみる

・なぜ、原罪が、生じたのか、ということのみを推理すればよいことになる

・おそらく、端的に、人間は神を愛したことが、まだ、ない、ということが伺われる

・"ほんとう"に永遠のいのちがあったときに、確実に永遠に"ともにある"のは、神、ということになる

・つまり人類史は、"神"、と、"ともにある"、ことの最中なのである

・実は! 人間は! まだ! "ともにある" を一度も達成したことがないのである!!!!!!!!!!   よく考えれば、意味がわからないし、体験質(クオリア)が、わからないし、少なくとも、一緒にいること、とは違うのかもしれない(一緒にいれば、逆に虐めや阻害で、スケープゴートなどがおこり、ともにある、はずなのに、ひとりぼっち、ということがおこる/ホモ・サケル)

・実は、"ともにある"のイデアを達成したときに、それは梵我一如であり、はじめて、神と顔と顔をあわせて、見つめ合うのかもしれない


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?