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『瞳をとじて』(2023)

本作のタイトル、また冒頭で流れるフリオの出演していた映画である『別れのまなざし』から「目/眼」という表象が観客にとって印象的に映るはずだ。
映画内でも文字通り、意味ありげな場面で瞳をとじることがあった。そこで、本作で瞳をとじることが意味することについてここでは考えたい。

フリオの忘却について

フリオの失踪事件によって彼が失ったものは以下の通りである。
・仕事(人気俳優)
・家族(父)
・名前
・記憶(過去)
彼は人気俳優で、誰かの父で、○○という名前で、過去にミゲルと収容所で一緒に過ごしていたなど、これらはフリオという人間を説明する諸要素である。社会的な、もしくは共同体的なものから与えられたものを自らの意思で放棄し、記憶喪失として流れた地で生活をする。つまり、自分を説明しうるもの一切を引き受けない結果としての記憶喪失であった。
このようなフリオの態度はミゲルの友人の「名前が何かにかこつけて与えられるのを嫌い、その場であだ名を名づけられることを望む」というセリフを想起する。

瞳をとじること

アナ(娘)がフリオに呼びかける時、「私はアナよ」と同じセリフを二度繰り返すが、二度目には瞳をとじて自らに語りかけるように言っていた。これはフリオに会う前のミゲルとの会話で、アナが「私が彼を父と思わなかったら?」と漏らすセリフに対してのアンサーであり、自らをフリオの娘だということの引き受け=応答であったと考えられる。
つまり、
1回目)フリオに対しての応答
「あなたは誰か」→「私はアナ(という名前)よ」
2回目)アナ自身への応答
「私は彼の娘なのか」→「私は(彼の娘である)アナよ」
というように、二度繰り返されるセリフは異なる呼びかけに対する応答である。

応答可能性

つまり、瞳をとじることが呼びかけに対しての応答であり、それは引き受けを意味するのだとすると、
ミゲルがフリオの記憶を呼び起こすために彼の映る映画をみせるラストシーンにおいてフリオが瞳をとじたのは、彼が「忘却したものを引き受ける」と応答したと考えることができる。

ミゲルの呼びかけに対する応答、もしくは映画の呼びかけに対する応答なのかもしれないが、そこには大きな苦悩、どうにもならないことに対する諦めのような感覚があったように思える。それは決して後ろ向きのものではなく、まさしく現実の引き受けのような小さな、力強い意志があったのではないか。フリオの失踪の理由について明かされることはないが、彼の失踪の理由となったであろう暗い過去と瞳をとじた後の彼にまなざしを向けざるをを得ない。



もうひとつの意味

瞳をとじることは他者への応答であり、引き受けを意味すると述べてきた。
しかし、私たち(観客)にとって「まなざし」とはなんだったのかという疑問が残る。
まなざすことは「見る=見られる」の関係であり、「見る=知る」であるならば、「見られる=知られる」こととなる。
自分の「まなざし」は自分自身ではみることができない。他者によってのみ自分の「まなざし」は捉えられ、専有される。こうした意味で、「まなざし」がはらむ他者性というのが理解できる。
スポットライトが当たるように、他者によってまなざされること=知られることを念頭に、①アナとフリオ②映画とフリオのシーンを考えてみると

①アナとフリオ
アナはフリオの前に立ち「まなざし」を向けていた。そして「私はアナよ」とフリオに告げるが、「まなざし」を向けると同時にアナはフリオによって「見られている」。その他者(フリオ)のまなざしの中に、「私は(フリオの娘である)アナ」であること、つまり自分自身についての避けられない真理を突き付けられる。この瞬間にアナは瞳をとじる=真理に向き合うことを避けるのである。

②映画とフリオ
同様に、フリオは自分が映る映画、自分が失踪した映画に「まなざされる」。そこには彼が忘却していたものが、「まなざし=他者によってみられる」ことで浮かび上がる真理として映る。そうしてフリオは瞳をとじる。

「まなざすこと」

なぜ瞳をとじるのか。
「まなざす」ことによって自分は「見られ=知られ」てしまう。他者に「見られた=知られた」ものは、他者に「まなざされること」によって、自分は「見る=知る」ことになってしまう。私たちが認めたくないこと、忘れたいことを「まなざし」が直面させるからだ。

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