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宗教観か…

フォロワーさんが宗教観について記されていました。
機智と示唆に富む文章がいつも面白く、つい今回も反復して拝読させていただきました。

私は、宗教に関して歴史的背景や人文学的な視点など文化として否定こそしませんが、祟りや霊感的な話題に達した段階で極めて冷めた感情になってしまいます。
病で大きな手術を受ける友人に御守りを買う、家族の幸せを願いに神社へ初詣に出向くといった感情はありますが、罰が当たるとか輪廻転生などの話を信じるような(恐れるような)気持ちはありません。

幻影や空想浪漫以上の現実があります

子供の頃から、目を閉じると想像一枚目の風景や景色が不随意に動き出すのが楽しみでした。
目を閉じてすぐに常に始まるのではなく、例えば直前の教室の様子をふっと浮かべると、皆の頭がくるくる回り出して各々花が開く。机が三次元的に向きをバラバラに変えて宙を舞い出し、教室の隅の穴に吸い込まれて…これが多次元宇宙論の裏付けのように深層記憶をほとばしらせながら、さまざまな非現実的な世界を繰り広げていきます。
授業中、担任の話に飽きるとそうした空想を楽しんでいました。
今でも、目を閉じれば同じように瞼の中の暗中世界の映像が開始されます。

イスラエルの歌のように、川が逆流することも不思議ではなく。

こういう話をすると、通常変人扱いされた挙句に病人扱いに至ります。

そうか。
宗教と何が違うのだろうか。

見えないものへの畏れ(恐れ)より、ずっとマシじゃないか。
そう思いながら、時に家庭の現実を避けて思い願い念じ瞼の中の世界でも反復する物語の世界に逃げ続けると、不思議と希望がやや形を変えてではありますが、実現することがあるのです。
中高生の頃ジャズが好きで、アルトサックスを吹く自分の気持ち良い非現実の世界が二十歳に叶ったり。
自転車とオートバイの世界もそう。
仕事も。

だから、人生でこれはもうダメだと思うような出来事に出会っても、瞼の中の世界に逃避して物語を繰り返していくうちに好転する…そういう拠り所が自分にあります。

重力は皆に公平ですね。

儒教的な価値観は相容れず、天国も地獄もないし前世も何もありません。
世間話としての話題の接ぎ穂までのもの。
現実を超える厳しさも無いし、この年齢になってももたらされる親子関係の苦しい感情を少しも減じてくれない宗教観に、何の救いがあるものか。
宗教はむしろ苦しみと悩みを助長するように感じてしまうのです。
現実はもっと複雑で能動的で、観念的に非ず。


お墓も戒名も要りませんので、焼却プラントへ散骨していただければ吉です(笑)。

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