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もやもや。

この前お友達と寝っ転がりながらおしゃべりをした。

小学生の頃の話をしてた。

幼稚園からいっしょだから、
大まかな思い出はいっしょ。

そのなかでも、え!そこも一緒だったん?!
と2人で盛り上がったお話。


昼休みは自由時間。
自由だから、自由に過ごす。
ごく当たり前のことのはず。

なのに、晴れていたら外で遊べと先生は言う。

わたしは本を読むのが好きで、
図書室の雰囲気も大好きだった。
それは友達も同じだったよう。

机のかたちも可愛くて、心地よい静けさと日差し。
とても美しく、穏やかで。
その空気に包まれゆっくり読みたい本を読むことが
学校嫌いのわたしにとって唯一と言っていいほど、
気持ちが穏やかになる時だった。

雨の音を聴きながらの読書もすきだけど
晴れには晴れにしかない良さがある。

そして、なぜ自由なはずの時間を
したくもないことに費やさないといけないのか。

自由なんだから自由に過ごさせてよ。

そんな気持ちでいっぱいだったが、
大人が苦手で怖かったわたしに
先生に反論するなど考えられず、
言われるがまま本を閉じ外に出た。

図書委員は図書室にいるけど、
誰も来なければ昼休みにいる意味って何だろうとも思っていた。

その気持ちが友達と同じだったことを知り、
変な盛り上がり方をした。

話を戻すが、
外に出たとて何をするわけでもなく、
石に座って、葉っぱを取って顔を作ったり
シロツメクサで花冠を作ったり、
他の子に呼ばれて一輪車乗りの練習に付き合ったり
それなりに過ごしていたように思う。

とにかく大人数でわいわい過ごすのが苦手だった。

また週に一回、昼休みに学級遊びがあった。
だいたい、ドッジボールかキックベース。
したくなかった。
でも、したくない気持ちを押し込めてしていた。

ある日、本当に参加したくなくて
保健室で過ごしていた。
そのあと教室に戻ると、何人かに責められた。
すごく嫌な気持ちとやるせなさに包まれた。

なぜ自由と言いながら自由に過ごさせてくれないのか。
わたしは間違っていないはずなのに。
みんなと一緒じゃないと責められる。
言い返せるような度胸もなく、
先生にもどう話しても、理解してくれないだろうという気持ちもあり、あきらめしかなかった。

今思い出すともうひとつきっかけがあるが、
争いも責められることも嫌で、嫌われたくなくて
自分の気持ちを抑えて誰にでもいい顔をしてしまうようになった。

他人軸。

だからこその皺寄せが今なのかなと思ったり。

自分を無視して自分を蔑ろにした結果、
一番大切な自分が壊れてしまった。

それでやっと気づけた。
こうまでならないと気づけなかった。

ニーチェが言うように全ての事象は
自分が欲したと運命を受け入れることで
打開策が見えることもあるのだろう。

まだ打開策も何もないが
言葉だけではない自分を大切にする真の大切さ。
自分が自分の一番の味方でありたいと思えるようになったのは、成長と捉えてもいいのかな。

また積極的ニヒリストとして
人生は無意味だからこそ自由に生きたらいいのだと。
ニーチェの言葉に感謝である。

結局、死に向かい皆歩むのだから、
好きなことを思い切りした方が
今生に悔いはないだろう。

いつどうなるかわからない。
不透明な時間を過ごし、体はどうしても老いていく。
だから、したいことはしたい時に。

やるせなさや、諦めが多く、
精神的束縛に疲れ、矛盾を感じていた。

もうそんなに我慢しなくていい。
自分のために生きてほしい。


余談。
2、3年おられた保健室の先生は、
保健室で蚕さんを飼っていた。
桑の葉を食べる蚕さんの可愛さ、音の心地よさ。
ずっとずっと見ていられたし、
蚕さんのサラサラした体。
とても愛おしかったのを覚えている。

また保健室に居場所を作ってくれた先生には感謝しかない。

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