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複雑決定素・虚軸の世界その2

考えれば考えるほど、『思考の沼』に沈む。
人の意見を聴いたり、自問自答を繰り返したり、気の向くままに散歩してみたり……
思考の沼にはまれば、人は常識世界の感覚を失っていく。自分の軸がなくなる。
真実の軸が何処にあるのか探すために、自分の軸を壊す。けれど一度軸を失ってしまった人間は、次に着地するのが怖くなる。
型破りな人間は、ある種、正しい型にさえはまるのが苦しくなる。すると今度は、こんな理屈を使いだす。
『正しいことなど、この世にはない』
つまり軸のない世界に生きている自分を正当化するために、正しいことの存在を否定してしまうのだ。
ところがその理論を扱う多くの人間は、その発言自体が矛盾していることに気が付かない。または矛盾を認めようとしない。
おかしくて笑い転げそうだが、そんな矛盾さえ認められない人間はそもそも、自分の軸を手放したり、常識を疑ったりが、できていないのだ。
帰納的に考えると、元来結論を出すことなど不可能だ。結局は裏の搔き合い。だいそれたコペルニクス的転回を迎えることは、はっきり言って期待できない。
自己矛盾を解消するとき、この世界を観測するとき、情緒など、感覚などが、傾く、バイアスがかかる。世界は対義語の存在する言葉で語れるような、つまりは二元論あるいは多元論に持ち込める存在であるはずがなく、世界は言葉・概念として存在しない。
言葉・概念として存在しないものを確かめる術など、人類にはいまだない。
概念内のものを人類の領域と呼び、概念外のものを神の領域と呼ぶ。
考えることは所詮、人類の領域でしか使えない不便なもので、神の領域を探るにはまた別の方法が必要になる。
それがかつては宗教だった。神託、理屈では説明できない超常現象。そしてそれを信じること。
しかし今では理屈で説明できないことが日常から消えていった。宗教へ理屈での解説を望むのは、一種の病気とも言える。
残念ながら思考の沼から脱する方法は、現代を生きていく上では事実上不可能になりつつある。
幻想から解き放たれたとき、人は生きる意味を喪失する。
また現代の思考体系も、情緒主義も、宗教になり得るのだ。いくら科学的に幸せになる方法が解明されたところで、自己投資をしたり社会貢献をしたところで、動じない・楽しく生きる感性を磨いたところで、確実な生きる意味・幸福を見出したことはない。
そして『諦観者』へなるのもまた一つの生き方だとは思うが、結局はまだ諦観するほどに無駄な世界だという証拠も挙がらない、キ◯ガイじみた世界である。
『迷う』か『諦める』か。
行動とは思考とは精神とは人生とは、ただそれだけである。
言葉が足りなかったが迷うも諦めるもまた、二元論的な主張ではなく、肉体と精神で乖離することさえ厭わない。『遊ぶ』などというものは一種それに相当する性質もある。

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