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カンボジア懐古記

今日は私の初海外の話を書いておこうと思う。これは私の懐古史。

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高校生の時、初めて行った海外がカンボジアのバッタンバンという村だった。なぜ行こうと思ったか、と言われると動機なんてなくて、たまたま市の広報誌で見かけたに過ぎない。「海外に行く」なんてお金持ちしか出来ないと思われているような地方で生きる私にとって、県からの補助金が出るその募集がなんとなく魅力的に感じた。その頃の私にとっての"カンボジア"は「貧しい」「発展途上」「ボランティア」なイメージしか無くて、進路を決める上でも何か活きるんじゃないかななんて邪道なことを考えていた気がする。

17歳の夏、5年前の夏、私の世界を広げたのは、この邪道で単純な少しの好奇心。

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カンボジアに到着したのは夜だった。

飛行機から窓の外を見た私は、眠気なんて吹き飛ぶくらい驚いたのを覚えている。

「綺麗」

思わず声に出た。私のイメージしていた発展途上の国々は、暗くて、湿っぽくて、汚かった。でも窓の外にはそんなものを微塵も感じさせない、キラキラした宝石の絨毯のような世界が広がっていた。

「本やネットで見る世界なんて所詮作り手の切り取った世界でしかないんだ」

まだ地上に降り立つ前から、私は私の世界の狭さを思い知ることになったのだ。

飛行機で降り立った首都から大型のバスで2時間ほど、貧しい家から大きな家までさまざまな建物が乱立するこのバッタンバンでの2週間は、私の価値観を大きく変えるものとなった。

滞在はホームステイ。50歳くらいのお母さんが1人、同じくらいの歳の女の子が1人、そして出稼ぎに出ている男の子が1人。お父さんの存在について、特に触れなかったのは何かあったのだろうか。


出会って1時間。早速気付いた。

ことば、通じねえ。

英語も分かってもらえないし、クメール語(カンボジアでの公用語)もポルポト政権の影響で識字率が著しく低く、ほぼ分からない初見の単語を雰囲気で話さなければ伝わらないような状況。唯一英語が通じるホストブラザーは私の滞在期間中2日しか会うことができないような出稼ぎ生活。

お風呂はお水だし台所はお外だし、夜はどこの子か分からないわんこが布団に飛び乗ってくるし、初日のインパクトは凄まじかった。
(その後他の派遣生と話して分かったが、それでも私のステイ先はかなり裕福な家庭だったようだ)


ただ何故だろう。

全く困らなかった。

滞在期間中ずっと、本当に楽しかった。

急にやってきた言語も通じない小娘に対するカンボジアの人たちのホスピタリティの素晴らしさたるや。


私が言葉がわからない事を承知で、村の人たちはガンガン話しかけてくる。私が困っているっぽい仕草を見せる前に日本人が来たと聞きつけた近所の優しい人々が「何が分からないの!!!」と食い気味でヘルプしてくる。

ホストマザーとの通訳をずっとやってくれるお兄さんもいた。

田舎のおばあちゃんの家かのように、行く先行く先でとりあえず大量のカンボジアスイーツやフランスパンをもらう。
(カンボジアはフランス植民地だった時代の名残でフランスパンめっちゃ売ってる)

2つしか年の変わらないホストシスターはわざわざ英語ができる小学生のちびっ子をどっかから捕まえてきて、一晩中通訳させながらいろんなことを教えてくれた。そして、日本について興味津々にいろんなことを聞いてきた。
(その節はそのちびっ子ちゃんにはご迷惑をお掛けしたがなんかそれさえも村ぐるみで許しちゃうくらいのホスピタリティ)

バイクに乗せて夜の屋台にも連れて行ってくれたし、タピオカ粉のうどんの作り方も教えてもらった。


言葉の壁を超えた温かさが、そこにはあった


でもこんな話よく聞くし、定番だ。

アジアとかアフリカとか南米とか、いわゆる「新興国(発展途上国)」に行って、いろんな人や出来事に触れて、価値観変わって、お金とか物じゃない豊かさを知りました!!

みたいな。

私もそう思ったし、日本ってあんなにモノも環境も整ってるのにどうして生きづらいんだろうと人並みなことを考えたりもした。

人の幸せや豊かさなんて私たちが決めるものでもなければ、誰かに評価されるものでもないが、それでも、モノも環境も日本より整っているとは言えないカンボジアの人たちは、せかせかと何かに追われて生きる日本人の何倍も幸せそうだった。


ただ、時を経て今改めて考えると、決してそこに着地してはいけないのかなと思ってしまう。

教育を受けられなかった親は子供に教育を受けさせることの意味を理解していないし、実際私のホストブラザーも学校へは行かず働きに出ていた。

学校に行きたいと思うかどうか、酷な質問をする私に対して、ホストブラザーはこう答えた。

行って意味があるなら行きたいけど、
学校はお金にならないから。

働かなければ生活ができない。

でも働いてしまえば勉強ができない。

ポルポト政権によって教育を否定された大人は、僻地に行けば行くほど「教育なんていらない」と子どもに引き継いで行く。

その現実はあまりにも当たり前に存在していた。

もちろんそうじゃない大人もたくさんいるが、負のサイクルの中にいる当事者を目の当たりにして、私が負のサイクルだと思っていたその「教育無価値論の継承」が、その人たちがお金を稼ぎ、今を生きる上で本当に"負"なのか考えさせられた。

教育を受けること、若くして働くこと、そしてモノがあることや街が栄えていること。今までは漠然と、私の頭の中でそれら全てが良いこと・悪いことに区分されていた。しかし、その良いこと・悪いことは私の主観であって、私の思う「悪いこと」の中を生きる人たちにとっては、それは決して「悪いこと」なんかではない。むしろ、それがその人たちの"生活"としてそこに存在している。

私の頭の中の「良いこと」や、"こうあるべき"で凝り固まった偏見は、エゴの押し付けにしか過ぎないのではないだろうか。今をゆったりと生きている人に教育や街の整備を「良いこと」と教えることは、本当にその人たちに豊かさをもたらすのだろうか。いや、そもそも豊かさを偉そうに上から目線で指導してもたらす必要なんてあるのか。真の豊かさとは一体なんなのだろう。

17歳の私には、ただそこに在るものを受け止めるだけで精一杯だった。


あれから5年が経って、私は22歳になった。

幸せですか?と聞かれたら、幸せです!と答えてしまえるような、比較的楽しい人生を歩んでいるつもりだが、ふとテレビやネットを覗くと、人が死ぬニュースや、心を病んで薬物に走るようなニュースばかりが溢れている。

画面の奥の誰かのことを想って、涙を流す日もある。

もう連絡を取ることもなくなってしまった5年前のカンボジアで生きていた人々は、今どうやって生きているのだろう。私が見たあの景色は、今もそこに在るのだろうか。


本当の平和を、私はまだ知らない。

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