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現代アートと宿泊したからこと見えてきたもの。

私が東京でやる遊びの1つに、現代アートのギャラリー巡りをすることがある。新しい展示がスタートしたら、事前の下調べはあまりせず、ギャラリーに立ち寄るのが好きだった。銀座は特にお気に入りの場所で、あの小さなエリアに、いくつも好きなギャラリーがあり、数ヶ月に一度、まとめて展示会によく行っていた。私はたくさんの作品に触れ、色々な刺激を一気に受けるのが大好きだったのだ。

ただし、そんな生活も2020年はコロナの影響で、突然難しくなってしまった。外出自粛が要請される中で、ギャラリー巡りをすることも自然と遠のいてしまった。

そんな生活が半年以上も続いた頃に、友人から新潟への旅行のお誘いがきた。少し迷ったものの、コロナが落ち着きを見せ始めた時期だったのと、新潟には私のお気に入りのアーティストの作品「光の館」があったので、誘いに乗ることにした。

「光の館」は、その名の通り、「光」を題材としたジェームズ・タレルのアート作品を楽しむことができる建物だ。それは、建物まるごとが、アート作品となっており、1日に2組限定で泊まることができる、宿泊機能も備わっている珍しい施設でもある。タレルの作品は世界中にあるものの、予約すれば誰でも宿泊ができるのは、ここだけだ。今年はアートに触れ合う機会が極端に少なかったので、迷わずこの宿に宿泊することに決めた。

この宿は、昼間は、宿泊者以外にも解放されている。私は数年前に、昼間に見学に訪れたことがあるので、どんなアート作品が展示されているのかは、事前に知っていた。シンプルな線が美しい日本家屋の玄関を上がると、短い廊下があり、その廊下の右手側に、現代的に洗練された畳の間が広がっている。その畳の間が、メインのアート作品を見学する空間となっており、畳に寝転がって天井を見ると、天井の真ん中に、真四角に切り取られた空間が見えてくる。そして、開閉可能な動く屋根をスライドさせると、その空間から空を見上げることができる作りになっている。

初めてこの作品を見た時は、まずは屋根が動くことに驚く。そして、そこからポッカリと現れる空に、心が奪われる。真四角に切り取られた枠組みの中で、一刻一刻と表情を変えていく空の姿は、変化する抽象画のようにも見え、いつも頭上にあった自然の美しさに気づかせてくれる。

ここまでが、昼間に、この施設に訪れた人が体験できる内容となっている。それに対して、タレルは、宿泊者には、昼間の作品経験とは異なる体験ができるように「光のプログラム」を別途用意している。プログラムは、マジックアワーと呼ばれる、空の色が急速に変化する日没のタイミングに開始され、自然の空とタレルが用意した人工光とが混じり合い、それによって生み出される光の化学反応を楽しむためのショーだ。昼間に見た作品に、人工的な光が投影されるだけのプログラムなので、私は夕方のショーは、都会の夜を彩るイルミネーション程度の効果しか作品に影響を与えないと思い込んでいた。が、見事に期待は裏切られた。このプログラムを体験した後には、同じ作品に対して、全く異なる感想を持ってしまう程であった。

昼間の作品は、普段とは異なる切り口で空を見せることで、身近にある美しいものを再認識させる体験だったのに対して、夕方のプログラムは、空を、これまで見たことがないものに変質させ、神秘的と言ってもいいような感覚を引き起こした。空と自然の光という、地球が誕生してからずっと存在しているシンプルな素材に、人工的な光を加えるだけで、見ているものが目の前で姿を変え続ける現象に、プログラムが上演している間中は驚かされぱなしだった。私たちの周りにいつもあったはずの「空」や「光」が、タレルの作品を通すと、全く違う姿を見せてくれるのだ。


その不思議な体験をさせてくれる「光のプログラム」だが、仕掛け自体はすごくシンプルに作られている。天井の四隅から、ネオンカラー調の光が、天井いっぱいに放射されるだけのものである。赤、ピンク、紫、緑、青と、ゆっくりと光の色が変わるだけである。


プログラムがスタートして数分は、単に空色とネオンカラーの組み合わせにしか見えなかった天井が、じーと眺め続けていくうちに、空が空ではなく、別のものにクルクルと姿を変えていくように見えてくる。ある時は、空が折り紙の紙のように、フラットなものにしか見えなかったり、ある時は、アクリル板のようにツルッとした質感に表面が変わったりする。また、別の時は、空が天井より下に突き出して見えたりする。さらに驚きなのは、空の質感が変わったり、奥行きが逆転する現象が起きていると同時に、空の色も見たことがないものに変化する。空襲で大火事になった時のことを連想させるような、真っ赤に燃える空だと思ったら、その次には、見たことがない真緑色に空が色を変えたりする。

目の前でくるくるとその姿を変えていく空を見つめ続けていると、だんだんと夢と現実の境目がわからなくなる感覚に放り出されてしまう。1時間以上も続くこのプログラムを畳の上で寝転がって見ていることも手伝って、時折、うつらうつらと眠気が襲ってきてまぶたが重くなる。でも、不思議なことに寝たのかどうかの記憶がない。プログラムの途中で少し寝たような気もするし、意識と無意識の間を行ったり来たりしながら起きていたような気もする。寝たかどうかを自覚することができないのは、もしかしたら目を瞑っている瞬間だけが慣れ親しんだ暗闇で、目を開けた時に見えている変化が、通常は夢でしか起きないような不思議な現象だからなのかもしれない。現実と夢の世界が逆転する。

そんな中、ゆっくりと、でも確実に空の姿が変わっていく様子を眺めていると、脳が認知処理をできないせいか、思考がゆっくりと停止して感覚だけが残ってくるのがわかる。それはどこか、メディテーションで求められる無心の状態に近い感じだった。考えることをやめて、ただその場にいるという状態である。数学や科学の知識が深い人なら、起きている現象を理解するために、論理的に脳を動かすことができるのかもしれないが、そんな手がかりを何一つ持っていない私は、起きていることを、ただただ、見つめることだけしかできなかった。


夕方の作品体験には、昼間に見学するだけではわからなかった、作品の別の姿があった。都会ではない、田舎のゆっくりと流れる時間の中で、その時間と呼応するかのように作品をじっくり眺めることでしか知り得ない体験だ。

今年は外出を控えていたからこそ、どの作品を見に行くかは、以前よりずっと吟味するようになった。そして、それだからこそ、昔から知っていたはずのタレルの作品にも、違った形でまた出会えたのかもしれない。そう思うと、不自由が多い年だったが、良い変化を促してくれた年ともいえそうだ。


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