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成田正人『なぜこれまでからこれからがわかるのか デイヴィッド・ヒュームと哲学する』(青土社)の読書メモ③:第七章から第八章まで(終わり)

キーワード:未来向きの帰納、経験への的中、未来の経験、「グルー」、帰納の形而上学、道徳的運(状況の運と結果の運)、「どうして、これまでがそうであると、これからもそうであるのか?」、認識論的な懐疑論と存在論的な懐疑論、超越論的な自然(本性)主義


「経験への的中」の問題

ここから著者は、これまで見てきたヒュームの「帰納の問題」を「過去・現在・未来」の時制を含む知覚の向きの問題、あるいは「帰納の向き」の問題として細かく見直します。帰納的な信念には「想像上の基準」(174p)とは別に「経験への的中」の問題があると言われます(187p)。どういうことでしょうか。まずおさらいしてみます。伝統的な「帰納の問題」は、素朴な問いとしては「どうして帰納は正しいのか」という「一般化の正当性」の問題でした。しかしヒュームの「自然(本性)主義」あるいは「懐疑論的な解決」以降は、「どうして帰納は正しいのか」という問いを「どのような帰納が正しいのか」という問いによって退けます。それにより個別的な帰納は「一般化の正当性」を問われる必要がないことが分かりました。「どうして帰納は正しいのか」という問いには理性的に正面からは答えらませんが「どのような帰納が正しいのか」(という帰納の正誤)については正面から答えられるからです(183p)。もちろんその際に、一般的な帰納が「理想的な基準」として想像されているのなら、まさに個別的な帰納の正誤を判別できるかもしれません(逆に一般的な帰納に不備があれば、個別的な帰納は正当化できないことになります)。こうした意味で「想像上の基準」の問題は伝統的な「帰納の問題」を引き継いでいます。この理想的な「想像上の基準」には曖昧で不安定なところがありますが、ただそれだけで手放す理由にはなりません(それは前に見た確率論的な「確信の程度」の問題にも言えることですね)。さらにまた、ヒュームの言う「現実の存在」(の印象)を思い出してみるなら、私たちは、今ここに現前する印象(の経験)も手放すことは決してありません。それゆえに(最初の問題に戻りますが)、帰納的な信念には「想像上の基準」(への対応)とは独立に「(印象の)経験への的中」という問題があることになります(187p)。要するに、前者が当たっても、後者が外れることがあるし、後者が当たっても、前者が外れることがあるのです。驚くべきことに、この「経験への的中」という問題は、伝統的な「帰納の問題」ではないと言われます(188p)。著者は、この問題を「どうして帰納は外れるのか」(あるいは「どうして帰納は当たるのか」)と、素朴な問いに言い換えています。それは厄介なことに、認識論的な定義の問題ではありませんし、また、一般化の正当性についての「懐疑論的な解決」の一つでもありません。「経験への的中」は一般的な帰納には問われず、むしろ個別的な帰納にこそ問われる、と考えられます(著者が言うように、一般的な経験というものがないからです。なぜ一般的な経験はないのでしょう?)。またここで、理想的な「想像上の基準」(への対応)と印象の「経験への的中」という問題では、前者は「想像される信念」に着目され、後者では「経験される印象」に着目されるという違いがある、と指摘されます。そして、前者の「想像上の基準」(への対応)をめぐる問題は、どこまでも「観念」の問題であるということから、次のような謎が立てられることがあると例示します。

グッドマンの「グルー(green+blue)の謎」

この謎は、グッドマンが提示したパラドックスです。「ある時刻t以前に発掘されたすべてのエメラルドがグリーンである」ならば「すべてのエメラルドはグリーンである」と私たちは帰納しますが、ここで「グルー」という造語をつくってグッドマンは前提を言い換えます。「ある時刻t以前に発掘されたすべてのエメラルドがグリーンであり、それ以外なら、ブルーであったとき(すなわち「グルー」であるとき)」、私たちが帰納するのは「すべてのエメラルドはグルー」なのか、それとも「すべてのエメラルドはグリーン」なのか、どちらなのでしょうか。著者の言う通り、ここでは「帰納されるのはどのような信念なのか?」が問われています。正直どう理解していいか微妙なところです。それはどこまでも個別的に帰納される観念(信念)であって「ここには、印象の出る幕はまったくありません」(192p)と言われます。たとえば「ある時刻t以後に発掘される「次の一回」のエメラルド」は、グリーンでしょうか、それともグルーでしょうか。ここで「想像上の基準」の問題だけに頼るなら、帰納的な「印象」の問題ではありませんが、ここにはそうした基準との対応といった「正誤」の問題ではなく、(経験の)印象の「当否」の問題(188p-193p)があるのではないか、と著者は言います。そしてこう仮定するのです。「もしかしたら、もっとも自然(本性)的な帰納(的な信念)は、そもそも印象の経験への的中を狙っているのではないでしょうか。」(193p)

「経験への的中」はなぜ「未来向きの帰納」のみの問題と言えるのか

すでに見たように、私たちの帰納的な信念には「想像上の基準」との対応といった(証明や定義による)正誤の問題とは独立に、印象への当たり外れ(当否)が突きつけられています。著者は、印象への的中という問題においては、過去と未来のあいだに決定的な違いがあると言います。なぜなら、たとえば、私たちは10日後の天気の信念を帰納するなら、10日後の天気の印象への的中を問うことができますが、10日前の天気の信念を帰納しても、10日前の天気の印象への的中を問うことができません。10日前の天気の印象(の経験)はもう「呼び戻すことができない」からです。私たちが想起できる過去は、記憶の観念であって、過去の印象ではないのです。未来についても、私たちが想像できるのは、未来の印象の観念(未来についての信念)であって、未来の印象そのものではありません(194-196p)。過去と未来は、印象の(経験)への的中の仕方によってのみ、区別されるのかもしれません。著者はこうまとめます。「それゆえに、過去についての帰納(的な信念)には、印象への的中は問われません。なぜなら、過去の印象は(もう)経験できないからです。しかし、未来についての帰納(的な信念)には、印象の的中が問われます。なぜなら、未来の印象は(まだ)経験できるからです。したがって、いわば未来向きの帰納(的な信念)にのみ、印象の経験への的中は問われるのです。」(197p)。しかし、私たちは未来を必ず含む知覚を持っていないのに、なぜ未来というものが分かるのでしょうか。著者が言う通り、そもそも「時間の向きは本当に「帰納の問題」になるのでしょうか」(207p)。ヒュームは『人間本性論』第二巻で、時間的・空間的に近くのものと遠くのものを捉える知覚を比べて、想像に及ぼす作用について考えました。たとえば、時間的にも空間的にも、自分に近いものに私は関心を持ち、遠いものほど「運命と偶然」に委ねる、という見方です。著者は、この二つの知覚は本当に比べられるものなのか、と疑問を差し挟みますが、ヒュームに倣うなら、私たちが(時間的に)現在から未来へ進むことは、自然(本性)的であるかもしれない、と言います。そして「未来の印象だけが経験できる」(210p)ということが正しいなら「未来向きの帰納」のみに「印象の経験への的中」が問われることもまた「帰納の問題」である、と第七章を締めくくります。確かに「未来向きの帰納」が「経験への的中」を狙わないことはありえません。

「帰納の問題」を巡る認識論的な問題のまとめ

ここからは第八章(終章)に入ります。今までに見てきた「帰納の問題」は大きく二つに分けられるようです。「一般化の正当性」の問題と「未来の経験」の問題です。後者の問題は伝統的な認識論からすれば、著者の異端的解釈かもしれません。二つの違いについては、これまでに三つの仕方で言い表せることができました。
①一般化と一回性:帰納には、一般化についての信念を導く「一般的な帰納」と別の一回についての信念を導く「個別的な帰納」があります。「一般化の正当性」を問われるのは「一般的な帰納」のみです。未来の「経験への的中」を問われるのが「個別的な帰納」なのは、経験そのものが個別的であるからです。そうなると、論理的な観点からは「個別的な帰納」は「一般的な帰納」の一例でしかないために「一般化の正当性」が「帰納の問題」と呼ばれます。(213p)
②印象と観念:「一般化の正当性」を問われるのは「観念」の問題だけです。明らかに「観念」だけが一般性を全うし、「印象」は一般性を決して全うしません。「一般化の正当性」を問うには「どのような観念が帰納されるか」と問うだけで十分であり「どのような印象が経験されるか」と問う必要はありません。しかし未来向きの帰納だけは「どのような印象が経験されるか」を問わなければなりません。その(未来向きの)信念だけには、経験への的中いかんによって当たり外れがあるからです。(214p)
③基準との正誤と経験への当否:「一般化の正当性」の合理的な根拠は正面から(理性的には)答えることができません。そこでは「懐疑論的な解決」が有用ということでした。なぜなら、問題の立て方を変えて「どうして帰納は正しいのか」という証明の問題ではなく「どのような帰納が正しいのか」という記述的な正しさの問題にすれば、答えられるかもしれないからです。そうして理想的な「基準」が反省と修正を経て作られれば、帰納的な信念に「真理値」が与えられるかもしれません。しかし、帰納がたとえ理想的な基準とどれだけ正しく対応しても、未来の経験には的中しない可能性は残ります。つまり、基準との正誤という問題とは独立に、(未来の)経験への当否という問題があるのです。過去の経験には経験への当否の問題は成り立ちませんが、未来向きの帰納だけにはそうした問題が成り立つのです。要約すれば「どうして帰納は外れるのか(あるいは当たるのか)」という問いです。この問いは伝統的な「帰納の問題」には含まれません。なぜなら「一般化の正当性」こそ伝統的な「帰納の問題」としては充分だからです。しかし(未来の)経験への的中の問題は、明らかに原因の印象から結果の信念への帰納でもあるので、それは「自然(本性)」的な帰納にも問われることになります。「一般化の正当性」が論理的な観点から「帰納の問題」とされるなら「未来の経験」は自然(本性)的な観点から「帰納の問題」であると言えるかもしれません。(215-217p)

なぜこれまでから、これからがわかるのか

未来の経験は、私たちにはコントロールできません。未来はまだ経験されていないからです。このコントロールできなさからするに、未来の経験は運に任される問題かもしれません。しかしまた、私たちは未来だけでなく過去の経験もコントロールできるわけではありません。このことは「道徳的運」の観点から考えられるかもしれません。ツィマーマンによれば道徳上の運は「状況の運」(これまでの人格形成の本質も含む状況)と「結果の運」(意思の決定、行為の作為・不作為から生まれる結果)に分けることができます。なので、過去の経験は「状況の運」に、未来の経験は「結果の運」に分けられるかもしれません。私たちはそれが生き生きと感じられる現実であるかどうかをもとに何を信じるのかを自然に決定しますが、行為はこうした帰納的な信念からの影響を免れ得ないという点で「結果の運」つまりは未来の帰納の問題と言えるでしょう。では、信念や行為がコントロールできるなら、その行為の結果もコントロールできないのでしょうか。どうして帰納的な信念が未来の経験に的中するかどうかは、結局は運まかせなのでしょうか。畢竟それは、なにが私たちにコントロールできていないせいで運まかせなのでしょうか。その問題は、私たちが結果の「印象」を左右できないという事実にありそうです(224p)。「観念」を入れ換えられるのは、それが「空想」であるからであって「信念」であるからではないように、現前する結果の印象から帰納的に導かれた「信念」は「空想」のように私たちのコントロール下にはありません。今ここでの「印象」の現前よりは、むしろ未来の経験が今ここにないからこそ結果の運は生じるのかもしれません。だから未来向きの帰納(あるいは行為)からしか「結果の運」の問題は生じないのでしょう。しかし「結果の運なんて本当にあるのでしょうか」(226p)と著者は言います。もし仮に未来の経験以外のすべての経験が私たちのコントロール下にあるとしても、なぜ未来向きに帰納された信念の内容と「同じ」印象の経験の内容が未来で経験されると言えるのでしょうか。著者は「ここに帰納を巡る未来の問題の分水嶺がある」(226p)と言います。続いて、驚くべきことが言われていますが、要約してしまうと失われる部分のほうが大きいので、やめておきます。227頁から232頁で言われていることはかなり重要な箇所ですので、繰り返し読まれるべきと思います。

どうして未来の帰納を巡る問題(「なぜ帰納は外れるのか」)を形而上学的な問いとして考えるのか

「帰納の問題」は「一般化の正当性」という問題と「未来の経験への的中」という問題に大別できます。前者を認識論的な問い(「どのような帰納が正しいのか?」)として捉えるなら、前者に認識論的な答えを与えることができるでしょう。しかし後者は、形而上学的な問い(「なぜ帰納は外れるのか?」)として捉えなければなりません。そうであるなら、帰納の形而上学の問題に答える必要があります。とはいえ、なぜ形而上学として考えなければならないのでしょうか。哲学者としてのヒュームの顔には、心理学的・認識論的な顔と、形而上学的・存在論的な顔があります。より根本的には、「印象」と「観念」の区別という心理学的な手法を用いた、形而上学的な存在論についての問いがあるかもしれません(235p~236p)。そうして著者は「未来の印象を、認識論の問題ではなく、形而上学の問題にしていきましょう」と進めます。ところで経験の「印象」は私たちの外からやってきます。なぜなら「印象」の原因は「知られない」(236p)からです。精神のうちに印象が存在しているのではなく、この世界(あるいは自然)そのものに印象が存在している、とすると、帰納が外れるのは、私たちのせいではなく、この世界のせいであると言えるかもしれません。「かくして、「どうして帰納は外れるのか?」の問いには、形而上学的に答えることができる。すなわち、それは、世界の印象の在り方が、あるいは、自然の印象の歩み方が、(なぜか)変わってしまったからだ、と。」(238p)

メイヤスー的な問題と成田的な問題の差異

クァンタン・メイヤスーは、自然の斉一性をめぐる問題において、認識論的な解釈をするだけで満足してしまうポパーを批判しつつ、自然の斉一性に対する存在論的な(全面的な?)懐疑論を志向しています。そこで著者の成田は、彼の思弁的実在論と自らの「帰納の問題」との差異について語っています。メイヤスーの言う「非理由律」(今までの自然の歩みがそうであったからと言って、これからもそうである理由は存在しない)に、成田はヒュームを通して同調しますが、しかし、メイヤスーの考える「思弁的に可能な実在」(244p)は、(一般的な)観念の問題にしか見えない、と言います。成田が問題にしているのは、あくまで「未来の印象そのもの」だけです。メイヤスーが自然の不斉一性(非理由な自然の歩みの変化)を考える際に論じる「隔時性」は、人類の誕生前と消滅以後にのっぺりと適用される問題、すなわち「思弁的に可能な実在がどうあるのか」という問題ですが、成田の論じたい「帰納の問題」は、未来向きの帰納(的な信念)からのみ論じられる「経時的な存在の印象」(246p)がどうなるか、という問題です。自然の歩みが理由なしに変わりうることは、成田にとって過去と未来に満遍なく適用できる問題ではなく、未来の印象そのものだけに関わる問題なのです。ゆえに成田は、印象も観念も、私たちの精神のうちから解き放ち、この世界そのものに埋め込むことで、ヒュームとともに「帰納の形而上学」を語ろうとするのです。(以降、246pからは、類型的な懐疑論のモデルケースとともに成田の「帰納の問題」がそのなかでどう位置づけられるのか、そして超越論的に観念を条件づける印象の成立の謎――第三章の後半以来の謎――について追って考察されますが、これも要約すると失われるものが大きいので、やめておきます。)

おわりに

ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。当初の目的としては、読解の助力になれば良いと考えてこの読書メモを公開したのですが、私のつたない要約によって、本書の哲学的な部分が消滅してしまっていると思います(すみません)。それでも、まだ読んでいない方には、ぜひ自分で手に取って本書を読んでくれたら、と思います。