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土井善晴になりたいという提言。

こんにちは。いきなりですが、「土井善晴先生になりたいなぁ。」と思ったことはありませんか?
私は、あります。
なぜか。おそらく、「好き」「尊敬」「憧れ」とか、そういった言葉では形容し難い・あるいは、それらすべての感情を包括する表現として、その対象に「なりたくなる」のだと思う。これは、特別な話ではないと思っています。例えば、好きなアーティストの影響で髪色を真似てみたり、憧れの映画スターの言い回しを真似てみたり。「好き」だの、なんだの、そういった感情を凌駕してしまったとき、人は知らずのうち、その対象になりたがるのだと思うのですが、いかがでしょうか。
「好きな対象になりたがる論」は、さて置いて、なぜこうも土井善晴先生になりたいのか。正直答えはないものの、土井善晴先生になりたいぞ!という熱い思いがスパークしてしまったが故、筆を走らせています。(正確にはキーボードを打っている。)

私の一汁一菜。

まず、土井善晴先生になりたいな。と思ったきっかけから書き記していこうと思います。そのきっかけも非常にシンプルで、土井善晴先生から、「一汁一菜でよいという提案」という提案を受けてから、私の中で「土井善晴」という四つの言葉が深く心に刻まれたことを覚えています。そして、意識せず自分の「好き」を辿って手繰り寄せていると、「土井善晴」という、どーんと大きな存在が目の前に現れる訳でございます。もっと具体的にいうと、「素敵だなぁ。」と思う場所には必ず土井善晴先生の著書が鎮座している。その度に、もう、何度でも土井先生からの提案を受け入れたいと思ってしまう。
次に、これは本質的な理由ではないが、「土」から始まって「晴」で終わるお名前。こんなにも自然と調和した最高・素敵なお名前に出会ったことはありません。もう、「一汁一菜でよいという提案」をすべく、この世へ生を享けられたのではないか、とあらぬ想像をしてしまいます。

私の一汁一菜②

かくして、私は「土井善晴先生になりたいなぁ。」という思いを抱いている訳ですが、これは一朝一夕で達成し得る目標ではなく、日進月歩、一生をかけて体現していくべき状態だと思っています。過去、007のジェームズ・ボンドに憧れて、「ジェームズ・ボンドのようになりたいなぁ。」と思っていた訳ですが、「ーになりたいなぁ。」と「ーのようになりたいなぁ。」は、「なりたい対象」への解像度に雲泥の差があるような気がしてならないのです。なるための覚悟云々の前に、圧倒的にジェームズ・ボンドがしている「こと」を許容することができない。やはり、国の諜報員として、人を暗殺せねばならぬ人生というのは、想像を絶するというか、想像すらできないわけで、そうすると私は本気で「ジェームズ・ボンドになりたい。」という思いまでには至らず、「ジェームズ・ボンドのようになりたいなぁ。」レベルで止まってしまうのである。ジェームズ・ボンドには大変申し訳ないが、そういうことです。
その点、土井善晴先生の語る、食生活における本質的な美意識というものは、大変恐縮ながら私にも少しばかりの水脈があるのではなかろうか。だから、私は土井善晴先生になりたいし、なれるかもしれないなぁ。と大層なことを妄想しながら、今日もせっせとお味噌汁とごはんを食べているわけでございます。
本当に、人は「なりたいなぁ。」と思ったときが、そのときで、いつでも何かになれるし、「なりたくないなぁ。」と思ったら、ならなくていいと思うんです。
そういったことを、生活芸術の観点から、料理という普遍的な手段でやさしく教えてくださる土井善晴先生に、私はなりたい。

終わり。
(※一部敬称略)


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