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『ブッダという男』を読んで

出版妨害などの様々なゴタゴタがあったことが、話題になった、『ブッダという男』を読み終えた為、要点整理と感想文を書こうと思います。



現代の価値観を用いてブッダを“善人”とする危険性

著者は、仏教の開祖であるブッダが現代的な価値観(戦争反対、階級の否定、男女平等など)を持つ人物であったとする説に否定的です。

そもそも、古代や中世の仏教徒は仏典(仏教に関する本)を批判的に読む、という意識が希薄でした。仏典は暗唱されるものであり、書かれている文章の意味の取り方も厳格に規定されており、意義を唱えることは禁忌だったそうです。

しかし今の時代は、仏典を批判的に読むことができますし、現代的な価値観で読み解くことすら許されています。しかし、それにも弊害があります。

現代に生きる我々には、仏典を批判的に読み、伝統的な読解法を否定して、そこから新たな真意を見いだす自由が許されている。むしろ、そのような読解こそが推奨されている。しかし、そうであっても、批判的に仏典を読むことはきわめて困難な作業である。先入観を持たず虚心坦懐に読もうと心がけても、知らず知らずのうちに自らの願いをテキストのなかに読み込んでしまう。

pp.23-24

ブッダに現代的な善人像を当てはめてしまうことは、「歴史のブッダ」を見えなくさせてしまいます。さらには仏教の真の先駆性、つまり当時のインドにおいて、仏教のなにが革新的であったのかすら覆い隠してしまう、と著者は主張します。

「天上天下唯我独尊」の本当の意味

現代人が仏典の中に自分の願望を読み込んでしまう典型例が、ブッダが生まれた直後に呟いたとされる「天上天下唯我独尊」という言葉(誕生偈)です。

言葉通りに読み取れば、これは「世界において私だけが尊い」という意味になり、現代的な価値観からすれば傲慢もいいところです。ブッダが現代的な善人であるとするのであれば、今を生きる仏教徒にとって、これは非常に都合の悪いことになります。

ブッダの権威失墜を避ける為に、この言葉の“現代的解釈”が仏教界全体で行われています。

この誕生偈を、「この世で自分こそが尊い」ではなく、「すべてが尊い」の意味で読もうとする動きは、仏教学者の個人レベル(たとえば中村元)だけでなく、浄土宗や真宗大谷派、浄土真宗本願寺派などの伝統教団の出版物にも確認され、すでに日本仏教界では〝公式見解〟に近い扱いを受けている。

p161

しかし、著者は天上天下唯我独尊を「すべてが尊い」と解釈することに否定的です。漢訳に対応するパーリ語原典を確認しても、文字通りこれは「私は世間で最も優れた者である」という意味でしかないそうです。そして、ブッダは初期仏典のなかで度々自画自賛をしているそうです(『長部』三経「アンバッタ経」など)。

また、「ブッダがそのように傲慢なわけがない。この言葉はブッダ亡き後、彼を神格化させたい仏典編集者の創作である」と考える人もいます。このような考えは、仏典から神話的記述を取り除き、人間としてのブッダを解き明かそうとする研究のなかで頻繁に見られるそうです。しかし、

だが、これらの研究はいずれも、仏典に説かれていない事態を想定してでも、現代的な価値観に合致した人間ブッダを構想してしまうという一種の神格化を犯してしまっている。  初期仏典を素直に読み、歴史的文脈を考慮するならば、ブッダが「この世で自分こそが尊い」と宣言することは当然なのである。

p.25

と、現代的価値観に照らし合わせて都合の悪い言葉は創作であるとすることも、“ブッダの神格化”に他ならないと著者は述べます。

これについて著者は、仏教に関心のある読み手はブッダに対する敬愛の念があるために、極端な批判的読解を、知らず知らずのうちに避けてしまう傾向があると述べます。どうしてもブッダの言葉について「自分にとって有意義であるに違いない」と善意の解釈をしてしまうのです。

著者は、「(現代の価値観からみれば)傲慢なブッダ」を否定しません。なぜなら、現代の常識と、はるか昔の常識は異なるからです。古代において信仰の対象になるということは、現代からすれば傲慢ともいえる絶対性と超越性があるからであり、だからこそ、それまでのインドを変えるまでになったのだと筆者は述べます。

そもそも、仏教において事実に基づかない謙虚さは、という煩悩が起こすものだそうです。ブッダはすべての煩悩を断じています。つまり、仏典のなかで「私より優れた人がいる」「私と同等の人がいる」などと自らを卑下することはありえないのです。

ブッダを疑う

ブッダは(現代的な意味で)平和主義者であり、生まれによる差別を認めない平等主義者であったと考える研究者がいます。また別の研究者によれば、ブッダの教えには(先進的な)男女平等の考えがあるそうです。

そのようなブッダへの評価に著者は疑問を呈します。それは本当に正当なものなのであろうか、また仮に正当なものであったとして、本当にそれらはブッダの先駆性だったのだろうか、と。

ブッダは平和主義者であったのか?

確かにブッダは殺傷を禁じており、戦争の無意味さを説いてはいますが、それは現代的価値観とはかけ離れているそうです。

例えば、ブッダの弟子の一人であるアングリマーラは過去に大量殺人を犯しましたが、ブッダのもとで修行に励むことにより、現世において悟りをひらくことができました。さらに、その後、自分が殺した者の親族に対して説法するという、現代の価値観からすれば、厚顔無恥ともいえる行為をしたことが仏典には記されています。

しかし、そもそも初期仏典において絶対的な悪、つまり来世に地獄に堕ちることが避けられない悪というのは、

①決定的な邪見( =仏道から外れる極端な見解を持つこと)

②無間罪( =父・母・悟った人を殺すこと、僧団を分裂させること、ブッダの体から出血させること)

の二つだけであるそうです。つまり、赤の他人を大量に殺害した“だけ”のアングリマーラが、修行の末に悟りをひらくことができたのは、初期仏典の教えからしても当然のことなのです(彼は何の報いも受けなかったわけではなく、被害者の遺族に石を投げられるなどして大怪我はしています)。  

さらに、仏教でいう不殺生とは「殺さない」と誓う心がけこそが重要であり、その状態を常に維持し続けなければいけない、という意味ではないそうです。

次に戦争ですが、初期仏典において戦争の無益さを説く教えはあっても、王に対して戦争そのものを止めようとした教えはないそうです。それどころか、侵略戦争をしようとする王に対してブッダが助言与えてしまう初期仏典もあります。

ブッダが戦争そのものを止めなかった理由について著者は、

①古代インドにおいて、侵略戦争は武士階級に課せられた神聖な生き方として認められていた。

②業報輪廻の世界において戦争の惨禍は避けられないものと信じられていた。

の二つを挙げています。

上記のブッダの死生観を受け入れがたい人もいるかもしれません。しかし、「ブッダは現代人ではないのだ」と著者は述べます。

ブッダは階級差別を否定したのか?

インドに今も根強く残るカースト制度、つまり階級差別は、バラモン教ヴェーダ聖典が根拠になっています。古代インドでは、このバラモン教が一大勢力を誇り、人々の行動規範を定めていました。

カースト制(階級制)が厳しく定めたれていた古代インドにおいて、人々は、
・バラモン(司祭)
・クシャトリア(王族、軍人)
・ヴァイシャ(平民)
・シュードラ(隷属民)
・ダリット(不可触民)
に分けられて、厳しく生き方を規定されていました。さらに生まれによって、上記のいずれかに属するかが決まり、誕生後にこれを変更することはできないとされていました。悟りをひらくことができるとされたのは上位三階級だけで、それより下の階級にはヴェーダを学ぶことすら許されていませんでした。そして司祭階級であるバラモンの地位は絶対的だったそうです。

そのような厳しい階級制度があった古代インドにおいて、ブッダは、隷民、さらには不可触民の出家を認め、彼らも悟りを得ることが可能であると説いているのです。

しかし、だからといってブッダが、人間平等論を唱えた現代的な価値観をもった人物であると考えるのは早計であると著者は述べます。

初期仏典には、カースト否定論や人間平等論を真っ向から否定する記述があり、さらにブッダは、武士階級こそが最上であると何度も認めているそうです。つまり、初期仏典の中には、階級制度の批判と肯定の矛盾する記述が両方あるのです。

ここで重要なのは、初期仏典にあるカースト批判は、あくまでも当時の最上位階級であるバラモンに向けられている点だと著者は述べます。つまり、だれでも悟りをひらくことができるとすることで、当時の最上位階級であるバラモンを否定し、その絶対性を相対化する、という狙いがあったというのです。

ブッダは男女平等を説いたか?

1990年代に、フェミニスト達から「仏教には性差別的な体質がある」と批判を受けた仏教学者や宗派などは、そのような批判に対して、何らかの対応をすることが求められました。

しかし、「ブッダその人が女性差別をしていた」という結論をだした仏教学者はほとんど見られないそうです。その理由について、「ブッダは(現代的な)男女平等主義者であるに違いない」という先入観に基づいて、初期仏典を善意解釈したためであると著者は述べます。

しかし、初期仏典には、ブッダが女性を蔑視している資料が複数確認されるそうです。

世の支配権が勢力である。所有物のうちで最上のものが女人である。怒りが世の刀錆である。盗賊が世の垢濁である。 (『相応部』一章八品七経)女は怒りやすい。女は嫉妬深い。女は物惜しみをする。女は愚痴である。 (『増支部』四集八〇経)世の女たちは誠に不実である。女たちには際限というものがない。すべてを喰らい尽くす火のように、執著し、傲慢だ。女たちを捨てて、私は出家しよう。遠離して修行するために。 (『ジャータカ』六一話)

pp.79-80

このような発言は、女性に対してのみ向けられていて、男性を蔑視するような発言は、初期仏典のなかに存在しないそうです。したがって(現代的な価値観からすれば)初期仏典におけるブッダは明確に女性差別者である、と著者は述べます。

しかし、ブッダが生きていた古代インドの価値観では、このような女性軽視的な男女観は当たり前であったそうです。ブッダは、確かに女性でも悟ることができると説いてはいますが、それは現代的な意味での男女平等を意味するのでは決してない、と著者は主張するのです。

まとめ

初期仏典の中には確かに、殺傷の否定や戦争の無意味さ、そして被差別階級や女性でも悟りをひらくことができると書かれています。しかし、それは現代的な意味での平和主義や平等主義では決してなく、あくまでも古代インドの価値観が根底にありました。

さらに、仏教のカースト批判(司祭階級であるバラモン批判)は沙門宗教に共通する思想性の一つであったそうです。沙門宗教とは、バラモン教の伝統を否定する宗派の修行者たちの総称であり、そのなかで仏教とジャイナ教だけが現代まで残っています。そして、「隷民や女性も悟りを得る可能性があるという」いう主張は、同時期のジャイナ教も述べているそうです。

つまり当時のインド思想において、上記のような主張は仏教独自の先駆的なものでは決してなかったのです。

仏教は何が先駆的だったのか?

カースト批判、そして被差別階級や女性にも出家を認めることが仏教独自の考えではないとすると、仏教の何が、当時のインドにおいて先駆的だったのでしょうか?

著者は以下のように主張します。

ブッダは、無から仏教を発明したわけではない。当時のインド諸宗教の前提を受け継ぎ、それを批判し乗り越えるかたちで仏教は生まれた。

p.114

そして、「輪廻説と無我説の見事な調和。この発見こそがブッダの偉大な先駆性なのである」と著者は主張します。

ブッダは輪廻転生も業も否定していない

「輪廻転生」とは、命あるものが何度も転生し、人だけでなく動物なども含めた生類として生まれ変わることをいいます。「業」は“行為”を意味し、人はその業の働きによって過去から現代へ、そして未来へと生まれ変わる(輪廻転生)というのが古代インド哲学の考え方でした。

現代の常識や科学知識からすれば、上記の輪廻転生や業を完全に信じることは難しいでしょう。その為、明治以降の仏教学者達は、初期仏典の研究を通して「ブッダは業と輪廻転生を否定していた可能性が高い」と主張することとなりました。つまり、自分たちの理想である“絵空事を否定する現代人ブッダ”を初期仏典の中に見出そうとしたのです。

しかし、2500年前に生きたブッダが現代人と同じ価値観のはずがない、と著者は再三述べます。そもそも、ブッダが輪廻転生を否定したという記述など、初期仏典のどこを探しても存在しないそうです。

無記への誤解

ブッダが輪廻転生を否定したという根拠に「無記」があります。無記とは、ブッダが他の諸宗派からの形而上学的な質問に答えなかったことをいいます。形而上とは実体のない原理のことです。

初期仏典に書かれている形而上学的質問には、この世界は不変か否か、霊魂の有無、如来(悟りをひらいたもの)は死後に生存するのか、などがあります。

これらの質問について、ブッダは沈黙を守った(無記)そうです。これを根拠に、「ブッダは業や輪廻転生のような形而上的なものを否定したのだ」と主張する研究者が多いのですが、これは無記の意味を取り違えていると著者は述べます。

無記とは、「形而上学的な問題について沈黙を守った」というものではなく、「異教徒によって間違った立てられ方をした質問に対して、ブッダは回答しなかった」というだけのものである。無記が現れる初期仏典においては、「異教徒が投げかけた質問に対しブッダは沈黙をもって対応し、その後、無我などの教えを説く」という流れが基本であることを考慮すべきである。

p.58

そして、なぜブッダは直接質問に答えなかったのか?それは、異教徒の質問はその質問自体が間違っている(縁起や無我を理解していない)為に、それに対して、「有る」「無い」で答えてしまうと、質問者が勘違いしてしまう恐れがあったからだと著者は述べます。

仏教における「業、輪廻、解脱」の解釈

先に書いたように、仏教誕生以前の古代インドではバラモン教が圧倒的勢力を誇っていました。この宗教では、生命の内には恒久不滅である個の根源(アートマン)があり、宇宙には恒久不滅である全体の根源(ブラフマン)があると信じられており、現世で善業を積むことで死後に天界に再生(生天)することが求められていました。

しかし、紀元前8世紀頃から、バラモン教の聖典であるヴェーダが整理・加筆されたこと(ウパニシャッド)により、業や輪廻の理論ができました。それにより、個の根源であるアートマンが天界に再生したとしても、そこで再び死を迎えて、再び地上に生まれ変わってしまう、という繰り返しを、永遠と続けてしまうのではないか?という不安が生まれました。その為、アートマンとブラフマンが同一であると悟る(梵我一如)ことによる天界での不死(輪廻からの解脱)を目指すことがバラモン教の最終目標となりました。

ブッダは、ウパニシャッドの業や輪廻転生、そして解脱を受け入れながらも、独自の解釈をしました。

ブラフマンを認めながらも、それは恒久不滅ではなく、輪廻の枠内にある天界のひとつに過ぎないとしたのです。また人の内面にある根源(自己同一性)であり、輪廻をする際の主体となるはずのアートマンは実在しないとしたのです。

ブッダの革新性、“無我と縁起の調和”

ブッダは、人間存在を構成する要素を5つに分けました(五蘊 )。

・色(物体)
・受 (感受)
・想 (表象)
・行 (意志)
・識 (認識)

以上の5つから人は構成され、そしてその5つすべてが無常、つまり、いつまでも一定のままではいないことから、恒久不滅の存在であるアートマンは見出されないとしました。これが無我説です。


ただし、ブッダは唯物論者ではないと著者はいいます。輪廻や業を認めているからです。しかし、輪廻転生する際に、主体となるはずのアートマンの存在は否定しています。ここで登場するのが縁起です。

縁起とは「原因によって生じること」を意味する。つまり、過去の個体存在(因)が現在の個体存在(果)を生み出し、現在の個体存在(因)が未来の個体存在(果)を生み出す──そのような無常なる自己が、因果の連鎖によって、延々と個体存在を再生産し続けていくことが輪廻である。したがって、輪廻説と無我説は調和しており、そこに矛盾はない。

pp.56-57

この考えにより、輪廻と無我を調和させることに成功させたブッダは、また、道徳を否定することもありませんでした。ブッダは、感受作用(受)や意思的作用(行)などの精神的要素も人を構成していると説き、無我を説きながらも業報輪廻のなかに個体存在を位置づけることに成功しました。これは他には見られない、ブッダの創見であると著者は述べます。

また、初期仏典ではこの縁起は十二支縁起として説かれています。これは、
①無明
②行
③識
④名色
⑤六処
⑥触
⑦受
⑧愛
⑨取
➉有
⑪生
⑫老死
となっていて、業と輪廻を当然の前提として成り立っているそうです(切り離すことはできない)。つまり、①無明(無知)を原因として②行(意思)が生まれ…と因果により輪廻してしていき最終的に⑫老死(死の苦しみ)を味わうこととなります。

ブッダは十二支縁起により無名(無知)が輪廻の根本原因であると突き止めました。これは順観とされていますが、輪廻の苦しみを終わらせる道筋として、仏教独自の考え方である逆観があります。

逆観とは、無明には煩悩が付随しており、この煩悩を断じることで輪廻の苦しみから脱却することができるというブッダの発見です。ちなみに、インド思想一般の考え方ではあくまでも業(行い)が輪廻の直接原因です。しかし、ブッダは煩悩を断ずれば、業を積むことが無くなりさらに、過去の業までもが不活性化すると説きました。これについては、

業 =田、識 =種子、無明・渇愛 =湿潤という関係が説かれる。つまり、種子が芽を吹くためには田に蒔かれるだけでは不十分であり、湿潤という環境も揃わなければならないのと同じように、個体存在が来世に再生するためには業があるだけでは不十分であり、煩悩という条件も揃っていなければならない。裏を返せば、干上がった田で種子が芽吹かないのと同じように、いくら業が残っていても煩悩さえ断てば来世は生まれず、それこそが解脱である、というのである。

p.149

とのことで、ブッダは、業ではなく煩悩さえ断てば輪廻の苦しみは生まれない、この構造こそが「縁起」であると説きました。

輪廻の苦しみを終わらせるためには、無知(無明)をはじめとする煩悩を断じなければならないという主張は、(バラモン教やジャイナ教などの沙門宗教含め)他宗教には見られないインド史上におけるブッダの創見であると著者は主張するのです。

この本を読んでの感想

我々現代人の傲慢さ 

仏教関連の本を読むと、確かに、「ブッダがいかに現代的な価値観を先取りしていたか、そして科学的であったか」という趣旨の文が散見されます。それは一見、ブッダを称賛しているように見受けられます。

しかし、本書を読んだ後に、そのことについてよくよく考えると、それは現代的価値観の枠組みの中にブッダという人物を無理やり押し込めてしまっているのてはないか?と思うようになりました。

さらには、現代的価値観に照らし合わせて「ブッダは当時のインド社会においてこんなに現代的であったから偉いのだ」とすることは、つまるところ、それは現代の価値観こそが1番尊いのだという驕りでしかなく、仏教やブッダを、知らず知らずのうちに上から目線で評価していることに他ならないのではないでしょうか?

仏教はパワフルでスリリングである

もう一つ、本書を読んで思ったこととして、仏教は非常にパワフルでスリリングだということです。

ブッダは、当時のインド社会において絶対的な地位にあった、祭司階級であるバラモンを批判し、彼らの執り行う祭祀に依存しなくとも、自らの教えに従い修行すれば、誰でも悟りを得ることができると説きました。

ブッダは現代的な水準での「平和主義者」や「平等主義者」ではなかった、と上で紹介しました。しかし、考えを変えるとそれは、現代的な価値観は必ずしも“悟り”に必要ではないのではないか?と思うのです。

我々現代人は「平和主義」「身分など関係ない」「ジェンダー平等」などの価値観を内面化しています。それが絶対的に正しいと思っているからこそ、仏教学者達はそれらの価値観において仏典を再解釈する必要に迫られています。

しかし…

瞑想を通して個体存在や現象世界を観察し、一切皆苦(現象世界のすべては苦しみである)、諸行無常(現象世界を構成する諸要素は因果関係をもって変化し続ける)、諸法無我(一切の存在のうち恒常不変なる自己原理に相当するものはない)と認識することこそが悟りの知恵であり、これによって煩悩が断たれて輪廻が終極するのである。

pp.156-157

以上のような、輪廻と無我の見事な調和により導き出された三法印こそが、仏教の真の革新性だとすれば、現代的な価値観すら相対化されてしまうのではないかと思うのです。

古代インドにおいてバラモンを、そして宇宙の根源たるブラフマンまでもを相対化したように、現代社会において、絶対的に正しいと思われている価値観までもを相対化するパワーを仏教は秘めているのではないか?と私は思います。そして、それが非常にスリリングにも感じるのです。

最後に

様々な困難がありながら本を出版され、ブッダ、そして仏教について新しい知見を与えてくださった、著者である清水俊史氏に深く感謝申し上げます。


最後までお読みいただきありがとうございます。




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