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合唱音楽と私

「合唱一筋!」と私のことを形容する人がいる。
確かにそうかもしれない。が、しっくりこないというか、そういう風に見られたくないと思う自分が、確かにいる。

「合唱が好き!」と人が言うとき、その実は何なんだろうと思うときがある。歌うことが好き、音楽が好き、誰かと一緒にいることが好き、団が好き、アフターの飲み会が好き。人それぞれ色々あるんだと思うし、どれもその人にとっての正解なんだと思う。では、私は?

先日、気の置けない友人と横浜を散策し、夜遅くまでカフェに入り浸り日々の雑感をぶつけ合っていた。気づけば私は、自分の合唱音楽観や芸術観について語っていた。
気付かぬうちにそのことについて話す内容ってのは、その人の根っこみたいなところに刻まれていることなんだと思う。ただ、いざ喋ってみると露呈するのは、それはそれは、なんと自分の考えや思いがあやふやでふわふわしているかってこと。
もう少ししっかりとした根っこが欲しいな~などと思い、文字にすることで自分の思いを整理整頓するつもりで、この記事を書きはじめている。果たしてこの試みは成功するのか。

最近思うのは、あるものを選択することの偶然性についてだ。何かを選んだり何かを好きになったりすることは偶然の産物で、「自分の意志」なんてものは幻想じゃないかと思うときがある。

そんなわけで、私が合唱音楽を好きになったのも、たまたま小学校にコーラス部があったから、たまたまそれを続けるコースが中学以降に用意されていたから、たまたま学びを深める環境を享受できたから、だと思っている(人はときにそれを運命と呼ぶのかもしれない)。そんな風にして合唱を続けてきたのは事実で傍から見ると確かに「合唱一筋」に見えるかもしれないが、私だって合唱以外の人生も送ってきたはず。浪人もしたし、留年も重ねたし、音楽じゃない分野での就職活動をしたこともあるし、飛行機に乗り遅れたことも4度ある。

そんな人生の中で私はどういう人間になろうとしているのだろう。私の輪郭や目標はどこにあるのだろう。

私の輪郭や目標を語る上でのキーワードを3つと言われれば、今日のところは「周縁」「余白」「協働」を挙げるだろうか。いずれにせよ抽象的なポエムしか吐き出せないが、思っていることを垂れ流してみようと思う。

「周縁」
中心ではなく周縁、定義の中ではなく境界線が揺れ動くあたりに興味がある。まだ知らない世界線を見たい、知りたい、聞きたい。そんな好奇心や野次馬根性がある。なんなら自らがその境界線になって境目を溶かす人になってみたいと思う。

「余白」
余白がないと私は生きていけないような気がしている。もっと言うと、人類には無駄な余白が必要だと思っている。効率や必要十分などという言葉は時に私の敵だ。「周縁」ほど「余白」としての価値が高いようにも思う。

「協働」
きれいなスローガンや頭ごなしの理屈で片付けるのではなく、手足頭を動かす実践の中で他者と何かをつかみたいと思う。「深みに行きたいなら一人で行け、遠くへ行きたいならみんなで行け」というが、私は深みにも遠く(=「周縁」)にも行ってみたい。そのためには、誰かはわからない、たまたま出会う仲間とのとっさの協働が必要だと思う。

こんなことをぼんやりと考えながら生きていて、その実現のための手段として(たまたま)合唱音楽や芸術を利用しようとしているのだと思う。

合唱を通じて境界を曖昧にすることができると思っているし(周縁)、合唱は生活の余剰そのものだと思っているし(余白)、合唱ではゆるやかな連帯が求められると思っている(協働)。
「合唱」を「芸術」に置き換えてもいい。合唱と芸術の粒度の違いは私はあまり気にしていない(気にしたくない)。

結局、合唱音楽とそれにまつわる実践の中で私が手に入れようとしているものは、私の人生で大切にしたいもの……なんだと思う。

「合唱音楽と私」というタイトルで書いてきたが、私自身の価値観や世界観、人生に対するまなざしの話を避けては通れなかった。
まぁ、そういうことなんだと思う。私は人生の向き合い方を合唱に仮託しようとしているんだと思う。私はそんな合唱との付き合い方をしてきたということだと思う。

ここまで書いたものを振り返ると、「なーんだ、この人やっぱ『合唱一筋』じゃん」と思う。そうなんだと思う。

でもね、合唱のために人生を捧げてるんじゃなくて、人生のためにたまたま出会った合唱に取り組んでるんだよって、最後に付け加えておきたい。

いや、それを「合唱一筋」って言うんだよ!って声が聞こえてきたところで今日はこのへんで(/・ω・)/

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