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キャニコム、アメリカへ⑩

全くのご無沙汰で何を書いていたのかを思い出すのに時間がかかっています。少し時間ができたのか?コロナで来客やスケジュールが空いてしまったので少しずつですが、再開をします。

2012年1月1日、突然筑水キャニコムの社長が交代する。
父から叔父に交代をしたのだ。その前段で2011年のキャニコムUSAの売上は100万ドル(1億円)以上をすでに超えていたが、売上比率はキャニコムでは2%程度だった。いわゆる不採算部門だ。
しかし軌道に乗りつつある事業だが、収益が中々あがらない。これは経営者としての通信簿は落第という意味だ。10年以上やっている事業でアメリカという不採算部門を管理している経営者は責任を取れということだった。
それは僕に対しての退職勧告だった。他部門には移れない、海外で8年間やった自負もあったが、不採算部門に対しての結果を残せない人間は辞せよという事だった。

たしかに2001年にアメリカ進出をして、未だに不採算部門であった。それに加えて、財務に関する差異もあり、不正に所得をしているのではないか?という疑義をかけられていたのも事実だ。しかしながら全く利益が出ていなかった上に、為替は79円近辺。全くうま味が無い。
在庫管理にしても直ぐに撤退という形を取れば、10年という歳月は水の泡になる。自分が辞して、USAが存続するのであればいいのではないか?などを考え、2012年2月に自身最後の展示会に臨むことになる。

ルイジアナ州ニューオーリンズでアメリカのレンタルショー、当時は The Rental Show という全米レンタル協会の展示会が年に1回開催される。
開催場所は持ち回りで、アトランタ、ニューオーリンズ、オーランド、ラスベガス、アナハイムの5都市を回る。
ニューオーリンズは2002年に奇しくもCanycom Sales North Americaとして初めて展示会に出展した場所だ。10年経って巡った場所で自身最後の展示会になる予定だった。各レンタル店の社長、担当、仲のいいメーカーの人達に挨拶に行って、展示会前のディナーを御礼にということで20人ぐらいで食事をした。

キャニコムUSAの副社長(当時)とケンタッキー州の販売店の副社長からfディナー途中で突然宣言された。
「展示会は明日からだ。辞表はこの展示会が終わってからでいいだろ。」
意味が分からなかった。この展示会での販売目標は50台、60万ドルだったので、目標さえ達成すれば会社には残してもらえるだろうという少し甘い考えもあった。新社長からは最後の展示会だからと念押しされていたので、最後に意地でも見せてやろうかという目論見もあったが、、、

最終日に持ってきたのは「Sales Invoice」だった。
集計をすると驚いた。280台、300万ドル以上を達成した。
コンクリート砂男の評判は年々上がっていった。理由は細かい部分の修正と価格の改定、現地調達を進めた結果になっていた。
前回のキャニコム、アメリカへ⑨でも書いた、調達方法の見直しが功を奏したのが理由だ。しかも1年で直ぐに結果が出るのがアメリカビジネスの面白さだ。
最近では「Agility」(アジリティー):俊敏な、機敏なという言葉があるのですが、この「Agility」を体現すればアメリカビジネスは成功する。日本の風習の様に「着実に」「確実に」「じっくりと」ではまず成功はつかめない。それを実感した瞬間だった。

ということで意気揚々と300万ドルのオーダー、まだまだ為替が79円とはいえ、2.8億円の受注を引っ提げて凱旋帰国という流れでしたが、、、
残念ながらそんなに「社会」と「会社」はうまくいくものではない。
待っていた辞令は「品質保証部」という辞令だった。

米国はキャニコムUSAの社長は当時の副社長が昇格することもなく、当面は空席ということになり、当時の常務という職責も失い、仕事をする部屋も失い、とりあえずは現場で仕事をすることになる。

ただアメリカの快進撃は止まらなかった。
半年程して、キャニコムUSAに復帰することになる。

キャニコムUSAの2012年度の売上は400万ドルを達成し、1年目から40倍近くの売上と初の黒字を達成した。当初の100万ドル目標をあっさりとクリアしてしまう。これからの快進撃はまだまだ続くのです。

ドロドロの部分を書くと怒られそうなのでサラっとしておきます。
2013年、2014年そして社長になる話に繋がる話に繋げたいと思います。

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