しきから聞いた話 171 じいさま獅子
「じいさま獅子」
知人が住職をしている寺を訪ねた。
駅から歩くと30分ほど。そこに山門があるのだが、そこからさらに石段を二百ほど上がらなければならない。裏手に車の通れる山道があって、たいていの人はそちらで上の駐車場まで行くようだ。けれど、山門をくぐって、歩いて上がるのは好いものだ。一歩、一歩と歩いていくことで、境内の空気に馴染んでいくような気持ち良さがある。
「いらっしゃい。やっぱり、歩いてきたのか。電話をくれれば、駅まで迎えに行くのに」
知人はいつも、そう言う。
本山の役職もあって、常に忙しくしている彼にしてみれば、時間がもったいないと思うのかもしれない。
まず、本堂に挨拶を、と足を向けると、住職は
「それじゃ、中で準備しているよ」
と、庫裡へ入っていった。
この寺は江戸時代の中期頃から、ここにあるという。
二度、火事で焼けたが、ご本尊や古い軸、史料などは、よく残っている。
今日も、その整理の手伝いに来たのだった。
本堂の木の階段を上がっていくと、上から声がした。
「やあ、久しぶりだ」
見ると、入り口の引き戸のさらに上、木彫りの獅子が、こちらを見下ろしている。小型犬くらいの大きさだ。
「ちょいと、頼まれてくれないか」
なんだい、と応えると、獅子はぎょろりと目を動かした。
「ほら、すぐそこに、ハチの巣があるだろう」
視線を追うと、たしかにある。スズメバチの巣だ。
独特の、流水紋のような波模様、しかし、大きさはたいしたことはない。大人の片手に乗るほどだ。
「それを、取ってくれないか。なに、ハチはもういないよ」
この大きさからすると、途中で巣を移したのだろうか。
「うん。よそへ行ってもらった。わたしはこの堂の守りだからね。ハチが人やら何やらを刺すのには理由があるが、わたしがそれを見過ごすわけにはいかないから」
もういないのなら、そのままでもよいのではないか。
「気付いた者が、みな、怖がるのだよ。まぁたしかに、ハチの中でもあの一族は、たいそう喧嘩っ早いからなぁ」
それで、よくも移ってくれたものだ。
「ちゃんと頼めば、聞いてくれるさ。ちゃんと、時間をかけて、ね」
何やら言葉に含みがある。黙ったまま、少し眉を寄せてみせると、ふふっと小さく笑うように溜め息をついた。
「本当なら、あなたに頼むようなことじゃない。住職がいるのだもの。わたしがハチに頼まなくても、それだって彼がやるべきだ。そういうことを、できない者ではないのだから、ね」
言いたいことはわかる。でも、住職だって、怠けているわけではないだろう。いろいろなことができる人だからこそ、人にあれこれを頼まれ、たよられもする。忙しいのは本当だ。
わかっているだろう。
「まあね」
獅子は、今度こそ、大きく溜め息をついた。
「わかっているとも。それじゃあ、こうしよう。悪いけれどそのハチの巣、住職に言って、彼に取らせてくれないかね。あぁ、それと、前ばかり見ていないで、上や足下や後ろも見ろと、本堂のじじぃが言っていたと伝えておくれ」
承知した。
本堂のじいさま獅子にとって、住職は孫のようなものだ。
心配で仕方ないのだろう、と思った。
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