観劇に思ふ

何年かぶりに観劇をして来ました。
二人芝居で演目は「手ぶくろを買いに」。
あの新美南吉の名作童話をベースに、原作にほぼ準拠しつつ深い視点が提示される内容だったと思います。
脚本と演出が素晴らしく、言葉による美しい雪景や夜の街の描写に心が洗われるような気がしました。
新美南吉といえば「ごんぎつね」「手ぶくろを買いに」のニ作品が小学校の教科書に載っていたと思います。
「ごんぎつね」の結末のいたたまれなさに対してこの「手ぶくろを買いに」はハラハラする場面がありつつも、ほっこりする、温かい作品だと思います。子供時代の僕も大体そのような印象を持っていたと思います。
今夜、改めてこの「手ぶくろを買いに」を観劇してみると、当然ながら子供の頃とは異なる着眼点を持ち得たのでした。

一つは、子狐を街に送り出す母狐の人間に対する恐怖心です。
これは社会やコミュニティの外側に棲まう者たちのメタファーではないかと思ったのです。
排斥されることへの恐怖心。また、そのような経験が母狐にはあったわけですが、だからこそ、好奇心から人間を知りたがる子狐に、何か人間への一縷の希望を託しつつも、それを上回りそうになる恐怖心との間で心情が揺れていたのではと思います。

もう一つは、子狐が戸の隙間から渡した白銅貨がもし本物ではなかったら、帽子屋がどうしていたかということです。
物語では、子狐が人間の形に変化させた右手を出すのではなく、間違えて子狐の形をした左手を戸の隙間から出してしまい、帽子屋は相手が人間ではないことを知ります。そして化かされるのではないかと危惧するわけですが、子狐が母親から預かって渡した白銅貨が本物であることを確認して、手ぶくろを渡すのです。
ここに帽子屋の倫理観が垣間見えると思いました。
人間と狐を分け隔てなく客として扱ったことに、子供の頃の僕は、優しい帽子屋だと思ったのです。が、今日改めて思ったのは、もし白銅貨が偽物だったら、帽子屋はフェアな取引ではないと判断して、手ぶくろを渡さなかったかもしれない、もしくは子狐を捕まえてしまったかもしれない、ということです。
ここで言うフェアな取引というのは、人間側の商売のルールです。
子狐を愛らしいと思って手ぶくろを渡すのではなく、客として遇したという形になっているのです。いや、愛らしいとも思ったかもしれませんが、少なくとも白銅貨を本物か見定める行為は、人間社会の規範に照らしている証左になります。
ここにも、社会とその外側の、或いは異文化間のコミュニケーションの難しさのメタファーが潜んでいるように感じられたのです。
帽子屋は本当に優しいのか。どのぐらい優しいのか。異なる価値観や規範を想像できる人間なのか。どのぐらい想像できるのか。一見優しい人がどこかで規範の無遠慮な押し付けを行うことは、現実社会でもあり得ることです。
何となく、新美南吉はそういった異文化やマジョリティとマイノリティの関係性の危うさを暗喩しているのではと思ったのです。

ただ、そういったある種の難しさとは別に、子供が素直に素朴に温かさを感じながら読めるお話でもあると捉えることも、勿論出来ました。新美南吉はそのように作品を構築したのだと思います。

今回の公演を企画した脚本家、演出家、役者の方々も、おそらくその両面性を意識して作品に取り組まれたのではと想像しました。

普段、あまり観劇をする機会はないのですが、久しぶりに鑑賞して、僕自身のメンタリティや或いは暮らしへの良いヴァイブスのフィードバックを得られたような気がしたのでした。

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