見出し画像

無意識の《後付け》

土曜の夜の《振り返り》関連雑記。

プレゼンまたは打合せ中の発言、もっと言えば仕事絡みで行う発話のいちいちについて。刹那的であったり衝動的であったり、何やちゃらんぼらんなやっちゃなあと思われないよう、なるべく首尾一貫ロジカルに、筋の通った発言を心がけている。まあ、ここまでは普通の話やし特に問題があるとも思わない。んだが、
ロジカルであろうとするあまり、あと、ついでに《プレゼン効果》たらをも若干意識しつつ、後付けの屁理屈を思いついたり_アブダクション推論ではない_することがあったりする。これもまあ、当たり前っちゃ当たり前(かな?)。
さて、問題は、それら《後付けの屁理屈》を自分で信じてしまうというか、唯一の真実であるかのように思い込んでしまうことで、ここは要注意だ。

先日、角川文庫版「仏教の思想」シリーズを再読する機会があり。
山ほどあるお経の成立時期についての、中国のさる高僧の説を、私は改めて興味深く思った。彼は、あろうことか「如是我聞」で始まるSF/ファンタジー的創作説話_いわゆる大乗経典_を最初期の仏典とする一方、本当に最初期の仏典については、
「最初の説法が難解過ぎて理解してもらえなかった為、少し内容を落としてわかりやすく語ったもの」
と解釈してしまった_アブダクション推論ではない。とはよー言わん_らしい。
ついでに言うと、日本の仏教界は長らくこの珍説の影響下にあったとのこと。成立時期不明の経文がパラパラ五月雨式にやってくるのを、剛腕屁理屈で強引にまとめ切った訳だ。

自分の屁理屈を、歴史に名を刻む高僧と比較するのはちょっとアレかとは思いつつ。まあザックリ似たようなもんでしょう。

ついでに、19世紀に欧州で《インド学》が盛り上がって以降、初期仏教教団の姿≒原始仏教の輪郭と、インド/ヨーロッパ各地で使われている言葉の歴史的系譜が同時に照射されたタイミングを思う。インド学ブームがなければ、ソシュールの言語学も生まれなかった。たぶん。

更に蛇足。古い文献を辿ってわかることは多いだろう。だが私は、文字によらないメッセージをも受信したいと願っている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?