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集うヨロコビ

パンデミックが起こり、あっという間に2年が経った。仕事は家でしていたし、もともと腰が重くて、あまり外には出ないほうだ。ひとりでいるのも苦痛じゃないので、むしろ家から出なくていいのは好都合だった。初期は取材が激減して、つらかった。その後、対面取材は回復しないもののオンライン取材が増え、忙しさでいうとパンデミック前と変わらないぐらいになった。

だからまぁ、取材はやっぱり対面でしたかったけど、それ以外は、これはこれで気楽でいいかと思っていたところもある。


久しぶりにデジカメを出したら、コロナ前最後の、集落のお祭りの写真が出てきた

地域はリスク管理がしっかりしている、と思う。たまに東京に行くと、飲食店のルールのゆるさや街の人ごみに、クラクラする。規制があるとはいえ、イベントなんかも開催されている。規模が大きくなるときっちりやることが難しくなったり、タガが外れがちになることは、イベント運営などで何度も経験しているから、都会のほうがゆるくなるというのは、ある意味で仕方のないことなのかもしれない。

翻って、田舎は厳しい。万が一があってはいけないから、みんな慎重に慎重を重ねて物事を進める。きっとそれは、顔が見えるからだ。近所のおじいちゃんおばあちゃん、小さな子ども、集落のひとりひとり。相手の顔が思い浮かぶから、万が一があってはいけないと思い、守ろうとする。助け合って生きているのだ。

だから藤野も丸2年、ほとんどのイベントが中止になった。自治会の集まりもお祭りも、全部中止だった。仕方のないことだ。でも、いい加減ワイワイ騒ぎたい、みんなに会いたい、せめて回復に向けて何か前に進みたい、という気持ちが、ひとりが好きな私でも溜まっていた。スペイン風邪が丸2年で終息と聞いていたから、まさかこのご時世にここまで長引くとは思っていなかった(このご時世だからこそ、終わらないと、今では理解している)。

相変わらず、完全終息とはならないが、この春、ようやくイベントなどが復活の兆しを見せ始めた。いつのまにか、それなりの規模のイベントが、毎週のように開催されるようになりつつある。イベントがかぶって、どれに行こうかと悩んでいた日々が、戻ってきた。

某アーティストのご自宅のテラスでまったり過ごすのも、2年ぶり

行ってみると、それはもう、とてもとてもとても、楽しかった。久しぶりの友だちにたくさん会い、おいしいものを食べ、買い物をして、音楽を聴いた。座り込んで、ただダラダラして、空を見た。2年経つと、近所の子どもたちはびっくりするほど成長していて目を見張った。

そこで何か、特別なことがあったわけではない。それこそ、コロナ前であれば当たり前だった光景とありきたりの会話が繰り広げられていただけだ。でもそれが、乾いた心にぐーっと沁み込んでいった。その場の感情や感覚を、スポンジのように吸収して、心がどんどん膨らんでいった。

飢えていた。

と、そのとき気づいた。特に、会話に。他愛ない日常会話に。目を見て、その場にいる人々、その場にあるものたちで、つくりあげる世界に。

何か用事がなければ会えなかった2年間。私はこの世界のヨロコビを忘れていた。「久しぶり」と言い、「最近何してるの?」と言い、共通の友だちの話題で盛り上がって「またね」と別れる。その「またね」が自然に言えることが、嬉しかった。

時の流れの中には、永遠の幸いも、永遠の不幸もない。
世界は、どうであれ蠢き続けているのだ。

だからこの世界を、他愛ないヨロコビで満たす。
特別ではない、ささやかなヨロコビでいっぱいにする。
私は、そういう日々を送りたいのだ、とあらためて思う。

一般的には当たり前ではないかもしれないけれども(笑)
藤野においては「当たり前」の日々。

少しずつ、少しずつ。

おかえり。


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