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無限ホテル映画視聴記録3月号+α

シン・ゴジラ、ムカデ人間1,2,3、映像研には手を出すな(実写版)、バーブハリ 伝説誕生、アフリカン・カンフーナチスを見ました。

シン・ゴジラ


かなり面白かった。最初、特撮物にあまり興味はなく、ただ話題になってたから手に取ったというだけだったが、見てみると思いの外趣味に当たる作品だった。Twitterを見てるともう面白いという賞賛の評価の先の段階の話を初めているが、私はこの映画を見た直後なので素直な感想を話すことができる。

思えば、怪獣物、特撮物とは「虚構VS現実」の葛藤が頻繁に行われたジャンルなんじゃないだろうか。怪獣とヒーローが戦うという展開を繰り返したい業界にあって、「生物学的にゴジラは存在できるんだろうか」「なぜウルトラマンが地球人を助けてくれるのか」「ウルトラマンの方が怪獣より被害を出しているのではなかろうか」「二足歩行の巨大ロボット意味なくない?」みたいな素朴な疑問が常々現れてくる。こういう疑問が後々の作品に影響を与えるのは皆さんも知っての通り。別のジャンルで言えば、乙女ゲームの悪役令嬢の立場になってその妥当性を吟味したり、モブキャラクターに転生したり。怪獣物もそういう妥当性を作品内で吟味する段階にあるんだろう。

シン・ゴジラはまさしくそういう話だった。虚構のあり得ない産物であるゴジラが、現実世界の象徴たる日本政府に果敢に挑んでいく。日本政府はまずゴジラの存在を信じることができず、その後の対応も後手に回る。主人公とその所属するチームは、科学的な分析と政治的手腕でゴジラの討伐に挑む。原作で原点で文化の基盤でもある「ゴジラ」において、どういう手段でゴジラが倒されたのかは(視聴していないので)わからないが、本作では体内に何かを注入して活動を停止させる、非常に湿っぽい方法で勝った。うーん、内省的。

そういう現実と嘘の間を描いた作品だから、細かい設定の面で間違いがあっても許せることは許せる。意図した可能性さえあるので、なかなかどうしていいづらい。中盤から後半にかけてゴジラの超越シーンが明らかになるシークエンスで、誰かが「ゴジラのDNA量は人間の8倍で進化を超越している」と言っていた気がするのだが、正確には生物のDNAの量は生物の進化の度合いを示すことはない。だけど、これも「ゴジラ」原作において、生物学的な内容があまり正確ではないから、意図して制作陣が入れたセリフなのかも。誰か、知ってる人がいたら教えてください。

ムカデ人間

かなり面白かった。涙が出てきたレベルで面白かったシンゴジラとどっちが良かったかと聞かれるとかなり悩むのだが、ギリギリムカデ人間が勝つと思う。みる前は「どうせ変人のスナップムービーだろぉ」みたいな気持ちが心の奥底にはあったのだが、実際は「狂人VS被害者」の戦いがしっかりと描かれていて、見応えが結構ある。さすがにシリーズが3作も続いてる原典としての格の違いを見せつけた。フォロワーがサメ映画の原典であるジョーズを見たらしいのだが、ジョーズにも作品としての工夫があるらしい。ここではムカデ人間のホラーとしての工夫についての話をします。

ムカデ人間の主人公ヨーゼフ・ハイターは、シャム双生児の分離手術の名手だったが、ある時から逆のことをやりたくなってしまう。それがムカデ人間で人と人をつなげることだった。ここで整理をするとムカデ人間のヨーゼフ・ハイターは、自分の陣地内でのみ強いホームアローン型の狂人だ(私はホームアローンを見ていないのでこの表現は若干密輸入。いつか見たい)。彼は家に遭難した女性を誘い込み、レイプドラッグを飲ませることによって昏倒させる攻撃方法を得意とする。つまり、彼が陣地とするのは「森林に囲まれた豪華な自宅」であり、麻酔銃を持って歩く以外は受動的な活動にならざるを得ない。この「ハイター博士は自分の陣地の中でのみ強い」という性質は、作品全体を一貫するテーマとなっている。

実はこの観点を導入すると、一見陰鬱で被害者がただ被害に遭い続ける作品に見える「ムカデ人間」にも2つの攻略法があったことがわかる。それは主に前半部では「ハイター博士が家の窓ガラスを割ったシーン」「正面玄関の鍵の解錠」で、後半部では「警察の介入」である。前半部では物理的な「家」の状態が陣地の綻びになっているが、後半部では警察の介入というハイター博士の精神的な揺れが綻びになっている。

前半部では、ムカデ人間中央部(つまりカツローのケツに口を繋ぎ、ジェニーにケツを加えられている)のリンジーが、ベッドの拘束から抜け出すことに成功する。この時点ではリンジーに勝ち目はなかったと思われる。「家」はヨーゼフ博士は入念に封鎖されており、リンジーはそのままでは出ることができなかった。リンジーにとって良かったのは、逃げた先でハイター博士が自分の家の窓ガラスを破壊したことだ。ここで「家」の領域的空間が綻び始める。ハイター博士は狂気的に笑いながら麻酔銃でガラスを叩き割る。加えて、リンジーにはメインの出入り口にまで回って外に脱出する方法もあった。ヨーゼフ博士は外に回り込み、庭の側から窓ガラスを割っているため、この時家の内側から南京錠でかけられた鍵は開いているはずなのだ。領域の綻びは2つあった。判断次第では逃げ出せる可能性があったと思われる。だがリンジーは他の被害者を助けるため、ベッドのところに一度戻ってしまい、それが原因で再確保されることとなる。合理的に考えれば、ここは「ムカデ人間」のアガり牌を潰したと考えればよかった。「ムカデ人間」の完成には3人必要である。自分1人逃げ切れば、ハイター博士は確実に困るはずなのだ。だから逃げ切れば、リンジーだけが生き残るだけではなく、被害者側の全面勝利さえあり得た。

後半戦は男性で攻撃力、精神力が高いヤクザ男性のカツローがムカデ人間の先頭になったことがかなり大きかった。カツローが終盤戦に与えた影響はかなり大きい。彼がいなければ、ハイター博士が結果的に引き分けを演じることもなかっただろう。カツローがハイター博士の足ににメスで攻撃を喰らわせる。この後ハイター博士は森の中でいなくなった女性2人の捜査に来て尋問を行う。そのため、もしここでカツローがハイター博士に血をつけなければ、この後の展開はなかった。

カツローの自殺シーンも涙なしには見られない。真ん中の人間リンジーは前半戦での戦いで寝室の窓ガラスが割れていたことを知っている。それを知ってカツローを寝室に誘導し、脱出させようとするのだが、リンジーが真ん中に設置されているせいで口が動かず、上手く伝わらない。それでもなんとかしてたどり着くものの、そこはヨーゼフ博士がしっかりと窓ガラスの修理をしていたので失敗する。ここが面白いところなのだが、映画はヨーゼフ博士が窓ガラスを業者に頼み込み、わざわざ修理してもらう3分くらいの描写がしっかりと挟み込まれているのだ。ムカデ人間の制作陣が領域の修復に意識的だった証拠だと思う。

だがそれを知らないリンジーは寝室にカツローを誘導してしまう。ここからも「もし知っていれば……」連続だ。もし警察が15分間捜査令状を取りに行っていることに気づいていれば、カツローが自殺することもなかっただろう。窓ガラスが割れていなかった、そしてさっき部屋に入ってきた人がどこにもいないもいう絶望がカツローを自殺に向かわせたと思われる。日本語で「あなたが神で私が虫けらだとしても……」と演説し、壮大に首を引っ張って死ぬ。ハイター博士が警察官を言いくるめ、捜査令状を取りにいかせたことがここでも効いてきている。もしハイター博士がしっかりと警察官を足止めできていなければ、カツローは自殺しなかったはずだ。博士はここでも時間稼ぎをしたことで大きな効果を出している。三雲修のB級ランク戦か?

全体的にカツローが強くてよかった。だから次のムカデ人間2にも同じような作品を期待するのはあながちおかしい挙動でもないと思うが……

ムカデ人間2

まあまあ面白かった。1とジャンルがほとんど違う。グロ描写も結構度が強かった。私がキツかったのは、マーティンが被害者の歯をトンカチで割るシーン、膝を切り取るシーン、ムカデ人間の先頭の女性の舌を抜くシーンだ。ムカデ人間1の登場人物は抵抗を結構したが、ムカデ人間2では最後に少しやるだけだ(主人公のケツの穴に被害者の女性がムカデを入れる)。ムカデ人間1の抵抗には戦略的な話があるが、ムカデ人間2にはそういうのが本当にない。

ムカデ人間1は、ムカデ人間を作ろうと企み被害者を襲う"狂人"と打開力を持つ被害者の駆け引きが面白いという話をした。それを踏まえてムカデ人間2を見ると、そのスタイルが180°変わっていることに気づく。登場する主人公はムカデ人間のハイター博士より狂っているが、人間的にはさらに小物になっている。ムカデ人間2の主人公マーティンは、知的障害を持ち夜間警備員として働く虚しい男だ。ムカデ人間を繰り返し鑑賞するうちに、自分でもムカデ人間を作ってみたいと思うようになってくる。この時点でわかるのは、マーティンには狂人としてのオリジナリティもないということだ。ハイター博士と同じように、彼は拳銃とバールのようなものを用いてムカデ人間を集めるホームアローン/陣地作成型の狂人だ。

彼にとっての「森の中の家」は「仕事場の駐車場」と「倉庫」ということになるのだと思う。被害のほとんどはどちらかで起きているし、映画には彼の自宅とその2つしか登場しない。思うに、ムカデ人間2はおそらくゴアの描写が一番キツい。ムカデ人間たちの反抗は最後の10分になるまで始まらないし、被害者がなす術なくやられていく。ホラーパニックものとしては、被害者の抵抗シーンを削いだ無駄のない構成といえるだろう。

まあ、監督がムカデ人間1で本当にやりたかったのはこういうスプラッターなんだろう。ハイター博士も十分に狂人だが、理性的なところも結構ある。ハイター博士はフランケンシュタインの時代から続く典型的なマッドサイエンティストの肖像で、ちゃんと学問を納めているし技術がある。そう、マーティンには「技術」がない。マーティンはとりとめのない駐車場の警備員であり、そこにはハイター博士が見せたようなシャム双生児の分離技術の妙はない。作中でいみじくも先頭の女性が「ムカデ人間の手術は医学的に可能」と述べていたが、マーティンにはそのような医学的背景は全くなく、オタクのようにかき集めたノートブックを参考にするのがせいぜいだ。だからムカデ人間をガムテープで補強しないといけないし、手術の時には麻酔をしない。ハイター博士すごかったんだな。

加えて、ムカデ人間が12節もあったのが何気にポイントだった。そのせいで真ん中にいる男をきっかけにムカデ人間は分裂し、最終的に舌を抜いた女性に、マーティンはけつの穴にムカデを入れられてしまう。不完全ながらも構築した「倉庫」という陣地は、殺したと思った妊婦の女性に脱出されてしまうし、最後まで警察官に抵抗したハイター博士とは出来が違う。マーティンにはオリジナリティが徹底的にない。

だから作品の前半部にマーティンの心の闇をしっかりと描写したのは良かったと思う。ハイター博士の描写にはこういう狂っていく描写が欠けていたし、その点、マーティンにはムカデ人間を作るに値する動機が克明にあると思う。

呪術廻戦がこんなことを言っていたが、マーティンには完璧主義の性質があったのだろうか?計画の段階でもう既に結構彼には粗雑なところがあるが。

アフリカンカンフー・ナチス

面白かった。内容はB級映画っぽい……というか紛うことなきB級映画であり、東條英機の演技が雑っぽいとか、何故かゲーリングが黒人になっているとか、巫女は何のことを言っていたんだとか、色々気になることはあるが、ヒトラーの扱いとアクションには全然手を抜いてないでかなりよかった。

話のストーリーは極めて簡素で、2本の指を東條英機に、彼女をヒトラーに取られた主人公のアデーがマスターアテペシ、3本指のジョー、巫女に教えを受け、最終的に親友を殺害したゲーリングに勝利するという話だ。ガーナに第二のドイツ帝国を築くため、侵略行為を始めたヒトラーと主人公たちはカンフーで戦っていく。前に述べた通りアクションに関するこだわりはすごい。主人公は東條英機やゲーリングの顔に三回顔を蹴り上げる。インディアンのキャラクターはすごい身軽な動きで敵を翻弄する。そしてそれに伴って、「技のモードはそれぞれ異なる」という思想が徹底している。たびたび「影蛇拳ではゲーリングは倒せない」「お前にはもう一つの技がは必要だ」などといわれるように、それらの拳法にはタイプ相性さえあり、しっかりと区別されるのだ。東條英機は典型的な一撃必殺タイプであり、当たると一撃で相手が吹っ飛ぶパワーの持ち主だが、それを見抜いた主人公に拳をことごとく避けられることで攻略された。

だがそうしたポケモンバトルじみた「〇〇拳」の戦いに銃弾で介入するのがヒトラーだ。ヒトラーが開催する戦いに勝利した主人公は、血染めの星条旗を燃やして支配からの脱却を図ろうとする。だが激怒したヒトラーは、機関銃を用いて主人公に銃撃戦をしかける。これまでのカンフーによる戦いとは何だったのか?ポケモンバトルでぜったいれいどを連発するみたいな戦いだ。あるいは時間切れ狙い。だけどヒトラーはある意味こういう狂人でないといけない。帰ってきたヒトラーも最初はヒトラーの人心掌握術を認めつつ、後から狂人性を視聴者に見せつけるみたいな構造だった。アフリカンカンフー・ナチスの制作者もそこのところは強調したいのだろう……と思った。

映像研には手を出すな!

あまり面白くはなかった。原作が好きな実写映画はDVDなどで視聴したいと思っているが、毎回映画としてはあまり面白くはないという感想を得る。コミックスでは何巻にも及ぶ話を2時間もない映画の尺でまとめるから話の展開が構成的によろしくないし、登場人物は高校生っぽくない。前から高校生の役には高校生にやってもらえないのだろうかと思っているが、これは推理漫画につくニコニコ漫画のコメントの「警察が現場で事情聴取すな」と同じ類の感想なんだろうか。漫画には漫画の、映画には映画の表現技法というのがあって、適切に視聴者は読み替えるべきであり、今の私には実写映画の読み替えが実装されていないだけなのだろうか。

でも懲りずに今度は賭ケグルイの劇場版とか見る気がします。

バーブハリ 伝説誕生

まあまあ面白かった。古代の戦争に馬車の前で刃が回転する全自動殺戮マシーンが出てきてよかった。アレ結構ズルくない!?アレだけで敵兵めちゃくちゃ殺してる。本当に神話みたいな雰囲気があちこちに漂っており、どこかの伝説をそのまま話に使ったのかとさえ思える。50年前に起こった蛮族との戦いで不当に王位を簒奪された主人公シヴドゥの父"バーフバリ"、そしてその想いを受け取った妃シヴァガミさんが王の息子を遠くの地に逃がす。シヴドゥは民から受け入れられ、今なお現在進行形でマヒシュマティ王国を支配している悪の王を打倒できるか!?というお話。民たちはシヴドゥを見ただけでバーブハリの血脈を認識できるようであり、太鼓を叩く人も、偽りの王の彫像を掲げる人も、シヴドゥを見ると父の名前である"バーフバリ"を叫ぶ。

古代の神聖な王国の雰囲気を出す為に、思想の面で徹底しているのがかなりいい。すなわち、奴隷は主のため、兵は将のため、民は王のために命を尽くすのが当然という考え方だ。異国の商人にカッタッパが話した内容もそれっぽい。先祖の盟約によってカッタッパは今も奴隷であり、そのために忠誠を尽くすことに何の遺存もない。これは映画の制作サイドがあえて入れたのだと思う。祖国に敵の旗が上がるのも紛れもなく死だ。王国の保護なしに人々は存続できない。だからこそシヴドゥはバーフバリの名前を叫ばれるのだと思った。最初は勘違いしていたのだが、実は主人公の名前はバーフバリではなくシヴドゥなのだ。

ムカデ人間3

かなり良かった。「面白い」という評価を超え、「良い」になる。こちらは主観ではなく状態に言及する単語なので、より強く映画に対して指示を行なっている。無論、どちらもこれは私の主観的な感想なのだが。

シンゴジラと同じくらい記憶に残ったと思う。ムカデ人間3もシリーズの例に漏れず、強い場所依存性のある法則で話が展開する。刑務所の外に話は向かわず、ムカデ人間は領域内で完成をする。刑務所とはすなわちボス所長の「城」だ。ボス所長は刑務所内で本当に好き勝手する。腕折り、熱湯攻め、金玉切除手術、これらの様々な拷問に、秘書にフェラをさせる、神とイスラム教徒やユダヤ教徒に対する宗教的な冒涜などのバリエーションを含む数々の差別的な発言、不愉快な描写には枚挙にいとまがない。一作目のハイター博士や二作目のマーティンの持つ人間への深い絶望と比べて、ボス所長はあからさまに幼稚だ。だが注目に値するのはボス所長だけではなく、それ以外の人間の倫理性も相当に面白い

刑務所の会計士であるドワイト・バトラーは、経費削減の観点から囚人たちをムカデ人間にすることを提案する。私は最初、彼のムカデ人間を目指す動機というか狂気というか、感情がよくわからなかった。サディストのボス所長がムカデ人間を目指すのはわかるのだ。ムカデ人間1と2で行われてきたのはそれだから、むしろスタンド使いが惹かれ合うがごとく当然だ。いが、私はここでバトラーの動機に疑問を持った。所長のサディズムに目を逸らし、拷問には悲しみを感じる彼の姿、それが狂人のものとはどうも思えなかった。所長の秘書のことは本当に同情しているようだったし、そうであればもっと上手くこの状況を改善することを目指すべきだったのではないだろうか。やっぱり、ムカデ人間という解決策はどこかふざけているようでさえある。

あと2人重要なキャラがいる。ジョーンズ医師とヒューズ州知事だ。ジョーンズ医師は所長に恩を感じる医者の一人で、「全米にこのメソッドを広める」と言われ、ムカデ人間を作る。殺人は拒否しているし、彼の目的が恩返しと医者としての名誉なのがわかる。ヒューズ州知事は、バトラーとボス所長をクビにする権利を握っている。刑務所が予算を食うことを問題視し、次の選挙までにこの問題を解決したいと思っている。どちらも狂人サイドではない人間だ。特にヒューズ州知事は刑務所を俯瞰して疑いの目を向ける役割を果たす。ヒューズ州知事が初めてムカデ人間を目撃した時の醜態は興味深い。ヒューズ州知事は穏やかに落ち着いた口調で「私はキューバ産の葉巻しか吸わない」と言うような人間なのだが、ムカデ人間を見ると「耐えきれない」とか「酷い」とかしか言わなくなる。

ムカデ人間シリーズはメタ構造の繰り返しをしてきた。ムカデ人間1を起点に、ムカデ人間2のマーティンは1に影響を受け、ムカデ人間3の2人は1と2を参考にムカデ人間を企てた。まるで映画の構造がムカデそのもののようになっている。であれば、ムカデ人間3の後にムカデ人間4を見たい。だが今回見た限りでは、3の次に4があるのは期待できなさそうだ。それは3の変則的な終わり方に秘密がある。最初にムカデ人間を見た人は、州知事のように映画の前で「狂ってるのか?」とか「耐えきれない……」と言う。だがそれは逆に、ある種のホラー好きにとっては魅力があるように映る。実際、この映画の受け取られ方がそうだ。例えば月ノ美兎の言及で喜ぶファンがそうだし、こうして感想を書く私がまさしくそうだ。

ヒューズ州知事の話に戻ろう。「ムカデ人間」を見たヒューズ州知事はバトラーとボス所長にクビを勧告し、落ち着くためにキューバ産の葉巻をトイレで吸う。このことを考える聞いたボス所長は完全に混乱し、医者を撃ち殺す。当然、ボス所長にとって「城」である刑務所を失うことは耐え難い出来事だ。だからこそムカデ人間を作った。「ムカデ人間は価値のあるのもに値しない」そういう宣告は、自身の価値否定と同じだ。さらにことを一変させるのはヒューズ州知事の次のセリフだ。「ムカデ人間は素晴らしい!」と手のひらを返す。二人は喜び、ボス所長はバトラーを殺す。ボス所長は自分のサディズムを解放し、ムカデ人間のいる駐車場で雄叫びをあげる。ヒューズ州知事がムカデ人間4でやるべきことをやってくれた。これでムカデ人間3の顔にケツがあてがわれることはない。現実にこのムカデ人間が飛びでくることはない。なぜなら、「ムカデ人間」を素晴らしいという狂人が、視聴者に分かりやすい形で提示されたからだ。このヒューズ州知事というキャラクタは、最初に「ムカデ人間」を見た時は恐怖に失望しながらも、最後に「素晴らしい!」と手のひらを返す。それは「ムカデ人間」を見ている人の反応、まさしくそれそのものだ。だからこの手のひら返しは突飛なものではなく、真実だ。つまりはヒューズ州知事は私たち視聴者の姿だったのだ。このオチにある程度妥当性がある理由としては、ムカデ人間シリーズがメタ的なムカデ構造になっていることが挙げられる。4をやるつもりであれば、4の主人公がムカデ人間を見る必要がある。だが3では、その役割はもう映画内で完結しているわけだ。ヒューズ州知事がムカデ人間のフォロワーに収まったことで、ハイター博士がマーティンに与えたような影響はなかったこととなる。これは現実でムカデ人間事件を起こさないように取り図られたトムシックス監督の警告と激励であるとみなしたい。

私がムカデ人間シリーズを通しで見た動機にも軽く言及するが、溢れているパロディを回収したいという狙いがあった。この情報が溢れている界際で、原典を扱うことの価値は大きいと考える。

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