嘘を上手くつけるように

2019/04/28 午前2時記す

 昨日は少々鬱気味だと書いた。けれども今すこぶる気分がいい。情緒不安定である。生活の中でちょっといいことがあると、いい一日だったなと思ってしまう。その逆もそうだ。我ながら簡単だなと思う。

 久しぶりに角打ちに行った。今まで、一緒に行く幼馴染が主役になるように、僕が邪魔しないように振舞っていた。というのは言い訳で、単純に知らない人と話すのが怖かっただけである。そう考えると慣れただけかもしれない。常連さん達とも顔馴染みになった。店長とも、店員のTさんとも話せるようになった。中でも数回しか会ったことのないおじさんとはあまり話せなかった。物理的な距離が遠かったということもあるのかもしれない。おじさんとの距離の取り方は未だわからない。おそらく向こうもそうだろう。息子としては年をとりすぎているし、後輩としては若すぎる。どう接していいのかわかりにく年頃だと思われているのではないかと思う。30代から40代とうまくコミュニケーションをとることが今後の目標だ。なんとなく自意識の高そうなおじさんたちとどうコミュニケーションを取るのか。自分の自意識が高いからこそ、敏感に察知してしまうのだろう。いかに自意識をコントロールするのか。相手の自意識をいかに意識させないか。自意識を意識することなく会話を成立させること。自意識を意識することがバカらしいのだとお互いに思うこと、そんなコミュニケーションが取りたい。

 幼馴染が、なんとなくだけれど、いつもよりも窮屈そうに振舞っていた。勘違いなら勘違いでいい、というか勘違いのほうがいい。しかし僕が感じたこの違和感の正体は一体なんなのだろうか。おそらく、自分をどれだけ出すのかということだろう。仮面というか、猫というか。本当は思っていることを言ってないな、そんなこと全く思っていないなということを、僕はわかる、と思っている。わかっていないのかもしれない。でも恐らくそうだ。割と僕が思っていることを言うほうだ。

 Tさんが二次会で、男は嘘を着くのが苦手だという話をしていた。嘘をつくときに視線がずれると。菊地成孔が、一般人の批評眼が最も優れているということをよく言う。例えばバイト先の高校生の言った、踵を中心に歩いている人はダサいという言葉。それに通ずることだと思った。確かによく言われることではある。しかしながら色々な経験をしてきたであろうTさんの言葉には重みがあった。少々話がずれたが、要するに僕は基本的には嘘をつかないようにしているということだ。なぜなら嘘をついたことをすぐに忘れてしまうから。整合性がすぐに取れなくなってしまう。

 それに対して、幼馴染は嘘をつくのがうまい、と言っていいだろう。自分に対してもその嘘をついているように思う。その嘘に次第に苦しくなってきているのではないか。いい加減大人だ。若いというだけでちやほやされる時期は、すぐに終わる。若いから恋愛についての話を聞かれる。その場にいる他の大人はどんな気持ちで聞いていたのだろうか。そのわかりやすい嘘を。嘘は言い過ぎなのかもしれない。殻を、という表現のほうがより正しいのだろうか。まだうまく言語化できていない。

 いつまで子供のままでいるのか。恋をせよという圧力。恋愛の話をすれば皆が簡単に盛り上がれるから。色々な難しさがある。単純な話ではない。僕は大人になりたい。恋をしたいと思っている。それぞれがそれぞれの時期で前に進めばいい。いや、何が前なのかもわからない。別にそれでもいい、それで幸せなのならば。ずっとアニメを見て、画面の中のイケメンを見て終わる一生で幸せでいいのならば。簡単に言えば、僕はそれよりも誰かと手を繋ぐ方がずっと大切なことだと思っているのだと思う。これからそれは古い考え方となっていくのだろうか。誰かと手を繋ぐことは、少数の人間の特権だとされていくのか。そしてそれがリア充、ウェイ系という蔑称で呼ばれていくのか。僕はそれに抵抗したい。酔った頭で今僕はそう思っている。明日目が覚めるともう、立場を変えているのかもしれない。それでも、今思っていることを書き記すことが大事だと思っている。