国語の授業で妙な文章を読んだ

 仕事が忙しすぎて精神を病みかけている友達(俺の周りに多すぎる! さすがに世の中がおかしい!)のメンタルケアのために、緑色をたくさん見せてあげようと山の方にドライブに行った。緑色はメンタルに良いらしい。別れる頃にはかなり回復して、元気に週明けの仕事に臨むとのことだった。2日経ったらまた「病みLINE」が来たので、緑色は気休めにしかならんことがわかった。

 「カプリチョーザに行こう、カプリチョーザを食べれば回復する」ということだったから週末はカプリチョーザを食うんだが、カプリチョーザでなんとか持ち直すだろうか。頼むぞカプリチョーザ。メンタルヘルスにカプリチョーザが効くという前代未聞の結果を期待している。心療内科の先生が「ゆっくり休んで。消化にいいペペロンチーノを食べてね」と言って患者を送り出す時代の幕開けになるか楽しみだ。

 山の中腹にあるお寺に寄ったら登山客も訪れるようなところだった。山には車道と登山道がクロスするようなところがあるのだ。各々の会社に隕石が落ちることを祈って立ち去ろうとすると、登山客から「こんにちは」と声をかけられた。山のマナーだな。

 「こんにちは!」と、思いのほか元気な声が出てしまって友人から「野球部みたいな挨拶だ」と言われた。俺は「営業マンだからな」と返した。「なるほど」と言われた。

 「営業マンだからな」と言っておけば大体のことは納得してもらえる気がする。

 「お前どうしてそれ、左肩からツノ生えてんの?」
 「そりゃ営業マンだからな」
 「あぁ〜」

 営業仲間はわかると思うが、それしきのことで自分の会社の商品が売れるなら左肩からツノ生やすぐらいわけないよな。俺たちの仕事はとにかく何か困ったときに真っ先に顔を思い出してもらって連絡をもらうのが重要だ。そのために名刺を配りまくるし、用事がなくても営業先に行きまくる。

 「あぁ困ったなあ。あの子なんだっけあの、ツノの」
 「もしもし、例のツノの子いる? あのツノのさ、そうそう俺くん」
 「ちょっと社長〜、そろそろツノじゃなくて名前で覚えてくださいよ〜」
 「だって君、ツノで売ってるじゃない〜。そうそう、5000兆円の案件なんだけど」

 あ、いいなぁ。ツノ生やすかマジで。5000兆円の案件が来るならわけないぜ。

 このあいだ営業先で雑談していたら、前の道に「ヒュンダイの車」が通った。韓国の車で、品質もそう悪くないと思うんだが、日本では国産車が強すぎるから日本に進出するたびに売れずに撤退するメーカーでおなじみだ。東京でも相当珍しい。

 「あれヒュンダイの車じゃない?」
 「え? ヒュンダイでした?」
 「ヒュンダイだよ見に行こう」

 俺たちは慌てて外に出た。

 「あれヒュンダイの車だったね」
 「ヒュンダイの車って珍しいですね」
 「珍しいねぇ、ヒュンダイは珍しいよ」

 なんだろうなこの仕事。たまに俺のどこに給料が出てるんだろうと疑問に思うときがある。工場の現場で働いてたときは分かりやすかった。1台流せば約10円だ。今はなんだかよくわからん。たまに「営業やマーケティングは本質的には社会に必要ない」って言われることあるが、少なくとも「俺」は要らないと思う。

 営業の仕事を始める前は塾講師をやっていた。中1のクラスの「担任」(そういう制度があった)だったから、彼らが受験まではなんとか続けたかったが、上司のパワハラでぶっ壊れるのが目に見えたのでその前に辞めた。途中で投げ出すのは生徒に申し訳なかったが、よく考えると俺より良い先生なんか無限にいるから大丈夫か、と思った。実際、俺の後任で来た先生は俺より年下だったが生徒思いの素晴らしい人だった。

 国語の授業でたまたま俺が代講に入ったことがあったんだが、教材を脇に置いて詩人の茨木のり子さんについて熱弁を振るっていたら授業後に30分立たされたことがあったな。あれは震えたね。何が悪いか俺もわかってるからな。何より生徒と茨木のり子さんに申し訳なかった。これは誰も悪くない。俺だけが悪いパターンだ。

 社会の授業に代講で入ったときも似たようなことがあった。社会は俺の大好きな教科だ。入社したときから「社会をやらせろ」「社会をやらせろ」と言いまくっていたのだが、塾という組織は常に理系が不足しているから理系科目が出来そうなやつは問答無用で理系の先生にされる。「きみ理系っぽいね」「理系みたいな考え方するねえ」「理系のツラ構えだ」とか、俺の人生で今まで1回もされたことない「理系扱い」をされて俺も嬉しくなって数学の講師にさせられてしまった。浪人の駿台模試で数学0点を取った俺が数学の先生になるんだから人生はわからん。

 だが、塾業界で定説になっている「学生時代苦手だった科目の方が良い先生になる」というのはマジだと思う。どこでつまづくか手に取るようにわかるからだ。先回りして教えられる。逆に得意だった科目はよくない。

 社会の授業の代講はまさにそれだった。テストで決して出ないような無駄知識をどうしても喋りたくなってしまう。「俺が思うヘレニズム文化の面白いところ」なんて、誰のなんの役に立つんだ。「四大文明と洪水神話について俺が思ったこと」に関しては俺が思ってるだけでエビデンスすらない話をついしたくなってしまう。俺がそういう無駄な話をしまくって教室も良い感じに温まってたときに、1人だけ下を向いて「内職」をしてる生徒がいた。おいおい、俺の独演会に水を差すなよ。さりげなく何やってるか見に行ったら俺の話を全部メモしていた。すまん。テストには出ないんです。本当にすまん。

 今はもう教科書から消えたらしいんだが、中1の国語の最初の「論説文」はなかなか問題作だった。「笑顔という魔法」というタイトルの文章で、世代によって読んだことある人もいるかもしれない。

 結論はなんとなく聞いたことある話だ。要するに今までは「心が先にあって、体に影響を与える=『楽しい気持ち』になると『笑顔になる』など」だと思われていたのが、実験によって「体の状態が心に影響を与える=『笑顔』になると『楽しい気持ち』になる」ことがある、とわかったという話だ。

 だから無理にでも「笑顔」を作ると、心が付いてきて「楽しい気持ち」になるから、常に笑顔でいるのは大事なんだよ、みたいな。わからん話じゃない。仮病で休んだ翌日に体調悪い演技をしていると、だんだんマジで気分が悪くなってくることがあるが、それも似たようなことだろう。

 結論はそれでいいし、実際、仏頂面よりは笑顔でいるほうがなにかと良いこともあるから別に問題ないんだが、わからんのは「実験」とやらだった。どんな実験したらその結論が導けるか興味あるだろ?

 実験はこうだ。「グループA」には鉛筆を縦にして口に咥えた状態で漫画を読んでもらう。対する「グループB」には鉛筆を横に咥えて漫画を読んでもらう。
 結果、「グループB」のほうが平均して漫画を面白く感じた、という結果が得られた。鉛筆を縦に咥えるのは「しかめっ面」になる一方で、横に咥えると「笑顔」に近いから、笑顔でいると楽しい気持ちになることがわかった。

 な、なななんだと? その実験でその結論になっていいのか!? 俺はド文系だから「実験」とやらが全然わからんが、この実験からわかることは「鉛筆を縦に咥えて漫画を読むよりは、横に咥えて読むほうが面白く感じる」以外に無いだろ! しかめっ面も笑顔もまったく関係ないだろ!

 俺が小学生の頃、『水からの伝言』という本が教育現場を中心に流行ったことがあった。コップに2つ水を用意する。片方には「ありがとう」とか「いいね」「すごいね」など良い言葉をかける。
 もう片方には「うざい」「きもい」「ださい」など悪い言葉をかける。

 水は氷になるほんの一瞬、結晶を作るのだが、不思議なことに「良い言葉」をかけたほうの水は綺麗な六角形の結晶を作り、「悪い言葉」をかけたほうの水はイビツな結晶を作る。
 人間の体は70%が水で出来ているので、「良い言葉」をかけた子供はすくすくと均整の取れた大人になり、「悪い言葉」をかけた子供はイビツなダメ人間に育つ。

 だから「ありがとう」とか「すごいね」とか言っていこう。という話だ。

 これも結論はそれで異論は無いのだが、途中経過にだいぶ疑義がある。いったいなんで水が人間の言葉を理解できるのかそもそも疑問だが、それは「波動」らしい。……ちょっと深追いするのはよそう。

 いずれにしてもこれが教育現場で流行していたのがヤバかった。俺の6年生のときの担任の先生も、この思想にアテられて『水からの伝言』をコピーしてみんなに配った。

 この話をどう整理してよいか自分でもよくわかっていないのは、小6でもさすがにこのテの話を鵜呑みにする奴が周りにいなかったのが一点と、この話を信奉していた担任の先生はものすごい生徒思いのめちゃくちゃ良い先生だったというのがある。まあ、ピュアだったのかな、という。なんというか。な。

 「笑顔という魔法」は、俺が忘れられない「水からの伝言」の再来だ! と思って、授業で扱ったときに「こんな文章信じるなよ」と生徒に言って聞かせた。なにしろ教科書に載ってるのだ。謎の「実験」から意味不明な結論を導く大人になってしまう。

 授業後、いやぁとんでもねえ文章があるもんだな、と思いながら講師室に戻ると、別の教室で同じ単元を授業していた先輩の先生が興奮気味に戻ってきた。

 「俺先生、『笑顔という魔法』読んだ?」
 「ああ、さっき授業でやりましたよ」
 「あれめっちゃ良いね! 感動しちゃったよ」

 目をキラキラさせながら俺に言ってきた。まじか。まじかよ。
 その先生も生徒思いのめちゃくちゃ良い先生だった。

 そうだな。うん! 色々考えると、俺が教壇に立つのはとにかく向いてなかったんだな!

 塾の仕事を辞めるとき、生徒たちへのせめてもの償いに、近くの神社に行って1万円を賽銭箱に入れて拝んだ。第一志望に合格できますように。

 彼らももう高校生になったはずだ。楽しく高校生活を送ってくれてるといいが。それだけが俺の願いだ。

 今となっては良い思い出である。

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