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生きることを目指して

生きることは悪いことなのだろうか。その答えは誰にもわからない。

思えば、人生に何度も挫折して、私は何度も死ぬことを選んでいた。

長い

トンネルから抜け出せない というよりも

「早く楽になりたい」

「間抜けな惑星から抜け出したい」

「僕は必要とされていない」

そんな一心で。

けれども。生きることを選択したことが間違いではなかったこと。死ぬことよりも、やり忘れたことをやり通したい!

そう思った経緯を、徒然なるままに、書いていこうと思う。

最後までお付き合いいただけたら、うれしい。

1優等生であり続けなければならない学生時代

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「よし、今月のテストも学年1位だな。これなら早慶上智は簡単だろ」

学校の先生からは、常にこの言葉が決まり文句だった。

特に進学校ではなかったが、偏差値的には50そこそこの学校のちっぽけな学生だった。

担任の先生からは、進学か、公務員を常に推薦されていたし、同級生からも一生安泰のレッテル。

父からは、

「勉強ができて当たり前だろ」

のセリフを吐くほど聞いた。

「はい。わかりました。」

その言葉をつぶやくだけで、私は心底辛かった。

この世に安息な場所などないのだ

そう思うと、涙も出てこない。

ただ、点数だけを追い求める日々。

形だけの 学年1位は、承認欲求さえ満たされない。

クラスメイトが、「はまーってすげえよな。。がり勉なんて。」

そう、周囲のガヤガヤの中でささやかれれることが、とても悲しくも感じたのだ。

「いつでも心は満たされない。けれど、優等生であり続けなければならない。」

周りの期待だけが、重責になっていただけだった。

そして、形だけの「学年1位」の看板だけが余計に重荷に感じるのだった。

思えばこれは、一つの 挫折だった のかもしれない

2結果を求められる

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ただ結果だけが求められた。

学年で順位を1位でも落とそうものなら、父や先生から「何をさぼっているんだ!」

そんな怒号が飛んでくることも多々あった。

「ごめんなさい。頑張ります。」

これが私の合言葉になった。

必死で順位を保つためにも、周囲の期待に応えるためにも、「できないのは自分の努力が足らないから。」

そういう気持ちが強く出ていた。

高校3年の、進学か就職かものすごくナイーブになっていた時、私はあえて就職を選んだ。

家庭的な事情(学費が賄えない)などの都合もあったが、勉強に疲れ果てていた自分もいたことが大きい。

就職面接は、大手ばかりを選んでいた。

公務員試験は、税金でメシを食いたくない一心で、応募すらしなかった。

JR東日本 東京メトロ セブンアンドアイホールディングス ソフトバンク etc...

これらの他にも、出版社なども検討したが、東京メトロとセブンアンドアイホールディングスの就職面接に行くことに。

父からは「将来倒産しない大手を選べ」

この言葉だけを鵜呑みにしていたからだ。

鉄道系の東京メトロは、面接で不合格。

面接を担当してくれた人事課長からは

「あなた自身が見えてこない。」

と、眉間にしわを寄せて言われたことがものすごく印象的だった。

落ちた原因は、ほかにもたくさんあるだろうが、毎年何百人もの応募のある会社の人事の方は、人を見る目に物すごく長けていたのかもしれない。

滑り止め感覚で受けたセブンアンドアイホールディングスは、書類選考に通過して、面接(一次面接・二次面接・最終面接)に通過して、見事入社の運びとなった。

学校でも、家族からも喜ばれたが、私の表情はどこか重かった。

「エリート街道まっしぐらだな」

その父の言葉は、私にとって鋭いナイフのようなものだった。

入社する会社でさえも、巷に知られている会社かどうかで周囲の期待に応えなければならなかった。

ただ、進路さえも結果。結果。結果。

心底疲れ果てていたかもしれない。

3理想の自分

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理想の自分は、心を開ける相手が欲しかったのかもしれない。ありのままに辛いといえる相手。ただそれだけ。それで、心穏やかにすごせる姿を手に入れたかったのだろうと。

今思えば、当時の自分とはなんだったのか、そう思うばかり。

数字だけの日々。

結果を求められる日々。

ものすごく、生きづらかった。

その為にも、逃げ場が欲しかったんだよね。

だからあえて、勉強から逃げたし、親の期待や学校という名の地獄も、とても苦しかっと。そう思った。

ただ自分の気持ちを、誰かに受け止めてほしかった。

入社してからは、同僚とも良く飲みに行ったし、休みの日はバカ騒ぎもした。

お客さん相手の仕事だから、同僚同士で仕事のアドバイスとか、いろいろやったことはとても印象に残っている。

その甲斐あってか、私が所属していた部署は、前年比の売り上げ100%以上を毎月達成していたし、商品の企画なども少し任された。

勉強以上に楽しいと感じていたのかもしれない。

気の知れた同僚同士で、カラオケに行くのも、飲みに行くのも。少し悪ふざけをするのも。

ある意味、社会人を満喫していた瞬間かもしれない。

「自分の家にいるよりも、安らかになれるのは、職場と会社の仲間とかかわっている時間」

そう。ある意味、外の世界が、自分らしくいられる、理想の自分に近かったのかも。

4いい人に見られたかった

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理想の自分になれるかもしれない空間を見つけた私は、いい人であることがほんとの自分なのだと錯覚した。

優しい人。怖い人。怒りっぽい人。理屈っぽい人。おとなしい人。

世の中には、様々な人がいるだろう。

みんな違ってみんないいという、ありきたりなオノマトペ。

その中の何にも当てはまらない

「いい人」

私は、いつのまにか、そんな自分に成りすましていたのだろう。

「嫌われるのが、怖い」

「今の職場の関係を崩したくない」

「生きるためには、自分を隠さなきゃ」

そんな気持ちが、おそらく自分を取り繕っていたのだろう。

人目が気になって仕方なかったのだ。

そう。学生の頃のように、一言一言が、気になって仕方なかったかのように。いい人ぶること、周りに合わせることで、やっと人間関係が維持できているとかとんでもない勘違いをしていたのかもしれない。

職場は学校と違って、友達ごっこの場所ではないが、チームワークが求められる分、ある程度の信頼関係が必要になる。

周りを見渡すと、同僚はすでに出世しており、結婚した人もいると聞く。

私は、どんどん周りからおいていかれて、「いい人ぶる」ことで、なんとかコミュニケーションを保とうとしていた。

そんなある日

休憩時間中に、同僚から

「はまーって、何考えているか分からないから、ぶっちゃけ苦手」

そんなことを冗談交じりのように言われた瞬間に、何もかもがどん底に突き落とされた気がした。

陰口や、無視もされるようになり、段々生きることが嫌になるようになる。

私は、「ただ、いい人。都合のいい人」

そんなことを考えるだけで、とても苦しくなった。

独りよがりだったかもしれない。勘違い野郎だった。

そんな自分はだんだん「いい人」であることが、そんな自分がものすごく醜かった。

自分を作るだけの「いい人」であることは、相手にとっては、鬱陶しかったのだろう。

いい人ってなんだろう。そう考えるだけで、こころが、きもちが挫折する。

「悲劇のヒロインのためのいい人だったのかなあ。。。私は。」

5結局、頼れる人はいなかった

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「誰かに頼っていいから」

あるひ、そんなことを誰かに、夢の中で言われた気がする。

あくまでも夢。されど夢。私の心は、心底疲れ果てていた。

夢の中で、誰かと結婚する夢、必死にもがき苦しむ夢。いろいろ見たっけな。

最後には、ハッピーエンドになるのだけれど、結局現実は何も変わったことは起こらない。

総武線の電車の中で、満員電車に揺られながら、おしくらまんじゅうのようにひしめき合うビジネスマンたち。

彼らもまた、孤独だったのかもしれない。

わたしは、その中の一人で、悩んでいるのは、私一人ではないということを、胸にかみしめながら、会社の歯車になっていたのだろう。

ある日、いつものように出勤しようとすると、体が動かない。

石のように重たくて、知らない間に涙が出てきて。

結局、その日は出勤できずに、家にいるしかなかった。

実家暮らしだったが、誰にも助けを求められなかった。

休んだ日、午後6時ごろ、そのまま駅のホームになぜか向かった。

何もかもがいやになって、ただ、ホームにたたずんでいた。

いつもの快速電車が、駅に進入しようとしたとき、私は電車に吸い込まれそうになった。

飛び込みを図ろうとしたのだ。

でも、なんだろう。途端に怖くなって。死ぬのが怖くなって。足がうまく動かなかった。

結局、その日は何もしないまま1日を過ごしていた。

時間はあっという間で、恐ろしく残酷だった。

よるは思うように寝付けず、寝不足のまま会社に向かった。

とてもきつかった思いが強く残っている。

両親にも何も相談できずに、ただ「いい人」を家の中でも演じ続けることで精いっぱいだった。

「どうせ自分は。一人だ」

そういう思いばかりが、強くなっていく。

世の中ハッピーエンドで終わることが、珍しいことなのかもしれない。

夢の中の世界は、自分自身が

「こうなりたい!」

そういう意思の表れだったのだろう。

きっと、きっとだけど。救いを求めていたんだよね。

1人でも、頼れる人が欲しかった。

そうして私は、会社を辞めた。

その後も、ただ職を転々としたが、どこもうまくいかず。

頼れる人は、私にはいないかのように。

そうしているうちに、死ぬことばかりを考えるようになる。

ただひたすら、孤独な世界で。

6疲れて自殺未遂~警察に保護される

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精神科に通うようになり、診察室では、先生の前で号泣ばかりしていた。

ちょうど、1人暮らしを始めたころだった。

薬の量は増えていって、薬で生かされている感じに近かった。

定期的にカウンセリングも受けながら、一時は少し前向きになれた気がした。

でも、そんなある日、いろいろなことがどうでもよくなった。

「薬漬けになるなら、一層のこと死んでやる」

やけっぱちだったのかもしれない。

けど、ある意味ね、社会や人間関係に対する絶望や怒りだったのだと思う。

よく、死ぬ人は「心が弱い」ということを聞くけれど、私はそうは思わない。

むしろ、頑張ってきた。人一倍ね。

だから、最後の力を振り絞って、何かを終わらせたい感情が強いんだと思う。

私もその一人だった。

処方されている眠剤20錠以上と、抗不安薬20錠以上を飲んで、酒を浴びるように飲んだ。

「もう目覚めませんように」

そんなことを強く願って、眠りについた。

気が付くと、警察と救急隊が、私の家にいた。

「なんで?」

そう思った。

どうやら、母が通報をしたらしい。

「大丈夫?苦しくない?」

警察官や、救急隊の呼びかけに、私はうなづくことも難しかった。

布団には、血を吐いていたらしい。

段々意識が戻ってきて、少しずつ返答ができるようになって

「よかった、生きててくれて。お母さんが心配してたよ。通報してくれたの。様子がおかしいからって。」

どうやら、薬を飲んだ後、母に何度も「もう死ぬね、ありがとう」と電話口で伝えていたらしい。

それで、心配になって、通報してくれたのだとか。

その場でも、私は子供のように大声で泣いた。

警察官の方が、ものすごく話を聞いてくれたのは、とても情けない自分がいた。

「はまーさんは頑張ったんだね。でも、今は頑張らなくていいよ」

そんなことを伝えてくれた。

といあえず、救急搬送はされずに、そのまま警察で一晩過ごすことになった。

保護というらしい。トイレもなぜか監視される。食事も監視される。

「とんでもないことをしてしまった」

という思いと同時に

「ごめんなさい」

という言葉が、口からあふれ出していた。

7精神科閉鎖病棟入院~社会復帰

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翌朝、身元引受人で、母が訪れた。

警察官と、母が何かを話していた。私には、知らされなかった。

「今までなにもしてやれなくてごめん。」

母から、の言葉だった。

そのまま、少し雑談をして、警察を後にした。

外の空気は美味いような、不味いような。不思議な感覚だった。

そのまま、精神科に向かい、入院の話で調整された。

タクシーで入院先まで母と一緒に向かうと、まずは診察を受けた。

先生からは「少し、お休みしよう。ゆっくりやっていこう」

とのことで、そのまま病室へ。

初めての閉鎖病棟だったが、普通の病院の病室と変わりはなかった。

よく、ひもで縛られるとか、そんなことを聞いていたが、そんなことは一切なかった。

強いて言うなら、鍵がかかったところが多いくらいかな。

飛び降り自殺とか、薬をいっぱいのまないようにする為、命を守るためらしい。

その日から、私は入院生活を送るようになった。

決まった時間なら、外出は可能だった。スマホも使えた。

午前中に、外の空気を吸って、午後に、病棟に戻る生活も、なんだか新鮮味があった。

突然、泣き出してしまったり、看護師さんに話を聞いてもらったりした。

その時にかけてもらった「大丈夫、大丈夫」が、とてもやさしかった。

「退院したら、自分は人の役に立てる仕事をしたい」

そう漠然と考えるようになった。

少しずつ、症状もよくなって、薬も2種類ぐらいになったとき、退院の話が出てきた。

先生からは「少しずつでいいから、自分の悩みを話す練習もしていこうね」

少しずつ。少しずつ。

一気にやらなくていいと分かったとき、心が軽くなった気がした。

「自分は優秀でなければならない」

「自分はいい人でなければならない」

そんな呪縛から、解かれるきがした。

約1か月入院して、退院の日になると、母が迎えに来てくれた。

そのまま、一緒にご飯を食べて、家に帰った。

更に2か月ほど休んで、入院中に考えていた「誰かの役に立てる仕事」

を探すようになる。

どの仕事も誰かの役には立っている。

その中で、「困っている人を助けたい」

という気持ちが強かったのだろう。

8どうせやるなら人助けかな!

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何度も、大丈夫の言葉に、入院中救われた。

「生きてていいんだよ。泣いてもいい。頑張ってきたんだから。」

入院中看護師さんに言われるたびに、いつも泣いてたな。

ものすごく、助られたし、救われた。

いつも安心感を与えてくれるのは、看護師さんだった。

そこから「今度は自分が、だれか困っている人の役に立ちたい」

仕事は、無理のない範囲で、探し始めていくようになる。

「人助けってどんだな仕事あるのだろうか」

調べていくと、福祉や介護の仕事が目に留まるようになる。

少しだけ、介護の仕事をしていた時期もあり、資格は持っていたため、介護の仕事で求人に応募するようになる。

複数社に応募して、グループホームで採用が決まり、そこで働くようになる。

「ここからまた始めていくんだ!」

期待が強かった。

仕事も少しずつ覚えていって、利用者さんとかかわる時間が、やりがいにも感じられた。

「ありがとう」

の言葉をもらえただけで、うれしい気持ちになったし、この仕事を見つけてよかったと思う。

相手も人間なので、定期的にメンタルが落ち込んでしまうこともある。

そんな時は、傾聴しながらとにかく話を聞くことに重点を置くようにしている。

自分が辛いときは、そうして欲しいから、ということを念頭に置いて。

職場でも、少しづつなじんできたと感じている。

辛くなったら「大丈夫」をお守りに自分に言い聞かせるようにしている。

生きてて、良かったかもしれない。

9おわりに 「大丈夫」生きてるだけで、オッケー

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さいごに、私から皆さんへ。

生きていると、辛いことや苦しいこと、死にたいこともたくさんあると思う。

私も、今回書ききれなかった分も含めて、挫折だらけの人勢だったと思う。

崖っぷち。まさに崖っぷちだった。

死ぬことしか考えられなくて、生きることが、バカみたいに思えてね。

それで、自殺を図って。

「なんて世の中は不公平なんだろう」

そんなことばかり思って、絶望してた。

けどね。

生まれてきたら、生きる権利がある。

ただ生きるだけで、いい。

辛いときは、何もしなくていい。

「死ぬな!」

って無責任なこと言う人もいるけど、ほんとは死にたいんじゃなくて、頑張りすぎちゃっただけ。

だから、そんな時は、ひとやすみ、ひとやすみ。

生きてていい。

空は、今日も青いよ!

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