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『さよなら絵梨』の雑感。“美しさ”を押し付けるのは“暴力”と同じじゃない?

『さよなら絵梨』の感想その2。

『さよなら絵梨』のネタバレ含みますので作品を読んでいない方は読んでからお越しください。



何度も読んでからの感想。

『さよなら絵梨』、何度読んでも優太はかわいそうな少年だなぁ、と思う。
お母さんや絵梨については美しい部分しか映像を残していないのに、優太はやっぱり“汚い部分”ばかり引き受けている。スマホで「ぼくの今の顔」と言って映ったときは変顔をしていたし、家族写真でも変顔をしているし、クソをする動画も撮っている。そして“自殺宣言”という、心の“闇”までさらけ出している(ただ優太の自殺願望が本音なのか演技(演出)なのかは不明だが)
彼はどうしてそこまで自分の“汚い部分”ばかり映像に残そうとするんだろう。

思えば優太はみんなから“美しさ”ばかり要求された。
美しく見える構図で撮らないとお母さんに怒られた。
絵梨を撮った映画でみんなが感動していたのは美化された絵梨が美しいまま最後を遂げたからだ。対してお母さんを撮ったときの映画をみんなが罵倒したのは、観客が作品に対して“美しさ”しか求めていなかったからではないだろうか。
あるいは観客個人が”自分のお母さん”を優太のお母さんに投影したからかもしれない。
観客は“優太と優太のお母さんのドキュメンタリー”を観ていたはずなのに、いつのまにか“観ている自分と自分のお母さんのドキュメンタリー”として映画を観てしまったからこそ“爆発オチ”を“クソ映画”と評したのだと思う。あるいは“こうあるべき”という押し付けと“こうあって欲しい”という願望で映画を観てしまったがゆえに、観客はドキュメンタリーを撮った当の本人のことを忘れてしまった。スクリーンから優太の存在が消えてしまった。

優太のお母さんは優太を虐待していたし、絵梨はすぐキレるし自己中で嫌な少女だった。もしみんながそれを知っていたら、ラストに爆発を取り入れた優太の気持ちを理解できただろうし、絵梨の死にも感動出来なかったと思う。
観客は優太がどんな想いでお母さんを撮っていたのか、そしてどんな想いで絵梨と映画を撮っていたのか、その優太の“背景”には一切想いを寄せることなく、スクリーンに映された“美しさ”にしか共感しようとしない。
もちろん、その“美しさ”だけを編集したのは優太自身だし、観客に“美しさ”だけを提供しようとしたのだから、映画を観た人が“美しい人”に共感してしまうのも無理はない。
彼は“ドキュメンタリー”を撮っていたわけだけど、編集を続けるうちにいつの間にか優太の中で“フィクション”へと変化していったのも事実である。ただ優太自身もリアルとフィクションの区別をしておらず、“美しさ”が観客を喜ばせ、それが自分の勝利(ピース)だと思い込んでいた。
その幻想が壊れたのが絵梨の友達の言葉だ。

「あの絵梨さ ちょっと美化しすぎ だけど私  これからもあの絵梨を思い出す ありがとう」

優太は感謝されてしまった。
優太が“フィクション”として編集した映画が、観客の心の中で“リアル”に変換されてしまったのだ。

この友達の言葉を聞いた優太はどう思っただろう。
自己中なお母さんと絵梨との撮影はものすごく大変だったんじゃないだろうか。
漫画ではブレた映像のあと、真っ黒なコマが続く。

ぼくだったら絶望すると思う。

これは映画なのに、それが“リアル”だと思われてしまったら、優太がお母さんと絵梨から受けてきた理不尽を誰も真実だとは思わないだろう。美化されたお母さんと絵梨が観客にとっての“リアル”になってしまったら、一体誰が優太の心の傷を知ることが出来るだろうか?

“汚い部分”を誰も思い出さない、誰も思い出そうとしないなら、優太の受けてきた傷も、誰も思い出さないということだ。

優太は絵梨の友達の言葉を聞いた瞬間、
自分の存在がフィクションに塗り潰されてしまったと感じたのではないだろうか。

“美しさ”が“汚い部分”を消し去ろうとする。“美しさ”ばかり追い求めて“汚い部分”を排除しようとするのは暴力行為に等しいのではないか?
“汚い部分”ばかり引き受けてきた優太はその存在を否定されたも同然だ。

優太のお父さんは優太に
「人をどんな風に思い出すか決める力があるんだよ」と言った。
ぼくはこの言葉で「酷い父親だ」と思った。だって優太が酷いことされて、自分が何も出来なかった“汚い部分”を無かったことにしようとしていると感じたから。
だけど酷いお母さんを知っていながら、

それでもお父さんにそう思わせたのは優太の映画の力がそうさせたのだ。優太の映画には“美しいお母さん”しかいなかったから。そして優太自身、「思い出す時は綺麗に思い出したかったから」と言ったことでお父さんは優太もお母さんの“汚い部分”を排除しようとしていると感じたと思う。

「思い出す時は綺麗に思い出したかったから」
「人をどんな風に思い出すか決める力があるんだよ」
「だけど私  これからもあの絵梨を思い出す」

この台詞たちは確かに美しい。だけどこんなのは綺麗事だ。ただ“フィクション”としては大正解なのかもしれない。
…?大正解なのか…?
よくわからないけど、

だけどお母さんと絵梨の死は現実に起こっていることなのであって、決してフィクションなんかではないのに、
スクリーンの枠を越えて、まるで“美しさ”しか思い出さないようにすることが“正しいこと”であるかのように思い込んでいる。

ぼくに“美しさ”だけを思い出すことが“正しいこと”ではない、と思わせてくれたのはお父さんの台詞だ。

「お父さん 優太がお母さんに酷いことされてるって気付いてたんだ でもお父っ お父さんそういうの見ないふりして 何も問題はないことにしてた…ごめんなぁ」

見ないふりをしていたお父さんは酷いし、間違ってたと思う。だけどその汚い部分を思い出して懺悔しようとするその心は美しい。
汚い部分を消し去って美しい部分だけ映像に残そうとしたお母さんや絵梨より、よっぽど美しいと思った。












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