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『さよなら絵梨』の雑感。爆発は“ひとつまみの現実”

『さよなら絵梨』の感想その3。(途中)

以下、『さよなら絵梨』のネタバレ含みますので読んでいない方は作品を読んでからお越しください。


何度も読んだ感想。


□お母さんと爆発について

優太は一体どんな気持ちでお母さんを撮り続けていたんだろう。
優太はお母さんに怒られ、叩かれながらそれでもお母さんの“撮って欲しい”という希望を体現し続けた。
ただ単に優太が盲目的にお母さんに従っていたのか、
もうすぐ死んでしまうのは可哀想という同情からなのか、
酷いお母さんだと恨みながら、それでもお母さんが大好きだから自主的に撮っていたのか、
もっと他にいろんな理由があるのかもしれないけど、
どんな理由であったとしても優太がお母さんを撮り続けたことは事実だし、
撮り続けるという優太のその行為はお母さんへの愛に他ならないと思う。

ぼくははじめ『さよなら絵梨』に感動して泣いた。
泣いたけど、その理由がわからなかった。正直今でもよくわからないけど、たまに眠る前に『さよなら絵梨』を思い出してぼろぼろ泣くくらいには感動してしまっている。
たぶん優太のお母さんへの愛に心を打たれたのかもしれない。お母さんへの愛を断ち切ることが出来なかった優太に。お父さんの懺悔にもグッときてしまうんだよね…。
“爆発オチ”はむしろお母さんへの反抗でもあるんだけど、無関心だったらそもそも反抗心すら起こらないと思うんです。爆発が優太の、お母さんへの愛の大きさを物語っているというか。もしも観客が『デットエクスプローションマザー』に感動して泣いてくれたら優太はちゃんと生きようって思えたかもしれない。
この間の感想でぼくは「優太の背景を見ようとしていない」って観客に対して怒っていた気がするんだけど、観客だけを責めることは出来ないなぁと思えてきた。絵梨が言う「幼い作品」というのはたぶん“伝わらない表現”を指しているのだと思う。“綺麗なお母さん”だけ見せて突然“爆発”するんだから“優太の気持ちを考えろよ!”という方がムチャである。このあたりの優太の過ちは藤本タツキ氏の前作『ルックバック』への反省なんじゃないだろうかと思う。いや、ぼくは通り魔の登場がチープだなんてこれっぽっちも思わなかったけどさ。

…話が逸れてしまった。

優太は自分のことを
「思えばずっとそうだった 僕は目の前の問題を客観的に見てしまう癖がある」
と言っていた。
優太はスマホでお母さんを撮影している間、ずっと“観客”のような感覚だったのかもしれない。特に印象的たっだのが
優太が自分の腕の傷を「イタそ~!」と言っていたこと。”痛い”ならわかるのだが、“痛そう”という表現は完全に他人事になっている。さらに
「お母さんがもうダメかもしれないみたいです」と報告したあと「ぼくはまだなんも考えられないです…だから悲しくもない」と、お母さんの死すら自分事として受け入れていない。そのあと「いや、悲しいです」と付け加えるが、
優太の本音は“なんも考えられない”だと思う。お母さんの動画データは100時間を越えている。それだけの時間をかけてお母さんとお母さんの死に向き合っていたはずなのに。

だけど優太が現実と向き合えないのはお母さんが発端だったとぼくは思う。
お母さんはずっと“綺麗なお母さん”を演じていたわけだから、優太はお母さんじゃないお母さんを撮っている感覚だったはずだ。“綺麗なお母さん”は優太にとって“ファンタジー”だ。だけどお母さんは、“綺麗なお母さん”という嘘をドキュメンタリー(現実)として優太に撮らせていたから、優太の中にある“現実”と“ファンタジー”の境界線が曖昧になるきっかけになったと思う。
『デットエクスプローションマザー』を見た観客は“ドキュメンタリー”として映画を見ていたから爆発オチに納得出来なかった。(たぶん優太のお母さんがこれを見たら観客と同じように“クソ映画”と罵倒しただろう)
だけど優太にとって“綺麗なお母さん”こそ“ファンタジー”だったのなら、そのファンタジーの最後に“爆発”を加えることになんの躊躇もなかった、

いや違う、いや、なんて言えば良いんだろう???優太はお母さんに“綺麗なお母さん”こそ“ドキュメンタリー(現実)”だと刷り込まれているから、“爆発”も優太にとっては“現実”表現だったとしたらどうだ?
“綺麗なお母さん”がいる間は優太はお母さんの言いなりになって動画を編集していたと思う。だけどお母さんがいなくなって最後、優太が自分の意志で取り入れた“爆発”だけは優太にとってたったひとつの“本当の気持ち”であり、“現実”だったのではないか?
そう、優太目線で『デットエクスプローションマザー』を見るなら、“うわべ(見た目)”だけ見れば“綺麗なお母さん”はファンタジー“だし“爆発”も現実ではあり得ない“ファンタジー”である。でもお母さんの“中身(裏側)“を優太は知っているから、優太は自分の心の裏側として“爆発(優太の中身)”で表現したということだと思うんだよね。
優太のなかで“綺麗なお母さん”はドキュメンタリーであると同時に“ファンタジー”であったのなら
“爆発”も優太にとって“ドキュメンタリー”であると同時に“ファンタジー”だったということだと思う。(これってもしかして創作の真髄なのでは…?)

ちょっと待って…頭おかしくなってくる…。
この感覚を皆さんにお伝えできているのかよくわかりませんが
このnoteは幼い感想なので次に進みます(コラ)


たぶん優太は『デットエクスプローションマザー』を作って公開した時は現実とファンタジーの区別はついていたと思う。だからこそ先生に「最高だったでしょ?」と言った。
だけど観客にはファンタジーであることは伝わらず(先程も言ったが観客がドキュメンタリーと思うのも無理はない)“クソ映画”と全員に罵られ、現実の優太の倫理観まで疑われてしまった。優太の中の“ファンタジーと現実の境界線”が壊れはじめたのはたぶんここからだ。優太のお父さんは「優太はちっちゃい頃からファンタジーをひとつまみ入れちゃうんだよね」と言っているが、それはお父さんの主観から見た分析であり、優太にとってはお父さんが怪獣に見えたことは紛れもない事実だし、キリンとしゃべっていたのは本当におしゃべりしていただけだと思う。
優太の現実は完全否定され、ファンタジー(綺麗なお母さん)が擁護された。ファンタジー(お母さん)が正義とされ、勝利してしまったのだ。

□絵梨について

絵梨は優太のお母さんに似ている。絵梨は現実では眼鏡をしていたり“嫌な女”だったりと、映画の中の絵梨とは違う女の子だった。
絵梨も優太の中の“現実とファンタジーの境界線”を破壊したひとりだ。お母さんの時には撮れなかった死を、絵梨の時には撮れているし。
優太はお母さんのときは“死”というものを“現実”として捉えていたから逃げ出して爆発にすり替えた。

絵梨の“死”を撮れたのは優太にとって“死”すら“ファンタジー(観客的)”になってしまったからだ。

「思えばずっとそうだった 僕は目の前の問題を客観的に見てしまう癖がある」

優太は“目の前の問題(現実)”を“ファンタジー(客観的)”にしか見れない。映画館の観客のように。優太は『デットエクスプローションマザー』まではちゃんと区別できる少年だったと思う。当事者ではなく観客のひとりとして。

絵梨は”優太の中の現実とファンタジーの境界線”を壊したうちのひとりだ、とさっき書いたのでその理由について説明したい。
優太にとって絵梨の存在はものすごく大きかった。唯一優太の映画を理解してくれた。絵梨はお母さんが酷い人だったこと、そして酷いお母さんだからこそ優太が爆発オチを選んだことを絵梨は共感してしてくれた。この時優太は、自分の心に潜む“現実(爆発)”を絵梨だけが理解してくれたと感じたと思う。
しかし絵梨の話しぶりからして絵梨は優太の映画をドキュメンタリーではなくファンタジーとして見ていることがわかる。つまり絵梨は“爆発”をリアルの優太自身の心ではなく、“キャラ(ファンタジー)としての優太の心”であると捉えていた。このふたりの感覚のズレは致命的だった。




…わけがわからなくなってきたので一旦区切ります。
後日更新します。





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