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「ポストコロナの生命哲学」を読んで2

「ポストコロナの生命哲学」読後感想

前回のレジュメを踏まえつつ、徒然なるままに思い浮かんだことを中心に感想を書いていく。


死の恐怖を増大させたロゴス

行き過ぎたコロナ対策の例として、文中で移動の自由を犠牲にする監視システムに対する批判があったが、それによって助かった命もある/あったはずだ。
その助かった命が、もし我が子であったら、移動の自由を犠牲にしたロゴスに感謝すらするだろう。
「死ぬよりはマシだ」と。
誰かの死と天秤にかけたときに勝るものはない、というのが現代の死生観であり、コロナ禍においてそれを利用しようとする権力が批判されたこともあった(ジョルジオ・アガンベン。生存以外のいかなる価値をも認めない社会)。

恐らく、現代は人類史上もっともロゴスが力を持ち、同時に死が「重い」社会であろう。
今よりずっと死が「軽い」社会であった過去では、例えば江戸時代までは「切腹」があった。
死よりも「重い」価値観、例えば名誉や家の存続などのために、人は命を投げ出していた。
こうした、人の命よりも「重い」価値観があったということは、現代人には理解しがたいだろう。

現代の「ロゴス」の台頭は、死を「重く」し、その恐怖を増大させた。
ロゴスは、かつて生活の中に存在した死を、生活の中から病院や介護施設へと遠ざけた。(遠逃現象。内山節『新・幸福論』)
また、医療の進歩や少子化による死亡率の低下も、死を受け入れがたいものにしていった。
ピュシスの理不尽さを説明しようとする宗教や輪廻転生という考えかたは、死の恐怖を和らげるものであったが、それらも近代化とともに力を失っていった。

これらについては、個別の死と人類の死を分けて考えるべきという議論もあるのだが、政治や学問ではなく生活に根指した地点をベースにして考えると、なかなか両者は分けがたい。
本でも、ピュシスVSロゴスの図式は、種の保存VS個の保存という図式(P.30)であるとあったが、生活の中で「種の保存」についての視点を持つことは、普通はとても難しいことである。
 

「ピュシス」「ロゴス」とはなにか。

この本の重要な点は、ピュシスとロゴスという二元論でコロナを捉えようとしたことで、かえって普遍的で広がりのある議論が展開されたという点だ。
二元論は結論は、得てして両者のバランスをとるということのみが、着地点にはなりがちではあるのだが、とてもわかりやすいことは大きな利点である。
だが、その出発点である「ピュシス」と「ロゴス」とはそもそも何か。
本を読み進める中で、自然と論理と説明されてわかったつもりにはなっていたが、もう一度よく考えてみる必要があるだろう。

「ピュシス」とはなにか。
私は、「ロゴスで説明しがたいことのすべて」だと思う。
あえてトートロジー的ではあるのだが。

生命の素晴らしさや尊厳、結婚や出産は「ロゴス」からしたらずいぶんと非効率的であるといえる。
愛や感動や芸術など、目に見えないものも「ロゴス」だけでは説明が難しい。
「本当に大切なものは目に見えないんだ」(サンテグジュペリ『星の王子様』)ということもある。

私が大学で学んだ社会学は、ロゴスがとても優位である学問だ。
そのため、私はそれだけでは社会や現象は説明しきれないと感じ、生物学や遺伝学や脳科学や心理学にも傾倒した。
生物学や遺伝学や脳科学や心理学は、今改めて考えてみれば「ピュシス」寄りの学問だと思う。
自分の中でも「ピュシス」と「ロゴス」のバランスを取りながら考えてきた、あるいは生きてきたのだと、この本を読んで自覚した。

「ロゴス」を突き詰めていくと、「ロゴス」で説明できなくなる領域に必ずぶつかる。
そこから先がピュシスであり、あるいは「神」の領域といってもよいのではないか。
「ロゴス」の限界が「ピュシス」とも言えるのではないか。
神道などのアミニズムやポリシズムは「ピュシス」を擬人化し、ある意味ロゴス化しようとしたものとも言える。

生の中のピュシスとロゴス

「ロゴス」では「なんのために」を求めるが、本来「ピュシス」は、ただ存在するだけで、何も目的はない。
「なんのために」と考えるのは人間の脳の癖だという(養老孟司)。
例えば「手を動かす」という目的があって、脳から手の筋肉に指令を出す、という構造が脳の特徴であり、それゆえに、脳で認識するものには、目的や意味や意思を見出そうとしてしまうらしい。
例えば、地震には意味も意思もないが、江戸時代以前は日本人はナマズが起こしていると思われていた。
人間は、そうして理不尽に命を奪っていく自然の厳しさに対して、超自然的な存在や、神の試練という意味づけをしてなんとか生きてきた。
現代では地震などは科学で説明できるようになり、「神は死ん」で(ニーチェ)、代わりに科学という「ロゴス」が台頭した。

人間が生きていること自体は本来「ピュシス」であり、そこにとくに意味はないはずだ。
生まれたばかりの赤ん坊は、生きている意味を考えない。
ただ生きているだけだ。
言語を獲得していくことによって、生に意味を付与し、なぜ生きているのか、と哲学が生まれる。

また、社会から生の意味を説明しろと突きつけられるのが障害者だ。
例えばALSでは、全身の筋肉が動かさなくなっていき、2~3年で呼吸をする筋肉まで動かなくなっていく。
現代の医学でも原因は不明。
まさにピュシスだ。
ALSに罹患した約3割の日本人は人工呼吸器をつけることによって、人工的に生きながらえるが、この状態は生の「ピュシス」を失っているともいえる。
そのため、「ロゴス」で生を捉え直さないといけなくなる。
すなわち、なぜ自分は人工呼吸器をつけてまで生きるのか、を「ロゴス」でもって他人に説明しなければいけないのだ。
実際に、ある病院ではALSで人工呼吸器をつけるというと、なぜつけるのか、なぜそこまで社会資源を使ってまで生きながらえるのかと言われるという。
ALS患者からすると、「生きたいのに理由があるのか。」とか、「健常者は生きる意味を説明しろと強制されることはないのに。」と憤るようだが、失った「ピュシス」の代わりに「ロゴス」を尽くすことを求められているという現象だともいえる。

このように生のピュシスを失うことで、差別されたり、責められたりするという行為によって、この「ロゴス」偏重の現代であっても、生命という「ピュシス」の重要さを、無意識のうちに人々が認識しているという証拠にもなっている。
DNAの編集や人体実験への倫理的な抵抗感、刺青やピアスなどの肉体改造への抵抗感なども含めて、いたるところに生の「ピュシス」へのコミットメントが立ち現れている、ともいえる。

そもそも生は「ピュシス」なのだから、意味などない、意味を求める「ロゴス」とはまったく別次元にあり、「ただそれだけで素晴らしいのだ。」という共通認識が万人にあれば、こうした障害者への差別は生まれない。
生が「ピュシス」であるということ自体が「生命の尊厳」であり、それだけで尊重されるべきなのだが、現実的には難しいようだ。

コロナに意味はない

コロナも同様に「ピュシス」であるから意味を問うことは本来ナンセンスだ。
だが、地球が環境を守るために人間を減らそうとしているとか、資本主義やグローバリズムへの警鐘だとか、ピュシスからのリベンジだとか、神の意思だとか、人々はロゴスでもって様々な意味を与えて、納得しようとする。
ピュシスによって、意味もなく理不尽に大事な人の命を失うことは、人間には耐えられない。
不条理に耐えられるように人間はできていない。
そのため、何の意味もないコロナに対しても必死に意味をつけようとする。
しかし、これこそが人類の歴史でもある。

ネガティヴケイパビリティとピュシス

人間は答えが出ない状態が、大きなストレスとなるといわれている。
容易に答えを出せない状態に耐えられる力を、「ネガティヴケイパビリティ」という。
「ロゴス」の及ばない、答えの出せない状態が「ピュシス」とすると、その「ピュシス」をそのまま受け入れるには、ネガティヴケイパビリティが必要になるのではなかろうか。
 

「考えるな、感じろ」

これは有名な言葉だが、「考える」が「ロゴス」で、「感じる」が「ピュシス」だとも言い換えることもできる。
理由をつけないであるがままを受け入れる、感じるというネガティヴケイパビリティが必要なのかもしれない。

確かに、美しい山や海の風景は感じることでしか本質は捉えられない。
ひいては生命の尊厳も、愛も、感じるものだ。
「ロゴス」を尽くしたところでたどり着けない領域である。
 

 

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