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東日本大震災について 思い出してみる

取扱注意 8000字近い文章ですので、 なおかつ文章力が著しく低下しているので (いや、そもそも高くないが)是非お時間がある時にしか読まないでいただきたいと思います。また 、何が言いたいかと言うと、結果自分が 東日本大震災の時にしたことや思ったことがただただ書かれているだけなので 興味がない方は 華麗にスルーしてください。

0.20110311より少し前

小規模多機能型居宅介護を始めて5年目の僕は、制度化してすぐに始めたものだから、運営の仕方がわからず、自分なりに考えて 事業を作っていった。初年度はまだ東京都に20個ぐらいの小規模多機能型居宅介護しかなく、みんなどうすればいいか考えあぐねていた。そこで僕や有志で東京都小規模多機能型居宅介護連絡協議会というのを立ち上げた(素行不良のため首になった)。全国では小規模多機能型居宅介護はどのように運営されているのかということを知りたかったので、方々にお伺いして色々と勉強させていただいたものだ。 北は北海道から南は石垣島まで(笑)、様々な小規模多機能を見学した。2011年2月には東北の小規模多機能型居宅介護連絡協議会でお話をさせていただいた。確か山形に行ったのは初めてで、ずいぶん雪深かったのを覚えている。当時幸いなことに漫画ヘルプマンの作者くさか里樹先生 ともお会いさせて頂いた。東北の事業者連絡会の代表の方が 仙台にくさか先生を呼びたい(舞台HELPMAN!上映会)ということでしたので、打ち合わせをしたいというお話でお声かけを頂いたのだが、その電話のその日に 彼は上野まで出向いてくれた 僕は東北から上野までその日のうちに来てくれるなんて随分義理がたい方だなと感じた。これはくさか里樹先生のイベントに協力しなければいけないだろうなあと思った。少しだけ一緒に飲んで少しだけ仲良くなった 。主に仙台近辺の東北の方たちが夜光虫と言う仲間の団体を作っており、僕はその打ち合わせにお伺いすることにした。その打ち合わせの日時は3月28日だった。

1.20110311

東北はご飯が美味しいだろうなとウキウキしていたところに3月11日の地震が起きた。 僕はユアハウス弥生の地下で地震にあった 。東京でも大変大きな地震で地面が揺れてるというよりは世の中が揺れてると感じた。高齢者が心配になったので地下から1階に上がり 避難の準備をしようとすると、水槽の金魚は外に飛び出していた。 本社ビルの窓ガラスが割れていたり、東京でもそれなりに被害があった。 テレビをつけると、まさに 各地を津波が襲っているところだった。人が飲み込まれていた。家が流れていた。少しだけ仲良くなった彼に電話をかけたがつながらなかった。 この時僕は3月28日の打ち合わせは大丈夫かなとのんきなことを考えていた。

東京でもコンビニエンスストアが 何にもない状態になっていた 東日本全体が パニックになっていて 人は恐怖を感じた時に シェルターにでも入り込むように 無様に自分だけ助かろうと思うものなんだと 空になったコンビニの店を見て なんとなく寂しい気分になった。

2.繋がった

幸いなことに3月14日に彼と連絡が取れた。報道では 何千人もお亡くなりになったと流れていたので少し安心した。

●●電話の内容●●
『事業所も落ち着いてきました。現在、小規模多機能のほうは、定員25人中、20人が寝泊りしています。残りの5人は家で過ごすことができます。居宅のケアマネジャーも、自分の担当利用者の安否確認に奔走しています。海岸部の惨憺たる状況は目も当てられません。昨日は避難所に300枚のブルーシートを敷きました。ご遺体を安置するためのブルーシートでした。
ダムの復旧により、電気が断続的に通るようになりました。現在、WIFIが効かない。アンドロイドが使えない。iPhoneでネットにつなげるような状況です。発電機から携帯電話の充電を行っています。
 地域は、ガソリンの深刻な不足に悩んでいます。ガソリンスタンドの給油は電気を使います。手で入れることが出来るのは、災害時対応のガソリンスタンドだけです。今来ても、仙台から出ることが出来ない事態になります。
 また、石巻(製紙工場)の状況により、間違いなく、オムツ、尿取りパッドが不足します。現在困っているのはここです。何とかならないかと思っています。海岸部の事業所は本当に深刻な状況になっています。連絡がほとんど取れず、情報もわからない状態です。少しずつ、周辺支援に入っています。よろしくお願いいたします。』
 彼は 電気もガスも 開通していない中で 自分の事業所の周りの高齢者の安否確認をしたり ご遺体を確認するための 体育館でのブルーシート張りをしていたようだ 自分も食べ物に困っているだろうが 地域の高齢者のために 様々なところを回っていたと聞いている。 彼の事業所は将監というところだが、 自宅が仙台の東高速道路のすぐ近くにあり 高速道路でせき止められたものの ガレキが流れ込み水浸してあったようだ。

僕が彼の立場だった時にそのような行動をとることができるのだろうか ひょっとしたら 無人のコンビニエンスストアに忍び込んで 食べ物をあさるかもしれない そう思った。

3.仙台に入る日

東北自動車道が復旧したのは3月の24日頃だったと記憶している。僕は群馬の梅澤さんと一緒に、被災地に車で入ると言った。入る前日に、ブログを記しているので ちょっと読んでみてください。

今、仙台へ向かう途中である。
少しの野暮用で、栃木県佐野市で高速道路を降り、まんが喫茶でこのブログを書いている。いつもよりも、よりいっそう文章が雑になってしまうことに対してご理解いただきたいと思う。
皆さんと、この仙台行きを少しでも共有できれば幸いである。

NPOもんじゅとしては、『被災後高齢者福祉の復興』を目指している。

緊急の救援物資は、その道のプロがいる。

僕たち介護現場に携わる人間にとっては、僕らが感謝して働いている現場が少しでも早く、復興してほしいと願っている。

もともと、僕たちは、それぞれの地域で、高齢者福祉のあり方を実現している。ひとつの法人が、競争原理で介護の質を高めていくのではなく、日本全体の高齢者福祉の向上を志していたはずである。経済観念に競争原理が働くのはいささか、しょうがないことだとしても(僕らは資本主義社会の中で生きているから)、介護の専門性については大いにその英知を共有しているところである。これは、日本全国どの土地でも一定の幸せが得られるように、みんなで一生懸命頭を働かせて進んできたものである。平成12年に介護保険法がスタートしたが、それよりもはるか以前から紡ぎあげられてきた英知である。

したがって、そこに集う、役人、経営者、管理者層、現場職員、医師、看護師、介護士はもとより、法律家、家族、ご本人、町の人、北海道、東北、関東・・・など、すべての人が貴賎なく、場所に拠らず、日本の高齢化に対するアクションをとってきたのである。

そこへきて、この災害である。

今、まさに、被災地では高齢者福祉が1000年かけてつかんだ、『その人らしく生きること』の時計の針を逆に進めてしまった。このことは、高齢者ではない僕たちが『僕たちらしく生きること』への挑戦をも妨げかねないのである。

僕は、僕にできることとして、逆に進んでしまった針を一刻も早く元に戻し、また、新しい価値を生み出し、復旧ではなく、復興の支援をしたいと思っている。

その理由から、今日の仙台行きである。

NPOもんじゅは、5月に仙台でイベントを行うこととしていた。その打ち合わせが3月28日。すなわち明日であった。僕は仙台に行くためにさまざまな用意をしていたが、3月11日にきた地震によってその予定は白紙にならざるを得なかった。打ち合わせの場所は、荒浜地区だったので、流されて微塵もないらしい。

ところが、そのイベントの運営を行う現地で被災したもんじゅ会員もは、『むしろこのような時期だからこそ、力をあわせて現地の人で何かを生み出したい』と言ってくれたのである。僕は、NPOもんじゅ代表としてできること。すなわち、現地に行って、みんなの話を聞き、一日でも早い復興支援のために考えることを選択した。僕のちっぽけな脳みそではどうにもならないことも、いまや、日本全国各地に広がった、地域の三人(もんじゅ会員たち)と力をあわせて、頭をつき合わせて考えれば、何とかなる。どうにかする。もちろん、具体的な第一歩を踏み出せる。そう考えたのである。

明日、一枚のもんじゅ報告書(もんじゅミーティングによってできた、現地の人の第一歩であるアクションプラン)は、必ずや、全国各地の応援とともに、復興の第一歩になると信じている。種をまく。まいた種をみんなで、育てる。そんな活動だと信じている。

4.仙台に入る

こうして仙台入りした僕は驚いて、空いていないガソリンスタンドを見て、もう帰れないかもしれない恐怖に侵食されたのだ。以下、過去ブログ。

あんたの時間はどのように流れているんだい?人によって、流れる時間が違うように、場所によって流れる時間が違うのだと勘違いをすることがある。

何回か書くことになるから、少しずつ読み進めてほしい。福島県の問題は別にあるので、今回は書かないことにする。

今回、行ったのは、仙台市若林区、仙台市宮城野区、多賀城市である。

昨日の夜から僕は、東北自動車道を北上して、仙台に入った。あんたが眺めている箱からは、大きくても1メートルほどの広さで瓦礫が広がっていただろう。その世界が宮城の全てである。テレビは惨状を伝え続ける。24時間のうち、20時間も惨状を流し続ければ、その土地の8割以上は惨状である。ホントウはそんなことはないのだけれど、仙台は散々なことになっていると思い込むのである。

仮眠を取りつつ、朝日を見ながら、5時に東北自動車道を仙台宮城インターチェンジで降りた。開店前の町の様子は、被災地の様相はなかった。確かに、ガラスが割れていたり、かわらが落ちていたり、全く何もなかったと言うことではない。しかし、何かがあった痕跡は、目を凝らさないと見えてこない。

車が並ぶ列の最前線を見ると、ガソリンスタンドがある。2キロは続いているだろうか?朝の5時過ぎである。最前列に看板が立てかけており、『本日の営業は12時からとなります。』との言葉が。ガソリンが不足しているようだ。

仙台駅を超えて海岸部へ向かう。若林区に入るも、特別大きな変化はない。ように感じる。東京方面から北上する高速道路は東北自動車道と常磐自動車道がある。南北に並行して走っており、やや山間部が東北自動車道。海岸部が常磐自動車道である。若林区に入ってから、常磐自動車道を東に横切ろうとしたところで、『進入禁止』の立て札があった。

どこかに横切れるところはないかと、常磐自動車道沿いを南に走ると、少しだけ整備された道があり、横切ることが出来た。ここから東に横切ると、埃が立ち上り、向こう側にやしの木の林のようなものが見える。だんだん、木のくずやつぶれた車などが見えてくる。もっと進むと、そこは、瓦礫があった。いや、瓦礫しかなかった。

瓦礫と言う表現は雑である。その町の住人の生活の全てが、ミキサーでかき混ぜられていた。つまり、布団と、車と、柱の残骸と、鍋と、ズボンと、手紙と、ジョウロと、ドアがひとところに積まれていた。一つの山に積まれている生活の全ては、何人分のものなのか?わからない。

広く視界に入るのは、その、生活の全ての集合である。全てのものは個別化されるのに、たくさん集まると、瓦礫となる。

遠くに目を凝らすと、建物が残っている。そう、見える。周りに何もないから、そう思える。そういった建物の近くに行くと、ほとんどの建物に『家が突っ込んでいる』のだ。押し寄せる波に負けじと立つ建物に家が突っ込んでくる。引く波に流された家が、逆方向から突っ込んでくる。そして、壊れる。残っている建物には、家が突っ込まれてめり込んでいる。

5.その後

 街そのものが洗濯機の中に入ったような惨状は そしてその辺にまだ手が転がってたりしたような状況は その数ヶ月先まで 僕は一種の トラウマを作ったような状態にした。 介護の仕事をしていてゆっくりとゆっくりと紡いでいる日常生活も一瞬にして壊れてしまう事を知った。
 これほどまでにのんきにブログも書けなかったし ユアハウスの仕事も手につかなくて 日本全国を見て回ろうと思った。 7月23日には震災100日のイベントを仙台で行った。9月にはハイスタンダードが主催した AIR JAM 2011にも参戦した。 オルフェーヴルが三冠馬になったらしい 。11月には 復興支援のためのお金集めにヘルプマンの上映会を行った。次の年の8月には、震災500日のイベントを行った。

6.震災500日イベント

飯塚の尺はパネルディスカッション。

飯塚:2012/3/11は震災第0日。今日から500日前の日。ヘルプマン21巻震災編はヘルプマンのキャラ神崎仁が震災に被災し介護福祉士として3日間奮闘する内容。これをパネラーの皆さんはどう見たか?

宝剣さん:震災当日はデイケアの仕事をしていた。多賀城市の津波の無い地域だった。地震の時は建物が崩れる恐怖がありはしたが、その後は何が起きるのか想像できなかったのもあり、怖くはなかった
安住さん:震災は多賀城の事務所にいた。最初何をして良いかわからなかったが、独居老人を訪ねようと思ったが、 先の方には水が見えて進めなくなっていた。自衛隊の駐屯地の近くだったが本体が演習中でいないと言われた。その後は走り回っていたが足をつってしまい動けなくなった
三浦さん:当日は多賀城にいた。3階から助けてという声が聞こえて助けに行った
高橋さん:障害者の通所施設にいた。時間がちょうど終わるところだったのでみな帰したが、その後自分の事業所の前まで津波が来ていた。そこで各避難所をまわり安否確認で一日が終わった

飯塚:昨年は震災から100日めにイベントを行った。電柱の立て直しが進んでいた頃だと記憶している。その時はみなさんどうだったか?

宝剣さん:100日めはちょうど一段落がついていた頃。県外から来ている人が多いなという印象だった。物資が送られすぎてゴミ扱いになっていてもういらないと思っていた。仕事はもうやめようかとも思っていたが次にまでは頭が回らなかった
安住さん:100日めのあたりは、地域のことで何かできないかなと思い、消防団に入った。地震に対して何もできなかったという思いがあったため。地域ネットワークに対する思いよりは個人的な興味。消防団に入れば災害に対する知識も身につくと思った
三浦さん:沿岸部だったので、100日め当時はまだ避難していた。宝剣さんと同じく離れたいなという気持ちも確かにあった。なのに、なぜまだやめてないのかというのはわからない
高橋さん:多賀城市は実は事業所のあった沿岸に近いほうが実は先に水が出ていた。仙台の事業所の方があとで水が出たり、物資が事業所によっては余っていたりして、「言ってくれれば良かったのに」というコミュニケーションの問題が出ていた

飯塚:震災を忘れないという話がよく出ているが本当に忘れてしまってはいけないのか?500日たっていまどういう考えを持って仕事をしているのか?

宝剣さん:要所要所を覚えていれば良いのではないか?私自身はあまり被害を受けていないのもあり、100日め時点とは違いこのように考えるようになっている。大変だったのは震災直後の物資不足と何をしていいかわからないこと。今は元に戻っている。震災を通じて頑張る力がついた
安住さん:忘れていいかどうかよりも人間は忘れる生き物なので忘れしまう。自分も直接的な被害を受けていないのもあや、思い起こさせるものを見ない限りは忘れてしまっている。震災を通じても自分は変わっていない。また震災があったら同じようにあたふたするだろう
安住さん:震災の時ガソリン不足にあった教訓からガソリンが半分になったらいようと思っていたが今日もうすでに一目盛りになっているw
三浦さん:震災の教訓は活かして欲しい。自分の場合、一ヶ月会えなかったのもあり夫婦の絆が強くなった。人を通じて奥さんから手紙に指輪を入れて渡された。震災以前と以降で指輪の意味も変わった!
高橋さん:3/11は実は誕生日だった。2011/3/11は40回めの誕生日でもあった。そのため、誕生日と一周忌法要が一緒だったりして忘れたくても忘れられない
宝剣さん:震災を通じて「生かされている命」という思いもあり、ちょっとしたことにも幸せを感じるようにしている。一番幸せに感じるのはご飯を食べたり仕事をしたり普通に日常を過ごす中で感じる

飯塚:ヘルプマン21巻で印象的な神崎仁の言葉に(年寄りの強がりを聞いて)「聞きたかったのはその強がりです!」という言葉がある

三浦さん:戻ってきた時に普段の生活が取り戻せたところに幸せを感じた
安住さん:人とつながること。震災を通じて人とつながれた。今日この5人がいるのもそう思う

飯塚:100日めと500日の今日の最大の違いは落ち着き具合。震災が経験になったのは何日めくらいか?

宝剣さん:ライフラインが復旧した時。一ヶ月ぶりにお風呂にはいれた時がそう思った
安住さん:避難所がなくなったときにそう思った
三浦さん:震災を通じて奥さんとの絆が強まり、9月には子供も生まれた。名前は匠。TVのビフォーアフターを見て思いついたw

飯塚:一般論として震災を経験として捉えるという考えもあるが震災さえなければと思う人もいてそれは個人個人に落ちる。福島の原発被害を受けている方等の震災さえなければと思っている方にはどう声をかけるか?

高橋さん:掛ける言葉はないのかなぁ、と思っている。ピエロの格好をしたりしているが、そういう笑いを作れる場を作るというやり方もあると思う
宝剣さん:言葉の掛け方がわからない。大変ですよねとしか言いようがない
安住さん:難しいですよね。答えは出ないです

飯塚:震災を忘れないって何なんだろう?

宝剣さん:辛かったことを忘れてはいけないということ
安住さん:生きることが忘れないこと。助けなければいけないし無理をすることもあるだろうが行き続けることが大事
三浦さん:教訓を活かして行くこと!
高橋さん:何かあった時によく知らない人にお願いしますとは言いづらい。そのため地域の人たちと普段から接していることが非常に大事だ。

7.忘れていた自分がいる

毎年3月には 思い出すなんていうことが、実はできなくて、そこで会った仲間にも不義理をしていて、僕の中で頭の中が混乱した震災での現地の出来事とそのトラウマは、おそらく溶けたのだろうと 理解した。先日大阪でライブを行った時に 打ち上げでご一緒させていただいた女性が『実は私東北にいたんですよ』と声をかけてくれた。よくよく聞くと夜光虫にも顔を出していたそうだ。もちろん震災後も何度も東海岸川を訪れ、手を合わせ、街がどんどん変わっていくことを見てそれは素敵なことなんだけれども、なんだか切なさで胸が押しつぶされそうになっていた。でも今こうやって、また書き始めることができたのも ひょっとしたらそういった出会いがあったからかもしれない。

わざわざ3月11日に僕のこんなに長くてだらだらとした文章に付き合ってくれてありがとう おかげさまで僕は元気だからまた仙台に伺わせてください。

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