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甲本ヒロトとサボテン・ブラザーズと世界の終わりの魔法使い

僕らは何で本を開き、映画館へ通い2時間もスクリーンを見つめるのか。

「オズ はじまりの戦い」という映画がある。予告編を観て、面白そうだなーっと飛びついて観た。何せサム・ライミ監督(「スパーダーマン」は断然ライミ派、3はどうかと思うけども)であり、予告編を観るだに「サボテン・ブラザーズ」のような話だったからだ。

「サボテン・ブラザーズ」には、僕のヒーロー甲本ヒロトの大好きな映画という事で出会った。ヒロトはこのコメディ映画をこう紹介する

主役のマーティン・ショートがねえ「俺はやるぞ」って言うの。あとのふたりは「もう帰ろうよ、俺たち役者なんだから。バカなこと言ってんじゃないよ」って。マーティン・ショートだけはね「俺は戦う」っていって地面にザーッと線を引くんだ。「偽物が本物になるチャンスがきたんだ!」って、で「このチャンスに乗るのか! この線よりこっちは男だ! この線よりこっちは負け犬だ!」みたいなことを言うんだよね。で、結局三人ともその線を越えて、その偽物が本物に変身する瞬間があるんですけど、感動したなあ、あれは・・・

               (「藝人春秋」水道橋博士/文藝春秋より)

偽物が本物になる瞬間が描かれている、ここにグッとくると。それを僕は頭では分かったのだけど、何となくピンと来てなかった。それがこの映画で刺さってしまったのだ。「サボテン・ブラザーズ」から「バグズ・ライフ」や「ギャラクシー・クエスト」果ては西島大介の「世界の終わりの魔法使い」(河出書房新社)これらが、水道橋博士のいう所の星座となって僕の中で繋がったの。

まず「オズ はじまりの戦い」は設定が僕好み。そこはもう「サボテン・ブラザーズ」よりもグッと来てしまう。魔法使いに手品師が挑んでいくという点。「魔法」に僕らの両手で挑んでいくのだよ、そこに必要なのはK.U.F.Uと勇気。その世界はやっぱり西島大介の「せかまほ」。自分以外が魔法を使える世界、唯一魔法を使えない少年は本を開き、その両手から空を飛べる機械を作り出す。「せかまほ」の中で一番好きなセリフを引用

「一冊の本を読むことはそれに抗うことだよ」

       (「世界の終わりの魔法使い」西島大介/河出書房新社より)

それっていうのは世界の事。この一文に僕は本や映画が好きな理由を、本屋で働く意義を見出した。魔法の使えない僕らは本を読み知恵を得て、世界に抗うのだ。

話を「オズ始まりの戦い」に戻そう。手品師で女たらしで自分勝手なオズが覚悟を決めて、奇術師になる瞬間がこの映画にもある。偽物が本物になる瞬間が。しかし、それは自分の覚悟1つだ。その時に使うモノは、彼が元から持っていたモノなのだ。「サボテン・ブラザーズ」のスリーアミーゴスだってそうだ、彼らは覚悟を決めただけで自分の世界、そして少し周りの世界を変えるんだ。

で、この映画を観て僕は気付いたのだ。映画であったり本でも音楽でもそうかもしれないんだけど、基本的にはそれは「つくりもの」だし「つくりばなし」の類いで、それをやっぱり沢山詰め込んだ所で意味があるかと問われれば、意味なんて無いんだ。いくら映画の知識や、本の知識、音楽の知識を得てもそれがどうしたと言われたらどうもしないと言える。そんなことで威張ったりするのは、やっぱり無駄だ。(まぁ好きな事をどんどん「知る」楽しみはもちろんあるしそれも大事な事ではあると思う)

じゃあ、何で僕は映画を観に行くのか、あるいは本を開くのか、音楽を耳に突っ込むのか。それはそこに「線」があるからだ。「つくりもの」・「つくりばなし」を観て、読んで、聴いて、それは偽物であっても、そこで何かを考えたり、あるいは何かを決めたり、その自分の中で起こる「何か」は本物なのだ。

だから映画館の中で「線」を跨ぐ事もあるし、本を開いて「線」を跨ぐかもしれない、あるいはどこからか聴こえてきた音楽で「線」を跨ぐ事があるはずだ。だから評価されてない作品でも、もしかすると誰かの「線」になり得る。そこで人生を決めてしまうのかもしれない。それは誰かの両手で作られているからだ。

だから映画館に通って、本を開いて、音楽を耳に突っ込むんだ。その感想を記すんだ。その感想をお喋りするんだ。「サボテン・ブラザーズ」は映画の意義を描いていたのだ、それを「オズはじまりの戦い」は教えてくれた。

さぁバームクーヘン食べよう。

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