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認知症の母と接していて気付かされる

母が認知症になってからというもの、
想像したように会話が進まず、もどかしく感じること多数。
共有しているはずの過去の出来事の話は、今や母に撮って全く新しいストーリー。

私が小さい頃の思い出話などをしてみても、
「あら、そう。誰が?それは大変。」
と、まるで他の誰かの子供の話として捉えている様子。

記憶はさることながら、身体的にも筋力の衰えが顕著になってきた。
特に脚の筋肉。
ここ数年、何もないところで転けることも多くなった。

私はタッチケアのセラピストとして、これまでに多くの老若男女の体を触らせて頂く機会がある。災害時にはボランティアセラピストとして、駆けつけることもあった。

脚の筋力が落ち始めると、上半身のバランスも急激に取りにくくなり、なんとか支えようと、余計な力を入れることが日常化し、それがコリへと繋がり、血流が悪くなり、冷えがすすみ、自分ではどうしようもなくなり、生きる気力もなくなる、という悪循環に陥るケースも見てきた。

母には、認知症の症状が見られる前から
適度なストレッチと運動の重要性を伝えてきたつもりだが、
「私は大丈夫。他の同年代の人より、体が動くから」
と、自慢気に返答し、自分を特別枠に入れてしまった。

これは人生を通して彼女が形成してきたパターンのようなもので、
他の場面でも同様のリアクションがよく見られる。

「あれは◯◯のせいだ、私は悪くない」
明らかに自分のミスだということが判明しても、自分に非はなく、
何かのせいにすることで安心するようだ。こんな場面に遭遇することが、日に日に増えてきた。

認知症であることを、受け入れることは何より苦しい。
「私は違う(認知症ではない)」
「私の方が正しい(認知症ではない)」
という事で、安全地帯を自分の内側に構築している。

そんな抵抗を見せる母を見ていると、
幼い頃の母の情景がふっと脳裏に現れた。

頭の良い兄弟と比較されて、勉強ができないと落ち込んでいる。
何をやっても"中の中"の評価しかもらえなかった。
普通であることへの、モヤモヤ。

・・・?
ちょっと待て。
これって私にも当てはまることばっかじゃない(笑)!?

ウケるわー。

大枠は同じやんか。
違いがあるのは、受け入れたか受け入れないか。

私は普通であることをある時から受け入れた。
そしてそれが、私の才能の1つなんだと思い始めた。
普通の私だからこそ、感じられるものがあり、
普通の私だからこそ、創造できることに出会えた。

たったそれだけの違いが、
私を地獄から天国へと押し上げた。
母にも「受け入れることから見えてくる、天国」を
早く知って欲しいと思った。

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