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ベーシックインカムを思想にする

昨日、逆精神病院のダニエルの司会進行で不労哲学者ホモネーモとの対談が実現した。時間の都合もあり、ホモネーモ氏に聞きたいことが全て聞けたわけではない。ベーシックインカムは経済政策なのか、それとも思想なのか。この論点を深堀するべきだった。本記事は昨日の対談を総括である。

私見を述べると経済政策としてのベーシックインカムは現実的ではないと思っている。弱者は弱者の特権を捨てることができず、強者もまた自らの特権を手放すことができないからである。生活保護や年金制度を廃止して、国民に一律で給付金を配ることは弱者として社会福祉に守られている人間からしたら許せない。経済的な強者も、自らの高額納税を弱者のみならず、中間層にも分配するとなれば反発は強いだろう。素晴らしい社会制度だが、実現可能性は低いという矛盾が現在ベーシックインカムが抱える問題なのである。私は対談の中で、社会制度の素晴らしさを喧伝して国民を納得させることは不可能だと述べた。民主主義において、新しいシステムを導入するには『功利主義的システム』を装って、半ば大衆を騙すようなやり方で導入せざるを得ない。私が対談で例に挙げた、国民総Youtuber化計画を使って解説しよう。国民に無条件で毎月7万円を配るというのが現在構想されているベーシックインカム案だとすると、国民がYoutuberとしてコンテンツクリエーターになる際に、成功するまで毎月7万円を配るというのが思想としてのベーシックインカムである。Youtubeアカウントを開設するだけで誰でも毎月定額の給付金を貰えるという点では、現行のベーシックインカム案の言い換えに過ぎないのだが、思想としてのベーシックインカムには『受給者が努力してる感』を醸し出す力がある。お金というのは、価値を生み出した対価であると多くの人間が信じている。しかし、これは近代に入ってから生み出された比較的新しい考え方である。中世では貴族階級が存在し、彼ら彼女らは生きているだけで下層階級から税金を徴収することができた。まさに『生きているだけで偉い』状態だったわけである。労働の代替化が進むにつれて、本当に人間が生身で行うべき労働の総量は減っている。しかし、労働の総量が減っても、我々は努力したいし、努力している個人が溢れた社会が好きなのだ。AIが結果を出してくれる社会で、結果を出すことは以前より求められていない。以前のタクシーの運転手は、慣れない土地で地図と睨めっこして目的地を目指していた。今は、カーナビがあるし、タクシーアプリでは目的地到着前に顧客との価格交渉が終わっており、経過時間や値段で揉めることもない。労働時間の短縮はもちろんのこと、労働に対する精神の余白を別の活動に充てることで、個人の人生は解釈論的になる。解釈論とは、正しい法を立法し続ける態度である立法論に対して、現在運用されている実定法の解釈を時代とともに変えていくことを意味する法学用語である。人間の生き方は法律の運用と似ている。正しい法や人生が存在するので、それを求め続けるべきというカント的理郎論に基づく情熱的な態度は尊敬できるが、混濁とした社会情勢は理想論ではどうにもできない。人生の生き方を国家や共同体単位で話し合って決定するのは個人主義が完成した現代ではコンセンサスをとることが難しい。労働に対して価値を作り出す労力と対価としての賃金の関係性を否定することは理想だが、大衆のなった国は時間がかかりすぎる。価値を作り出す努力を創作活動というカモフラージュを使って正当化することで多くの人間が生産性という魔境から抜け出すことができるようになるのではないか。価値の生産は肯定するが、価値自体は現行の既得権益が認識不可能なレベルにまで細分化してしまうというレトリックが陽キャ哲学である。『顔出しでYoutube動画を創作してる時点で勝ち』『既得権益に認知された時点で勝ち』『新しい経済学や哲学用語を造語した時点で勝ち』というのは当たり前であると認識してほしい。ホモネーモ氏がまとも書房という出版社を立ち上げるとのこと。それは素晴らしいが、現在の大手メディアが持っている影響力を思想として、才能のある若者に分配してしまうのも、出版社を立ち上げることと同じくらい価値ある行為なのだ。えらいてんちょうも箕輪厚介も成り上がるためには我々新興勢力の力が必要不可欠なのである。彼ら彼女らの成り上がりゲームに便乗してお金や地位を集めて再分配すれば、彼ら得意のゼロサムゲームの土俵に上がらずとも勝利を収めることができると信じる。


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