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おもいあがり~愛媛・高知同居男性傷害致死死体遺棄事件~最終回

悼む人

「あっ。あのー、野田ですけど……」
その日私は一本の電話を受けた。それは、野田さんの身元引受人である親戚の男性からの電話だった。

判決の日、私は西条市の野田さん宅の前にいた。
鬱蒼と草木が家へと続く小道を塞ぐ。車を停め、しばしその家を遠巻きに見た後、石岡神社の社務所を訊ねた。

「あぁ、今日判決かね……」

応対してくれたのは、8月に野田さんが縛られたままで助けを求めた宮司だった。
小柄な宮司は、遠くを見つめるようにこの出来事について語ってくれた。
「野田さんはね、たしかにここらの人に迷惑をかけとったんよ。乞食みたいなこともしよったしね。」
この土地へは移ってきたという宮司は、野田家の歴史についてはあまり知らないと話す。
関わりたくない、とまでは言わないまでも、野田さんを近くで見てきたものとしても、野田さんの死を防げなかったことに対しては複雑な思いをのぞかせた。

「昨日も弁護士が来てね、家をどうするかいうてうちにも相談に来たんよ。買いませんかーて言いよったけど、あの家だけではねぇ、駐車場にするくらいしか出来んし」

私は野田さんの墓の場所を訊ねたが、残念ながら宮司は知らないとのことで、かわりに近くの大きなお寺を紹介してくれた。
四国八十八か所第六十三番である、真言宗東寺派吉祥寺である。

八十八か所では唯一、毘沙門天を本尊とし、「くぐり吉祥天女」という貧困を取り除くという像もある。
平日の午前中、参拝客のいない吉祥寺の納経所を訊ねると、住職とスタッフの女性がいた。
身分を明かし、墓参りのために墓を探している旨伝えると、住職は台帳をめくりながら探してくれたが、野田さんの墓は管理していないという。
すると、話を聞いていた女性スタッフが、
「もしかして最近お亡くなりになった方?」
と話しかけてきた。2年前に、と答えると、「野田さんて、事件の?」と言われたので、そうであることを伝えると皆があー・・・といった感じになった。
話によれば、野田さんは新興宗教に入っていたため、お寺での管理ではないとのことだった。
私は裁判を傍聴し、ひとりぼっちの野田さんのせめてお墓参りをしたいと思っていることを伝えると、住職が深く頷き、こう提案してくれた。

「県外だけど、野田さんの身元引受の方の連絡先を知っているから、その方にあなたのことを伝えます。」

非常にありがたい言葉に感謝し、電話番号を伝えてその日は西条を後にした。

帰りの道中、判決公判の傍聴をお願いしておいた高知のべっぴんお姉さまからメッセージが来て、求刑通りの懲役16年になったことを知った。
野田さんはどう思っただろう。被害届けも出さず、決して光洋を悪く言わなかった野田さんは、単に光洋を恐れていたから何も言わなかったのか。
まだ分からないことがいっぱいある、そう思いながら私は松山道を走った。

野田さんの身元引受の親族から連絡をもらったのは、その日の夕方だった。
どこの誰ともわからない人間に連絡などしてこないのではないか、そもそも身元引受と言っても、近隣にたくさん従弟がいたのに、彼らは何もしなかった。現に、身元引受をしたのは、県外在住の親戚というではないか。
ならば身元引受をした人だって、押し付けられて仕方なく引き受けた可能性もあるし、わざわざ面倒くさいのに連絡は来ないのではないかと思っていたので、電話をもらって大変驚いた。

「あのー、イクちゃん(野田さんのこと)のお墓がどうとか聞いたんですが……」

かなりご年配、という印象を声から受けたが、私は誠心誠意をこめて、自分の身元とお墓参りに行きたい理由を丁寧に話した。

「そうですか。それはそれは、喜ぶと思います。行ってやってください。」

柔らかな口調でそう許可をくださったその方は、何度も「イクちゃん、イクちゃん」と野田さんのことを呼んだ。
私はふと涙がこぼれそうになった。裁判では野田さんの人生を、最期を、涙して悼む人などいなかった。近隣の人にとっても、野田さんははっきり言って「迷惑な人」であった。両親も妹も亡くした野田さんはこのまま忘れられていくのかな、そう思っていたが、少なくとも吉祥寺の住職や石岡神社の宮司、そしてこの親戚の男性は、野田さんの人生を、最期を悼んでいた。
だからこそ、同じ思いを抱いたどこの誰ともわからない私の申し出に協力してくれたのだ。でなければ門前払いでもおかしくはない。

少しだけ、心が軽くなった気がした。

彼岸にて

「これは……。無理やろ……。」

彼岸の入り、私は帰省していた息子を伴い、再び西条を訪れた。目的はただひとつ、野田さんの墓を「探す」ことである。
実はお墓参りの許可を得たまではよかったが、肝心のお墓の場所が定かではないという事態に陥っていたのだ。
吉祥寺の住職も、「山一つがお墓になっとるからね、場所がわかってないと探すのは無理だと思うよ」とおっしゃっており、さらに身元引受人の男性も、「イクちゃんのお墓、どこやったかなー、目印もないしねぇ……」という状態だったのだ。

せっかくここまで来たのに、引き下がる気は毛頭なかった私は、「じゃあ探してみます!」と意気込んでその墓地にやってきたのだが、甘かった。

見渡す限りの墓、墓、墓の中で、かなりの丘陵地に位置しているため探すと言っても相当な労力を覚悟しなければならなかった。
しかも、墓地の場所もここで合っているのかどうか定かではなかった。
ただ、野田さん宅の近くで、山一つが墓地になっている場所というのはここしかなく、どちらにしてもここを探さないというわけにはいかなかったのだ。
とりあえず他の墓参りの人にお墓を探していることを伝えたものの、「無理無理w」と笑われた息子はすでに戦意喪失、しかしおめおめと退散するわけにはいかなかった。

午前10時、捜索開始。
まずは二手に分かれ、端っこから攻めていけば見落としもないだろうと、よそ様のお墓をどんどん見て回る。区画整理もされておらず、朽ち果てた古い墓石も山のようにある中、見落としたら終わりだと言い聞かせて丁寧に見て回った。
2時間ほど経過して、雑草に隠れた側溝に足を取られて転倒し負傷した私は、春の山特有の噎せ返る匂いに辟易した息子と墓地中央の道路で再会したが、野田さんの墓は見つからなかった。

息子が野田家と書かれた墓を一つ発見していたが、そこにある名前が野田さんの家族の誰とも合致していなかったため、違うと判断。
まだ見ていない下の方を見てみよう、と再び二手に分かれた直後、ふと曲がった先の階段を下りた場所に、「昭和五十八年 野田育男 建立」という文字が飛び込んできた。

「あ。あ。あ。あ。あったぁーーー」

声を聞いて駆け付けた息子も、半信半疑だった。見つかるわけないと思っていたようだ。
墓のそばにある墓碑銘を辿ると、そこには9歳で亡くなった野田さんの妹の名前があった。間違いない。
しかし、あるはずの野田さんのお母さんの名前はなかった。おそらく、野田さんの力では埋葬後にすべきことなどわかりようもなかったのだろう。
このお墓は、野田さんの父親が昭和58年に亡くなった際、長男である野田さんの名前で母親の綾子さんが建てたのだろうなと想像した。
今は野田さんの遺骨も収められているだろうけれど、墓碑銘は父親で止まったままだった。

思っていたほど墓は荒れておらず、息子と二人簡単に掃除をして、好きだったというお酒と花を供えた。タバコも好きだったというので、代わりに私が吸っておいた。

正直、見つからないかもしれないと私も思っていた。たまたま目星をつけた墓地の場所が合っていたこと、探した順番が良かったことで見つけることが出来たが、こんなことをいうとシラケるかもしれないが、もしかしたらなにかに教えてもらったのかもしれないと思った。
(って思いたいほどめちゃくちゃ墓だらけだったのよ、数千はあるとみんな言っていたのよ……)

仇と化した親の愛

裁判を通じて様々なことを考えさせられたわけだが、その中でも今回のケースで切り離せない、「ハンディのある子どもの行く末」という問題は、それまでの私の考えを大きく変えた。

周囲にも、生まれつきハンディを持っている家族がいる人はいるし、友人の中にも脳性麻痺の姉のことを生涯自分が世話をすると決めている人もいる。
障害児を育てる親のブログを見ても、ほとんどは経済的な不安をなくすためにいろいろと考えているし、どんなに介護や障害者の福祉がすすもうとも経済的な不安はない方がいいに決まっている、私はそう思っていた。
しかし、今回それがまさに仇になった。
野田さんは高校を卒業してはいるが、知的障害ではなくても一人で生活するということはまるで出来なかった。
光洋が診察を受けさせた精神科では、発達障害の可能性を指摘されている。
それはおそらく大人になって突発的に発症したとか、そういう類のものではなく、若い頃からそうだっただろうし、少なくとも親は気づいていた。

だからこそ、結構な額の死亡保険金を野田さんが受け取れるようにしていたのではないか。母親の綾子さんの死亡保険金は事故で亡くなっていることもあって増額されたと思われるが、それにしても判明している分だけでも5000万円近くにもなる。私が同じ条件で死んでもこんなに出ない気がする。
本来ならば、野田さんは一人になって仕事をしなかったとしても、家もあったわけで細々とであれば一生暮らせていた。
間違いなく親の思い、愛であり、野田さんを思えばこその「お金」のはずだった。

大切なことは、お金そのものを遺すことに加えて、やはり近隣をはじめとする「人とのつながり」に他ならない。
野田さんには親戚が複数いたし、野田さんと顔を合わせるほど近くに住んでいた人もいた。にもかかわらず、野田さんを真剣に助けようとする人は身内にはいなかった。
もしかしたら、であるが、野田家が信仰していた新興宗教の絡みで疎遠になっていたのかもしれない。
野田さんのようなケースの場合は、保佐人、後見人が必要だった。しかしそんな知識は両親も、近所の人々も持ち合わせていなかったのだろう。
いつどこで、家族が、自分が事理を弁識できなくなるかはわからない。日ごろから家族で話し合う機会を持つことは非常に重要であると痛感した。可能ならば、任意後見の手続きをすぐにでもするべきだろう。

光洋

一方で、光洋はなぜここまで野田さんに執着したのか。
私は裁判を通して光洋という人間のほんの少しを見てきたわけだけれど、間違いなく感じたのは、非常に自己愛の強い人間だということである。
加えて、なにかこう、自分は特別な人間で、人の役に立てる、人から感謝される人間で「ありたい」という気持ちの強い人間だと感じた。

光洋は裁判で、自分と野田さんが「社会から疎外されている点で似ている」と述べた。たしかに、野田さんは社会の常識とは違うレールの上を一人飄々と歩いていた。
光洋はどうか。
若い頃は通関士助手として仕事をしていたが、実際この仕事は無資格でも行えるものだ。国家資格の通関士とは雲泥の差である。
現実社会では複数の派遣や非正規の仕事を転々としながら、一方で他人に仕事を斡旋するような真似事もしていた。
しかし実際にはそう振舞っていただけで、久保田さんの証言にもあったように、一度として仕事を持ってきたことはなかったのだ。
仕事をしていないときでもスーツをまとい、素性を知らない人らには自分を偽ることも厭わなかった。テレビや漫画の世界で仕入れた浅知恵も、田舎の一部の人間には光洋に一目置かせるためには有効だった。
しかしいつからか、その浅知恵がどこでも通用すると思い込んでいたように思える。それが、公証役場や農地委員会、そして検察での録取の際にも見え隠れするが、みんな光洋の嘘や虚勢に最初から気づいていたし、久保田さんでさえ、「相手にならない、口だけの胡散臭い男」としか見ていなかった。

光洋にとって野田さんは、自分を優位に立たせてくれて、自分が望む自分でいさせてくれるたった一人の人だった。
野田さんがダメであればあるほど、光洋の献身は周囲から賞賛となって返ってくる。光洋は日々、小池さんばりにラーメンばかり食べる野田さんのために、野菜がたくさん入った食事を作っていたし、ボロボロの服を取り換え、新しい靴下や下着などを買い与えた。
しかし、野田さんにとってそれは「有難迷惑」だった。野田さんは光洋が買い与えた新品の服より、着古したお気に入りのボロの方が良かったのだ。ラーメン大好きな人間に野菜を与えるなど、嫌がらせ以外のなにものでもないのだ。子供ではないのだ。

裁判で、光洋はこうぼやいたことがあった。
「野田さんはせっかく僕が買ってあげた靴下を履かなかった」
善意には違いない、しかしそこには野田さんからの全幅の感謝という見返りを見越しての善意である。
光洋は、自分の満足感のために野田さんを利用したに過ぎない。そしてそれに気づいていない。
光洋の中では、いつまでも自分は野田さんを助けようとした善意の人間なのだ。
それは両親も同じ考えだろう。良かれと思ってしたことが結果、こんなことになってしまった、と。

自分のことも満足にできていない人間が、他人を助けるなど本来できるはずもないのだ。だから、わざと弱い人を見つけ出し、時には弱い人間だと決めつけて、相手に「あなたのためを思って」という、愛と正義の脅迫をし続けるのだ。

光洋は完全に自分を見誤った。自分は人を助けることが出来る、人に認められ、一目置かれ、モンクレールのジャケットにグッチのバッグでジム通いをする颯爽とした理想の自分を、野田さんを利用して実現しようとしていたのだ。一心同体など、勝手な思い込みである。

野田さんは今もきっと、お気に入りのボロを着て、ラーメンを食べている。

おもいあがった哀れな男が現実を直視する日は、来るのだろうか。

※その後8月に控訴審が行われたが棄却。上告したという情報がないため、確定したと思われる。

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