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わたしを通り過ぎた本/吉田朋子さんの場合

心の栄養をたっぷり蓄えたこども時代

6歳まで金沢で過ごし、親の仕事の都合で愛知県豊橋市へ引越しをしました。双子の兄と8歳下の妹と一緒に育ちました。お母さんは専業主婦でした。本が好きで、特に児童文学作家の松谷みよ子さんが好きだったんだと思います。小さい頃は、「ちいさいモモちゃん」シリーズを毎晩一章ずつ読んでもらっていました。双子の靴下が旅に出てしまった描写、木のおさじという表現、お金ではなく金貨・銅貨という表現などに想像力が掻き立てられ、いろいろ空想をしていました。

ただ、松谷みよ子さんは『二人のイーダ』『私のアンネ=フランク』或いは、アウシュビッツや原爆をテーマにしたヘヴィなおはなしも手掛けられていました。そういったものも読み聞かせの一環で入っていて衝撃を受けました。

それがきっかけかどうかわかりませんが、小学校中学年の頃は図書館にこもって戦争の本などを読んだり、『シートン動物記』や『シャーロックホームズ』などのシリーズを読んでいました。『シャーロックホームズ』ははまりすぎちゃって、授業中も読んで怒られたり…。その頃の担任の先生は、たしか戦後の混乱や満州からの引き上げも経験している先生だったので、「本は心の栄養ですね」という言葉をかけてくださいました。
 
お母さんは、松谷みよ子さんは好きだけれど、そこまで深く読んでいなかったのではと感じるところがありました。女系家族で、気質がかなり古く、どこにお嫁に行くか、女性はきれいであるべき、品があるべき…と考えていましたし、こどもと女性には人権がない明治時代のようなスタイルを徹底していました。なぜ、松谷みよ子さんを勧めるのかがわからなくて、「パンクになっちゃう」と思っていました。

一方でお父さんは、富田勲のファンでクラシックやジャズやイタリア映画も見ている方でした。本は大江健三郎、遠藤周作、シャガールの本を読んでいました。特に大江健三郎が好きだったようです。文化的な方でした。

双子の兄とわたしはマンガ雑誌の『ジャンプ』をこっそり読んでいました。その姿を見た8歳下の妹は、「ジャンプを命がけで読んでいる」と言っていました。笑。家では、基本的にはテレビは禁止でした。ただ「大草原のちいさな家」となぜか「キャプテン翼」は見せてもらえました。

外の空気を感じたラジオ、自由を得るために…

それでも学校ではたのしく過ごしていましたが、中学入学の前に転校をしてつらい時期がありました。それまでは豊橋の市街地で駅にも近く、多様性のある雰囲気の中で、同級生の女の子とは全員ともだちというという環境でした。でも郊外にうつって、親が独立をして自営をしたことが目立ってしまって…。そんな経験から、人を見ためで差別するとか、職業とか、先入観で見るとかそういうことに敏感かもしれないです。

中学二年生になってポツポツと友だちができはじめたけれど、暗い影は残っていたような感じです。その頃は、ラジオにはまっていました。もちろん親に見つからないように、隠れて聴いていました。コンセントにつないでおけないので、災害のように乾電池をいっぱい持って聞いていました。途中から、ラジカセで音を立てずに録音をして…。その頃はラジオがお友だちというか、お父さん、お母さんみたいな感じでした。

深夜放送をいっぱい聴いていて、すこし古い音楽にはまってしまいました。当時は、荒井由実にはまって、オールナイトニッポンも聞いていました。その流れで、伝説の電気グルーブのオールナイトニッポン二部の第一回をリアルタイムで聴いたりもしていました。70年代の音楽、吉田美奈子、細野晴臣、ジョニー・ミッチェル、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのルー・リード、その時代のカウンターカルチャーに憧れを抱いていました。相変わらずテレビは禁止されていたので、バブルが終焉に向かう頃に流行っていた「東京ラブストーリー」に出ていた織田裕二を知りませんでした…。

高校は地元の私立高校でした。キリスト教の学校だったんですが、自由な雰囲気でした。なにより、バブルもはじけて、ホンダのスーパーカブ、モンチッチカット、汚い恰好がはやりだして「あーよかった。いい時代がきたな。」と思っていました。高校時代はのんびりしていましたね。ともだちと自転車を二人乗りして、河川敷に隠れ、生徒を違反をチェックしていた生活指導の先生に見つかって怒られたり、喫茶店に行ったりと、呑気に過ごしておりました。

お母さんはカチカチな教育方針だったのに、「お母さん、さいきん松浦理英子が好きなの。」と言ってきて…。ちょうど『セバスチャン』が文庫本になったときに家にあったので読んでみたらフェミニズム的なことが書かれていました。もちろん、その頃「フェミニズムとはなにか」などわからなかったんですが。小説の内容よりもその「あとがき」で、松浦理英子と編集者と思われる男性とが語っている内容が衝撃でした。「男にも女にもならないために物にどどまらざるをえない」という章で、「子供の形のまま成熟してしまうと言う概念」があることやウーパールーパーが幼形成熟であることなどが語られていました。そして、人間もまたはっきりとした成人にならなくても子どもを産むことができるという内容で心に残りました。

古いおうちで、女性は美しくないと価値がない、人権がない、こどもも人権がないという教育方針だったので、それを論破する材料をいつも集めていて、「どうしたら自由になれるのかな?」とずっと考えていました。お兄ちゃんもきっとおんなじだったんだと思います。お兄ちゃんは、高校生の頃にこばやしよしのりの『ゴーマニズム宣言』を買っていました。まだ薬害エイズ問題にかかわる前なので、それなりにとがっていて、差別について根本的に紐解くような内容でした。いまとはぜんぜん違う内容でした。 

穏やかな大学生活

大学のときは金沢へ戻り、お母さん方のおばあちゃんと一緒に住みました。芸術などへの興味はあったんですが才能がなくて経営情報に進みました。おばあちゃんのおうちが兼六園をあがったところの石引町というところ。金沢大学の医学部以外はすでに移転していたので、学生の数は減っていて寂れかけている学生街でもありました。厳しいところもあるけれど、一般的な生活でした。おばあちゃんと一緒にごはんを食べて、大学へ行って、帰っておばあちゃんとごはんを食べてテレビを見て、バイトへ行ってという生活でした。友達の数におばあちゃんもカウントしていました。笑

高校生の頃、門限はなかったんです。正確にいうと外出禁止。いちど家に帰ったら出てはいけなかったので、高校の帰りにおともだちと喫茶店へ行ったり、豊橋の市街地で遊んで帰ったりという生活でした。金沢へ行ったら夜遅いとおばあちゃんが心配しちゃうので、遅くならない程度に帰るように抑えてライブへ行っていました。おばあちゃんの家の目の前には美大生の集まるたまり場的なお店もあって変な上映会もしていました。音楽好きなともだちがギターを弾いてわたしが鍵盤ハーモニカを川べりで弾いたりもしていました。笑。

金沢は古本屋さんも多くて、当時は80年代に出た本が安く出回るという時代だったので、『宝島』のバックナンバーもいっぱいかったりしていました。おばあちゃんの家の近くには90年代半ばすぎても貸本屋があって、そこにもよく行きました。古本屋さん、ライブハウス、古着屋さん、映画館、カフェ、そしておばあちゃんと過ごす日々でした。

高校から大学に入る頃に、橋本治を読んでいました。きっかけは、掛札悠子さんがフェミニズムの本『「レズビアン」である、ということ』を出したんです。その帯に「男性の中にも女性の中にもレズビアニズムというものがある。それを僕は知りたい」と書かれていました。その帯文が橋本治のものでした。橋本治の集大成は『花咲く乙女のきんぴらごぼう』だと思っています。特に、この本の「ハッピーエンドの女王」の章に救われた面もありました。女性には人権がないという家庭で育ってきました。でも人権がないと思ったら生きていけない。そういうことにモヤモヤしていたときにこれを読んで、「あ、わたしはこう生きていこう」と思いました。それくらい強烈でした。このままで大人になっていいと解釈して、なんて素敵だろうと感じました。そこから大島弓子に入っていきました。
 
マンガは小さいころ、雑誌『リボン』にあこがれていたけれど叶わなくて…。大学生の頃に楳図かずおの『わたしは真悟』を読んで、衝撃を覚えました。特に、「わたしのこども時代が終わる」という一説が心に残りました。心に残ったということでは、バンド・頭脳警察の「さようなら世界夫人よ」という曲が歌詞が自由になれそうだなと、救いとして聞いていました。

たくさんの刺激を受けた会社員時代

新卒で入った会社は加賀市というところにあるシステム開発のベンチャー企業でした。わたしは、システム部に配属されました。加賀市でアパート借りました。加賀市は山城温泉、片山津温泉、山中温泉があるので、ホテルや飲食店のオーナーさんと仕事をすることが多く、サービス業に魅力を感じました。加賀市は強烈な土地でした。山も海も近く漁師町で飲食店も多いのでいろんなことをしている人が多かった。独自の世界観のお店が多くて洗練されていました。会社のお客さんもそういうお店が多くて影響を受けていました。

仕事内容は、現地に行って、どういうシステムにしていくか話を聞いて、導入するときのマニュアルづくりをするという、どちらかというとお客さん側の仕事でした。運用がはじまったら一カ月はホテルにはりついて障害対応をするという内容でした。クライアントであるホテル側と自社の開発者との間にはいってシステムを改善をしていくという仕事でした。3年くらいそこにいたんですが、開発側の都合でお客さんに話を持っていくことに矛盾を感じ今度はシステムを使う立場での仕事をしたいと思いまして、一般企業の情報システム部門へ転職をしました。それでいったん豊橋に帰りました。7-8年ぶりくらいに実家に帰ったんですが、一人暮らしがしたくなり市内の山の麓に、部屋を借りました。

派遣で入って正社員になったのですが、5年働いてその後のイメージもわかなくて、職場でどんどん仕事が増えて自分ができる仕事ではないだろうという限界も感じて、35歳までに辞めて次に進まないと厳しいと思っていました。

OLらしく、たのしもうとお菓子教室に通ったり、ボサノヴァを習ったりして満喫していました。マクロビのお菓子教室にも普通のお菓子教室にも通いました。パン教室へも行きましたね。松長絵菜さんや星谷菜々さんなどの料理本のスタイリングが好きで、写真集を買うようにレシピ本を買っていました。笑。

アンティークタミゼの吉田昌太郎さんや、オーガニックベースの奥津爾さんの書いてはるブログをよく見ていました。手紙舎が主催の初期の「もみじ市」にも行き、紅茶のワークショップを受けたり、仕事がしんどかったので、現実逃避もしたかったんだと思います。堀井和子さんのこともその頃知りました。パンにはこどものころから興味があって、ときどきつくっていました。ちいちゃい頃に食べたパンの思い出を思い出しました。お店を回るのが好きだったので、吉祥寺にあったオーガニックベースや鎌倉のカフェ・ヴィヴモン・ディモンシュさんにも行ったりしていました。青梅市にねじまき雲さんという手廻しで焙煎をするお店があって、そこを知ったときにこういうお店をしたいと思っていました。

ボサノヴァを習っていたときのギターの先生が喫茶店をはじめました。個人が作った焙煎機を仕入れて、ギターの先生が焙煎したコーヒーを頂いたら、本当に心からおいしくて忘れられなかったんです。そこから珈琲が好きになりました。衝撃が大きすぎて、いまでもそのとき飲んだ珈琲の味を目指しています。

関西への移住を決意して一歩を踏み出す

30歳を過ぎてからは、長いやすみのときに沖縄へ行ったり、長野へ行ったり移住先によさそうなところへ行ってみました。長野では穂高の自然農やパーマカルチャーの施設を見学したり、沖縄ではアジアらしい市場や沖縄北部のやんばる地区を巡ったりしました。山間や、森深き場所など、自然に魅力を感じる一方で、文化的な都市にも惹かれていました。

35歳になる年に7年働いた会社を辞めました。いろいろな土地へ行ってみたけれど、個人の飲食店も多い神戸へ移住をしました。神戸では、二軒のパン屋さんで働きました。車の免許を持っていたので、配達もしていました。下端でパンは食パンくらいしか触れられず、タルトや焼き菓子、スコーンを担当していました。会社員から製造業に仕事がかわり、朝も早くなったけれど、パン屋さんで働けることがうれしかったですね。パンが好きなひとはいろんなことが好きなようで、お笑いの吉本の養成所に通っていた人もいれば、フランスで修業をしたというバリバリのパン職人さんも入ってきたり、音楽や映画など、好きなものも似ている方と出会えるようになりました。

土日も働いていたけれど、神戸の元町に住んでいたので夜中のイベントへ行ったりもしていました。ただ、お父さんの体調が悪くなり、パン屋さんの修業を続けられなくなって神戸から大阪に引越しをしました。そのときは、コールセンターで派遣として働いていました。お父さんが闘病中の間は大阪と実家を行き来していました。その頃に、本読む時間ができたので、豊橋の本屋さんで、もともと河出書房新社の本が好きだったこともあり、この熊井明子の本を手に取り読んだらはまりました。一見ふんわりしているように見えるんですが、その時代のことがきっちり書かれていて、いろんな本を読んでみようと思ったきっかけになりました。

「青星」を開店するまで

大阪でもいろんな方との出会いがあり楽しくて刺激的で、満たされてしまい、お店をするために関西に来たのに、移住した目的がわからなくなった時期でもありました。お父さんが亡くなった時に、いま青星で料理をしている川西さんに会いました。

川西さんと出会ってから、お店を開店する話が進みました。焙煎をはじめようと川西さんに相談をしたら、焙煎のコツをすぐにつかんで、教えてくれました。そして焙煎をはじめました。

お世話になっていたバーに置いてもらってなんとなく活動がはじまった感じです。パンではぜんぜん芽が出なかったのに、焙煎をはじめたら、お世話になっているお店の方に声をかけてもらいました。主催の上映会で珈琲を出させてもらったり、パン教室の先生がいろんな方を紹介してくださって繋げていただいたり、お客さんで行っていた珈琲屋さんからたくさんのアドバイスをいただいたり近所のギャラリーのオーナーさんや喫茶店など、ほんとうにたくさんの方にお世話になりました。

そこから、物件探しがはじまりました。大阪の中崎町や北浜あたりで探していたのですが、1年くらいなかなか見つからなくて、カタチデザインのキタムラさんに物件探しからお願いしました。それでたまたまココが見つかりました。もともと、お店をはじめるときはわたしひとりではじめる予定でした。ただ、この物件が大きすぎたので結局二人ではじめました

お店のテーマを考えていたとき、手回し焙煎機と植物をテーマにしたかったんです。あとは日本を含めたアジアですね。お店の打ち合わせをしていて、トラン・アン・ユン監督の「夏至」のフィルムの青さがいいなと思って、「青」というメインテーマを決めました。珈琲も植物としてとらえたいと思いまして、焙煎したコーヒーの瓶と野草の約瓶を両方並べておきたいというイメージがありました。オーガニックレーズンから酵母をおこしてつくったパンも植物のイメージです。

祖母の住まいがあった金沢の家は犀川の近くで白山が毎日見えました。金沢は車に数分乗ったら山なので、お正月にセリを積みに行ったり、おじいちゃんの畑に行ったり、わざわざ言葉に出すほどでもなく植物は身近でした。一方で、育った豊橋は、太陽が近くて海も近くてもっと大きな場所でした。いるだけで癒される場所。季節のにおいがいつもしていました。あたりまえで気がついていませんでした。

辺境の場所にある珈琲の産地のこと、なじみのある山深い土や草のイメージを抱いて、「青星」はうまれました。

その他、紹介いただいた本


『私の部屋のポプリ』熊井明子
季節の移り変わり、自然と植物の魅力を背景に、熊井明子さんの知のエッセンスがたくさん散りばめられています。早川茉莉さんをはじめ、城夏子さんや、片山廣子さんなどしなやかで、繊細で気骨のある女性たちのことを知るきっかけとなりました読み直す度に、新たな発見もあり、ずっと手元に置いておきたい大切な一冊です。


『朝ごはんの空気を見つけにいく』堀井和子
姪っ子からのアンケートから堀井和子さんの朝ごはんを訪ねる旅が始まります。パンやバター、器、食卓に並ぶもの朝ごはんに纏わる全てのものが大切に愛おしく感じます。


『2016〜 Michio Fukuoka』Fält books
つくらない彫刻家、福岡道雄さんの暮らしの風景と福岡さんの日々が綴られています。「つくることよりも考えることが大事」「つくるべきかつくらざるべきか」。福岡さん直筆の文字からは自分自身に問いかけ続けることをやめない歳を重ねても瑞々しさと気骨のある福岡さんの想いが沁みわたります。東泰秀さんが撮影される風景も福岡さんの愛用品や、日用品までもが作品として語りかけてくれるような温かな佇まいを感じます。


青星
〒543-0043 大阪市天王寺区勝山4-6-11
電  話:06-6776-2593
営業時間: 11:30~18:00
定休日 : 火曜・水曜
最寄駅 :JR環状線 桃谷駅


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2023.02.01
インタビュー・構成:福島杏子(casimasi)
写真:米田真也


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