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わたし王国

世の中のものさしではかると、わたしもいよいよ「いい大人」とされる年齢に差し掛かっている。(本当はそんな尺度は好きではないが)平均初婚年齢を上回り、そして自らも2人の子を成し、やれ小学校の役員だの、教育費の積立だの、それなりの責任も背負っている。普段は意識しないけれど、ふっとした折に、肩にのしかかる重みに顔をしかめることもある。でも次の瞬間には、やはり何事もなかったかのようにまた歩きはじめる。「大人」のみちを外れないように。

それなのに、わたしは未だに「自分は何者か」という問いに答えられない。答えるもなにも、もはや今の姿が「何者」に他ならないのだけれど、それすら上手く認識出来ていない節さえある。「ケーキ屋さん」や「お医者さん」といった、子どもの頃の無邪気な将来の夢にも近しい追うべき何かを常に探しているような塩梅である。すでに「サラリーマンの端くれ」で「二児の母」たるわたしが「何者」かになるための通過点に過ぎないとすれば、わたしの人生は目的地のない、つまりずっと「行き」の道のりであるということになってしまう。あてのない旅。

自分がどうありたいか、という問いを延々と繰り返していると、家族のために慌ただしくいくつものオムレツを焼く生活も、ひとり気の向くままに瀟洒なワインバーでしっとり時間を費やす生活も、ホテルのモーニングの卵料理のように同列の選択肢のような錯覚を起こしてしまう。実際のところは、終業後に迎えを待つ子どもかワインバーかを選ぶなんて余地は与えられないに決まっている(スクランブルエッグ一択のモーニング)。なのにわたしは、マンションの窓に灯る誰かの生活のあかりを眺めているかのごとく、自分の毎日をどこか人ごとのように、遠くに感じてしまう時があるのである。

今日の続きの明日ではなく、明日はまっさらなThe brand new day。「ポーチドエッグ」でも「サニーサイドアップ」でも好きなものを選べるような心持ちでずっと生きてきた。子どもの頃から、日々の連続性に思い至ることなく、側からみれば脈絡のないものものを、その時の自らの興味や関心に沿って選びとってきた。(なかには、当然こちらが望んでも選べないものもあった)そして、生来の飽き性も相俟って、メニューにはないフレンチトーストを食べたくてたまらない、子どもじみたわがままを拗らせてしまったわたしがここにいる。

決して今の生活に不満があるわけではない。健康な子どもたちと、贅沢はできないけれど、彼らを育てていくのには充分な仕事。自分が選んできたもの、そしてその中で恵まれたもので成り立っている生活である。その一方で、知らないどこかでもうひとりの自分が、違った人生を歩んでいるというようなことを想像してしまう。未練がましいわたしのこと、かつて好きだった人ともし一緒になっていたらとか、「迷ったけれど選ばなかった選択」をした自分の分身が生き別れて細々と増殖していたならば、そろそろ地球は「わたし王国」になる頃だろう。

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